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# 第一話 おかえりを言う前に
兄の腕は、記憶より少し太くなっていた。
ニキビ・カワセミはユッケを抱きしめたまま、肩を震わせている。
「兄ちゃん、苦しい」
「うるさい。二度と離すか」
「このままだと、再会してすぐ窒息死する」
カワセミは慌てて腕を緩めた。
「本当にユッケなんだな」
「名字を確認する?」
「それは偽物でも名乗りたくないだろ」
いつもの返しだった。
二人は泣きながら笑った。
病室には父と母もいる。
母は口元を押さえ、何度もユッケの名を呼んでいる。父は近づこうとして、足が動かないようだった。
ユッケも二人のもとへ走りたかった。
だが病室の中央では、黒瀬奈緒の体が宙に浮いている。
瞳は黒く染まり、髪は情報の触手となって壁や医療機器へ伸びていた。
『第一世界の再構築を開始する』
無数の観測者が、奈緒の口で話す。
窓の外では東京の空が割れ、異世界の魔物や建物が不規則に現れては消えている。
制御されない世界融合が始まっていた。
「父さん、母さん」
ユッケは二人を見る。
「ただいまは、もう少し待って」
母は涙を拭き、うなずいた。
「行ってらっしゃい。今度は、必ず帰ってきて」
「うん」
ユッケの隣には、異世界の肉体を持つノアが立っている。
目の前にあるのは、彼女の日本の体だ。
「あれが、私」
ノアは自分と同じ顔を見つめた。
「怖いか?」
「怖い。戻れば、この体も魔王の力も失うかもしれない」
「俺も力を失うかもしれない」
「なら、二人で普通になるか」
ノアが手を差し出す。
ユッケはその手を握った。
「普通も、結構難しいぞ」
二人は最後の戦いへ向き直った。
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# 第二話 東京に魔物が現れた日
観測者は病院だけでなく、東京中の情報機器を支配していた。
信号機が一斉に消え、スマートフォンには黒い紋章が表示される。駅の電光掲示板から魔物が実体化し、道路へ降り立った。
混乱する街へ、ロクメが飛び出す。
六つ目の巨狼を見た人々が悲鳴を上げた。
「逃げなくていい! 味方です!」
ユッケが叫ぶ。
「その説明で安心するか?」とカワセミ。
ロクメは倒れたバスを押し戻し、乗客を救出した。
プルは無数の分身体となり、停止した信号機の代わりに赤、青、黄色へ変色して交通を整理する。
オルドは崩れた病院の入口を支え、患者たちを外へ運ぶ。
フェンリルは空間の裂け目を食べ、無秩序な融合を閉じていく。
アポカリプスがユッケの頭上で胸を張った。
『我も活躍するぞ』
「燃やすなよ」
『少しくらいなら』
「絶対に駄目だ」
幼竜は不満そうに、火災現場の炎だけを吸い込んだ。
ニュースのヘリコプターが上空を飛ぶ。
その映像は全国へ生中継された。
画面には、異世界の制服を着た中学生と、六つ目の狼、巨大甲冑、神獣、スライムが映っている。
アナウンサーは混乱しながら原稿を読む。
『現場で人命救助を行っている少年は、数か月前に事故で亡くなったとされる……ニキビ・ユッケさんとみられます』
日本中が、妙な名字を耳にした。
学校の同級生たちも画面を見ていた。
かつて名前を笑った少年が、東京を救っている。
「あいつ、本当に異世界転生してたのかよ」
誰かがつぶやいた。
別の生徒が答える。
「しかも、めちゃくちゃ強くなってる」
ユッケはそんなことを知らず、病院屋上の巨大な黒い杭を見上げていた。
第七観測杭は、東京スカイツリーよりも高く成長していた。
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# 第三話 異世界へ救援要請
