第零巡 最後の朝
『ねぇ、アナタは"死にたい"って思ったことはある?』
人間関係、仕事、学校、将来への不安、いじめ、失恋……。
理由なんて何でもいい。
人は何かにつまずくと、簡単にそんな言葉を口にする。
――そんなに死にたいのなら。ちょっとだけ、『死んで』みる?
夢を見なくなったのは、いつからだっただろう?
周りの大人は「将来の夢を持て」と口を揃えて言うが、夢を持ったところで何になる?
現実は小説やゲームとは違う。
夢を叶えられるのなんて、才能のあるほんの一握りだけで
俺みたいな凡人が必死に頑張ったところで、できることなんてたかが知れている。
大半の人間は夢に敗れ諦め、流されるように生きていく――それが現実だ。
だったら最初から変な期待なんて持たず、適当に生きている方が楽なんじゃないかと俺は思う。
俺の名前は”真城 空”。
どこにでもいる、ごく普通の浪人生だ。
夢もない、これといった取り柄もなく、恋人もいなければ、親友と呼べる存在もいない。
――昔、誰かに言われた言葉に背を向けるように、今日も俺はいつも通り予備校へ向かう。
大学進学を選んだのだって、他にやりたい仕事が見つからなかったから、
格好良く言えば"自分探し"。だけど実際は、周りに流されただけだ。
……まぁ、その自分探しすら失敗しているけどな。
そこそこの学校を卒業して、それなりの会社に就職する。
きっと俺の人生は”その程度”で終わる、それが俺の限界、実につまらない人生だ……。
電車に乗るため、いつもの道を歩いていると、不意に前の茂みがガサリと揺れた。
「うぉっ!?」
反射的に足を止めると飛び出してきたのは、一匹の黒猫だった。
艶のある黒い毛並み。首輪は付けていないところを見ると、おそらく野良猫だろう。
「なんだ……猫か。朝から黒猫なんて、縁起悪いったらねぇな」
「にゃあ」
黒猫は俺を真っ直ぐ見上げ、小さく鳴いた。
その瞳は妙に澄んでいて、一瞬だけ見透かされたような気がした。
「腹でも減ってるのか? 悪いけど、今は何も持ってないんだ、」
苦笑しながら声を掛けると、
「にゃー」
返事をするように鳴きながら、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
人を怖がる様子はまるでなく、のまま足元へ擦り寄ってくる。
多分、猫なりの挨拶なんだろうけど自然と頬が緩み、しゃがみ込んで頭をそっと撫でてやる。
「へぇ…猫なんて飼ったことないけど……こうしてみると結構可愛いもんだな」
気持ち良さそうに目を細める黒猫を見ていると、少しだけ心が軽くなる。
……いやいや。癒やされてる場合じゃない!!
「って、こんなところで道草食ってる場合じゃなかった!!」
慌てて立ち上がり、駅へ向かって駆け出す。
「にゃあ」
後ろから、再度静かな声で黒猫が鳴いた。
まるで見送るような鳴き声で――
「……変な猫」
首を傾げながらも気にすることなく、再び前を向いて走る。
その途中だった。
「きゃっ!」
「あっ、悪い!」
角を曲がった瞬間、同じように走っていた女子学生と肩がぶつかってしまった。
衝撃で彼女の鞄が開き、中から何冊もの本が歩道へ散らばる。
「しまっ――」
思わず足を止めかけるが、駅のホームから聞こえてきた発車ベルが、その迷いを断ち切った。
「……ごめん!」
短く謝ることしかできず、そのまま駅へ向かって走り抜ける。
「はぁ……はぁ……ギリギリ、間に合った……」
階段を駆け上がり、発車寸前の電車へ滑り込むと、
空いている席へ腰を下ろし、大きく息を吐いた。
この電車にさえ乗ってしまえば、終点までは一本、少しくらい寝ても問題ない。
俺は背もたれに体を預けると、張り詰めていた力が抜けていく。
ガタン、ゴトン。
一定のリズムで揺れる車内。
その心地よい振動に身を委ねるうち、ゆっくりと意識が遠のいていった。
――俺は、まだ知らなかった。
いつもと変わらない朝、当たり前の日常が始まるだけだと思っていた。
このときまでは……