第七杭を壊せば、日本中の情報網が停止する。
交通、医療、金融、水道、電力。すでに杭と接続された設備は、単純に切り離せば大混乱を起こす。
「杭を壊す前に、日本側の機能を別の場所へ移さないといけない」
カワセミがノートパソコンを開いた。
「何日かかると思ってる。全国のシステムだぞ」
「全部を理解する必要はない。つながりだけ移す」
ユッケは召喚録を開く。
異世界にはリリアナ、ミア、レオン、セレス、十二神が残っている。
しかし日本との扉は閉じた。
《接続率:49%》
世界接続には両世界の同意が必要だ。
日本側は、まだ異世界の存在を知ったばかり。政府も人々も、同意などしていない。
「なら、まず見てもらう」
ユッケは生中継中のカメラへ向き直った。
「俺はニキビ・ユッケ、十四歳です」
日本中の画面に顔が映る。
「死んだあと、アルディアという世界へ転生しました。今、日本とその世界が無理やり一つにされようとしています」
大人たちは信じないかもしれない。
それでもユッケは、自分の言葉で話した。
「俺がやりたいのは、日本へ魔物を連れてくることでも、異世界の土地を奪うことでもありません。最初は、人が歩いて通れる小さな門を一つだけ作ります」
魔力も科学技術も、勝手に持ち出さない。
互いの世界を壊す利用は認めない。
問題が起きれば門を閉じる。
「でも今だけは、向こうの仲間の力を借りなければ、日本を救えません。信じてくださいとは言いません。助けを呼ぶことを、許してください」
画面の向こうで、誰が最初に反応したのかは分からない。
インターネット上に、短い言葉が現れた。
――呼んで。
次々に同じ言葉が投稿される。
――助けてください。
――異世界の皆さん、日本を助けて。
政府の緊急対策本部も、限定的な接続を承認した。
《第一世界の暫定同意を確認》
ユッケは召喚録を空へ掲げた。
「来い、灰組!」
巨大な魔法陣が東京の空へ広がる。
ミア、リリアナ、レオン、セレス、グレゴール。
その後ろにはアルベルト率いる王国の魔術師、ヴァルガス率いる魔族、ルルと獣人たち、十二神が並んでいる。
「遅い」とミア。
「日本へご招待いただき、光栄ですわ」とリリアナ。
「ここ、本当に異世界なのか?」とレオン。
セレスは自動販売機を見つめている。
「この箱、治療できますか?」
「飲み物を売る箱だ」
再会を喜ぶ暇はなかった。
二つの世界の仲間が、最後の杭を囲んだ。
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# 第四話 黒瀬奈緒を救え
杭の中心には、日本の奈緒がいる。
肉体を守ったまま観測者だけを追い出すには、ノアの魂を元の体へ戻し、内側から抵抗させる必要がある。
「戻ったら、異世界の肉体は消える」
ノアが言う。
「角も翼も魔法も、全部なくなる」
ミアがノアの手を握った。
「忘れる?」
「忘れない」
「本当に?」
「五百年分の記憶だぞ。簡単には消えぬ」
ノアはミアを抱きしめた。
次にリリアナを見る。
「恋敵は、私の勝ちでよいな?」
「まだ決まっておりません」
リリアナは泣きながら笑った。
「日本へ行ける門が残るのでしょう? いつでも奪いに参りますわ」
「望むところだ」
ノアはユッケの前へ立つ。
「向こうで目覚めた私が、ノアと違う人間に見えたら?」
「もう一度、黒パンを半分やる」
「日本には、もっとおいしい物があるのだろう?」
「じゃあ、おにぎり」
「約束だ」
ユッケが召喚録を奈緒の胸へ置く。
《魂魄再統合を開始します》
異世界のノアの体が、足元から光へ変わる。
最後に彼女はユッケの頬へ口づけた。
「続きは日本で、と約束したからな」
「今のは頬だけど」
「文句を言うな!」
ノアは顔を赤くしたまま、光となった。
光が黒瀬奈緒の体へ入る。
閉ざされていた瞳の奥で、十四歳の少女が目を覚ました。
白い病室の記憶。
観測施設。
魔族の戦争。
黒パン。
母のおにぎり。
ユッケとの約束。
すべてが一つにつながる。
『出ていけ』
奈緒は体内にいる観測者へ命じた。
『この体も、魔王としての人生も、私のものだ!』
黒い瞳に、赤い光が戻った。
奈緒の内側から、無数の黒い影が追い出される。
「今だ、ユッケ!」
その声は、魔王ノアと黒瀬奈緒、両方の声だった。
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# 第五話 最後の観測杭
第七杭へ、二つの世界の力が集まる。
ミアとルルが魔力の接続を断つ。
カワセミと日本の技術者たちが、情報網を杭から切り離す。
リリアナと十二神が、日本の電力や医療機能を一時的な魔法網へ移す。
セレスが損傷した設備の時間を戻す。
レオンとヴィクトルが、実体化した観測者の影を切り払う。
アルベルトは両世界の代表者へ停戦と協力を呼びかける。
ロクメ、プル、オルド、フェンリル、アポカリプスがユッケを杭の頂上へ運ぶ。
未来の観測者たちが一つの巨人となって立ちはだかった。
『我々は人類を救うため、魔力を求めた』
「そのために、過去の人間や異世界を犠牲にした」
『我々の時代には、ほかに方法がなかった』
「本当に全員で探したのか?」
ユッケは問いかける。
「誰か偉い人が決めた二択を、仕方ないと思っただけじゃないのか」
観測者の巨人が攻撃を止めた。
『ならば、お前はどうする。杭を壊せば我々の時代は滅びる』
「つなぐ」
「未来の日本も、今の日本も、アルディアも。奪うためじゃなく、助け合うためにつなぐ」
『我々を許すのか』
「許すかどうかは、被害を受けた人たちが決める。まず、やったことを全部話してもらう」
巨人の中で、いくつもの声が争い始めた。
なお支配を続けようとする者。
もう終わりにしたい者。
自分たちの過ちを認める者。
観測者も一枚岩ではなかった。
一人の少女の姿をした情報体が、巨人から離れる。
『私は、話したい』
次々に影が離れていく。
最後まで残った支配派を、十二神の新しい檻が包んだ。
ユッケは錆びた短剣を杭へ突き立てる。
最初にロクメを倒した、ただの短剣。
神剣でも伝説の武器でもない。
「終わりだ!」
第七観測杭が砕けた。
《全観測杭の消滅を確認》
《世界接続条件を達成しました》
《最終召喚を実行できます》
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# 第六話 異世界・日本を召喚せよ
空中に、三つの選択肢が現れた。
《一、神として永遠の命を得る》
《二、すべての世界を支配する》
《三、二つの世界を対等に接続する》
ユッケは迷わず三つ目を選ぶ。
《対価として、万象召喚録および全召喚能力を失います》
《登録個体との契約は解除されます》
《実行しますか?》
召喚録には、これまで出会ったすべての仲間が記録されている。
力を失えば、もう世界最強ではない。
ロクメを呼ぶことも、プルを守ることもできない。
「みんなは、どうなる?」
《契約から解放され、自らの意思で生きます》
ロクメがユッケの頬を舐めた。
――呼ばれなくても、そばにいる。
思いが伝わる。
プルが頭の上で跳ねる。
オルドが胸を鳴らす。
《ユッケ、おうち、かえる》
フェンリルは鼻を鳴らした。
『契約がなくとも、我は神獣だ。会いたければ門を歩いて渡る』
アポカリプスが翼を広げる。
『召喚されずとも、勝手に遊びに来てやる』
「お前たち、本当に自由だな」
『お前がそうしたのだ』
ノア――黒瀬奈緒が、病院の屋上から手を伸ばす。
カワセミ、父、母も手を重ねる。
異世界側では、ミア、リリアナ、レオン、セレス、グレゴールが手を掲げた。
二つの世界から、同意の光が集まる。
《最終召喚対象を指定してください》
ユッケは空を見上げた。
「万象召喚録、最終召喚」
日本の街と、アルディアの草原。
二つの景色が空の両側へ広がる。
「来い――異世界・日本!」
召喚録が無数の光へ変わった。
世界を衝突させるのではない。
一方を他方へ従わせるのでもない。
二つの世界の間に、一本の道を召喚する。
東京郊外の広場に、白い石造りの門が現れた。
門の向こうには、アルディア王国の草原がある。
リリアナが一歩、門を越える。
日本の地面へ降り立った。
ミア、レオン、セレスも続く。
「ユッケ」
ミアが駆け寄り、抱きついた。
召喚契約は消えた。
それでも、つながりは消えなかった。
《最終召喚、完了》
《職業“召喚士”を返還します》
《ニキビ・ユッケ:階級なし》
ユッケはただの十四歳へ戻った。
世界を救った、平凡な中学生になった。
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# 第七話 ただいま
すべてが終わった夜。
ユッケは家の前に立っていた。
見慣れた二階建ての家。
事故の日に投げ出した鞄が、玄関の棚へ置かれている。
靴を脱ぎ、居間へ入る。
食卓には四人分の夕食が並んでいた。
焼き魚、味噌汁、少し焦げた卵焼き。
特別な料理ではない。
母は何度も台所と食卓を行き来し、落ち着かない。父は新聞を広げているが、同じ行を読み続けている。
カワセミはソファで、限定ゲームの箱を抱えていた。
「ユッケ」
母が呼ぶ。
ユッケは、ずっと言いたかった言葉を口にした。
「ただいま」
母が抱きしめる。
父も加わる。
カワセミは恥ずかしそうに少し離れていたが、ユッケが手を伸ばすと、最後には三人まとめて抱きしめた。
「おかえり」
家族の声が重なった。
食事が始まる。
父は異世界の税制について尋ね、母はノアとの関係を聞きたがり、カワセミは魔王と付き合うなんて重すぎると笑った。
「まだ付き合ってない」
「告白し合ったんだろ?」
「何で知ってる?」
「奈緒さんから聞いた」
黒瀬奈緒は同じ病院で検査を受けている。体は一年以上眠っていたため、リハビリが必要だった。
「明日、会いに行く」
「彼女を待たせるなよ。俺みたいに」
カワセミは限定ゲームを差し出した。
包装は破られているが、中身はまだ起動されていない。
「一緒にやるぞ」
「遅くなって、ごめん」
「遅すぎるわ、馬鹿」
二人は夜遅くまでゲームをした。
ユッケは何度も負けた。
世界最強の召喚士だった力は、ゲームには何の役にも立たなかった。
それが、たまらなくうれしかった。
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# 最終話 初めまして、久しぶり
翌日。
ユッケは病院の中庭で、黒瀬奈緒を待っていた。
車椅子が近づく。
黒い髪の少女。額に角はなく、背中に翼もない。
顔はノアと同じだ。
けれど病院着を着ていると、ごく普通の中学生に見えた。
奈緒の母が少し離れ、二人きりにしてくれる。
ユッケは何と呼べばいいか迷った。
「ノア?」
少女は首をかしげる。
「何のこと?」
ユッケの胸が冷たくなる。
記憶を失ったのか。
奈緒は真顔を保とうとしたが、すぐに吹き出した。
「冗談だ」
その口調は魔王ノアだった。
「初めまして、ニキビ君」
彼女は手を差し出す。
「それとも――久しぶり、と言うべきかの?」
ユッケはその手を握った。
「見つけた」
「約束どおりだな」
「おにぎり、食べる?」
「その前に、もう一つの約束が残っている」
奈緒が車椅子から立ち上がる。
まだ足元は不安定だ。
ユッケが体を支える。
奈緒は彼の制服をつかみ、今度こそ唇を重ねた。
短いキスだった。
「続きは日本で。守ったぞ」
「ここ、病院だけど」
「細かい男だな」
中庭の門の向こうから、ミア、リリアナ、セレスが顔を出した。
「近い」とミア。
「抜け駆けですわ!」とリリアナ。
奈緒は余裕の笑みを浮かべる。
「日本では私が先輩だ」
「昨日まで眠っていただろ」とユッケ。
笑い声が中庭に広がった。
◇
それから、ニキビ・ユッケは平凡な人生を送った。
学校へ復学すると、長期欠席の分だけ勉強は遅れていた。
異世界では神々を説得できても、数学の証明問題は簡単にならない。
成績は中の下。
運動も中の下。
女子には――異世界にいたころほどではないが、そこそこモテた。
黒瀬奈緒もリハビリを終え、ユッケと同じ学校へ転入した。
昼休みには一緒に弁当を食べた。
奈緒は母の卵焼きを食べるたび、「国家滅亡級の味だ」と大げさに褒めた。
週末になると、世界門を通って異世界の仲間が遊びに来た。
ミアはユッケの家のソファを気に入り、リリアナは日本の学校へ交換留学し、レオンは剣道部で初心者に負けた。セレスは医学を学び始め、アルベルトは国際会議で初めて背広を着た。
ロクメは大型犬として登録しようとしたが、目が六つあるため保健所への説明に苦労した。
プルはニキビ家の風呂へ入り、排水口に詰まった。
オルドは災害救助隊で働き、フェンリルは月を食べないよう厳重に注意された。
アポカリプスはたこ焼きを気に入り、週に一度は屋台へ通った。
未来の観測者たちは裁きを受けたあと、枯渇した時代を救うための対等な支援協議へ参加した。
世界はすぐには理想郷にならなかった。
魔力を悪用する者も、科学技術を独占しようとする者も現れた。
そのたび、二つの世界の人々は門を閉じるのではなく、話し合って規則を作り直した。
ユッケには、もう召喚能力がない。
それでも必要とされれば会議へ出て、自分の意見を話した。
召喚とは、相手をこちらへ呼びつける力ではない。
離れている者の間に、つながりを作ること。
その力は、召喚録が消えてもユッケの中に残っていた。
◇
十数年後。
ユッケと奈緒は、小さな家で暮らしていた。
朝、目覚まし時計が鳴る。
ユッケは仕事へ行き、奈緒も自分の職場へ向かう。
夕方にはスーパーで買い物をし、どちらが夕飯を作るかで軽く言い争う。
休日には父母の家を訪ね、カワセミ一家とゲームをする。
英雄らしいことは、ほとんど何も起こらない。
ある夜、二人の子どもが尋ねた。
「お父さん、本当に異世界で世界を救ったの?」
ユッケは味噌汁を飲みながら答えた。
「さあ。全部、夢だったのかもしれない」
その足元で、六つの目を持つ老いた狼が尻尾を振った。
奈緒の額には、怒ったときだけ小さな角が現れる。
窓の外では、透明なスライムが洗濯物と一緒に干されていた。
「証拠だらけだけど」と子ども。
奈緒が笑う。
「お父さんは昔から、格好をつけたがるのだ」
「昔からって、いつから?」
「五百年ほど前からだ」
家族の笑い声が響く。
剣も、魔法も、神の力もない。
朝になれば仕事があり、宿題があり、洗濯物がある。
失敗も、喧嘩も、退屈な日もある。
それでもユッケは知っていた。
平凡な一日は、決して当たり前ではない。
「いい人生だった?」
奈緒が尋ねる。
ユッケは家族と、仲間と、二つの世界をつなぐ門を見る。
「うん。最高に平凡で、幸せな人生だ」
かつてF級と笑われた少年は、世界最強の力を失った。
そして代わりに、何より望んでいたものを手に入れた。
帰る家。
待っている家族。
ともに歩く人。
ユッケは奈緒の手を握った。
「ただいま」
「おかえり、ユッケ」
二人の声の向こうで、世界をつなぐ門が静かに輝いていた。




