第一話 ノイズは鳴り始めた
潮の匂いをふくんだ生ぬるい風が、開け放した窓から教室へ吹き込んでくる。
市立海音中学校に入学して、もうすぐ二ヶ月。
それでも相葉奏は、いまだにこの場所の空気に馴染めずにいた。
糊のきいた新品の制服。
やけに明るいクラスメイトたちの声。
誰かと誰かがすぐに繋がって、当たり前みたいに輪ができていく教室の空気。
そのどれにも、うまく入っていけない。
そんな自分のことを、奏は少し嫌っていた。
(……今日も、誰とも話せなかったなぁ)
身長は138センチ。
中学一年の男子の中では、かなり小さい。
席は前から二番目。
くじ引きで決まったそこは、前の女子が少し姿勢を伸ばすだけで黒板がすぐ隠れてしまう。
けれど、別に困りはしなかった。
どうせ授業なんて上の空だし、今の奏に必要なのは勉強よりも、目立たずにやり過ごす技術のほうだった。
「どうせ僕なんて」
それが、相葉奏の口癖だった。
誰にも期待されないために。
誰にも傷つけられないために。
そうやって自分を先に小さくしておくための、情けなくて、みじめで、でも手放せない呪文だった。
放課後のチャイムが鳴る。
担任の「はい、帰りのHR終わりー」を合図に、教室の空気が一気にほどけた。
椅子を引く音。
友達同士の笑い声。
部活の待ち合わせ。
鞄のファスナーを閉める音。
あちこちで放課後が弾けるなか、奏だけが、なるべく目立たないようにそっと腰を浮かせた。
心臓が、いやな打ち方をしていた。
理由は簡単だ。
教室の隅。
掃除用具入れの横。
そこに、爆弾みたいに目立つものを置きっぱなしにしてしまったからだ。
茶色い革張りの、使い込まれたギターケース。
昨夜、家でギターを弾いていたとき、どうにも調子の悪いところがあった。
自分でなんとかしようと見てみたけれど、結局どこが悪いのかも、どう直せばいいのかもわからなかった。
だから今日は、思い切って音楽の先生に見てもらおうと、家から持ってきた。
――持ってくるまでは、よかった。
問題は、そのあとだ。
音楽準備室の前までは行けた。
でも、そこで足が止まった。
十分近く、扉の前でうろうろして、ノックしようとしては手を引っ込めることを繰り返して、結局最後まで叩けないまま逃げ帰ってきてしまった。
(何やってるんだよ、僕……)
目立ちたくない。
誰の目にも留まりたくない。
それなのに、あんな大きな荷物を教室に持ち込んだ時点で、もう失敗している。
授業中は、奇跡みたいに誰にも突っ込まれずに済んだ。
けれど問題は、ここからだった。
あのケースを背負って、ざわつく教室を横切り、昇降口までたどり着かなければならない。
奏にとってそれは、敵地のど真ん中を丸腰で突っ切るのと同じくらいの難行だった。
「……あ、そうだ。一個だけ連絡」
帰る気満々だった生徒たちを、担任の気の抜けた声が引き止める。
「再来週から海音祭の実行委員が動き出すからなー。各クラス、出し物のアイデア考えとけよー。まだすぐ決めるわけじゃないけど、何やりたいかくらいは今のうちに出せるようにしとけー」
海音祭。
海音中学校の学園祭だ。
その単語が出た瞬間、教室の空気がふわりと浮いた。
「学園祭かー」
「去年、先輩ら喫茶店やってたよな」
「うちのクラス何やるんだろ」
「出し物ってめんどくさそー」
あちこちから飛ぶそんな声を、奏は遠くに聞いていた。
学園祭だろうが出し物だろうが、今の奏にはそれどころではない。
とにかく、あのギターケースを誰にも見つからないうちに回収して、この教室から消えたい。それだけだった。
けれど――。
教室のいちばん後ろで、ガタン、と大きな音がした。
「先生! ひとついいっすか!」
やたら通る声だった。
明るくて、でかくて、まっすぐすぎる。
太陽みたいにうるさいその声の主を、奏は知っている。
火野樹。
小学校が同じだったから、顔と名前くらいは知っていた。
けれど、同じクラスになったのは中学に入ってからが初めてだ。
奏とは、何もかもが正反対の人間。
いつだって人の輪のど真ん中にいて、本人はそこまで大柄でもないくせに、なぜか誰よりも場所を取って見える。
声も、態度も、感情も、何もかもが大きい。
「んー? どうした、火野」
担任が面倒くさそうに顔を上げる。
樹は待ってましたとばかりに胸を張った。
「俺、海音祭のステージ出ます!」
一瞬、教室がしんと静まり返った。
次の瞬間、あちこちで吹き出す声が上がる。
「は?」
「急になんだよ」
「何やんの、お前」
「コントでも始めんのか?」
樹は、にかっと笑った。
八重歯がきらりとのぞく。
「バンド! 演奏して、そのまま優勝までいただく予定っす!」
「予定だけはでかいな……」
担任まで半分笑っていた。
「火野。言うのは自由だけどな。優勝とか言うなら、せめて人数そろえてからにしろ」
「そろえるために今言ってるんじゃないですか!」
びしっと人差し指を立てて、樹はさらに声を張る。
「ちなみに俺、ドラムやります! そこはもう決定で!」
「叩けんのか?」
「たぶん!」
「たぶんかよ!」
「雑っ!」
「勢いしかねえ!」
教室がどっと笑いに包まれる。
けれど、樹はまるでひるまなかった。
むしろ笑われるほどエンジンがかかるのか、ますます楽しそうに肩を揺らす。
「ノリはあります! 勢いもあります! あと気合いもあります!」
「中身ほぼ一緒じゃねえか」
「雑な言い換えで押し切るな」
「で、他は? お前ひとりでバンドやんの?」
樹はにやりと笑って、胸を張った。
「やるわけねーだろ! ちゃんと俺は考えてるっつの! 実はもう、ひとり目星つけてある!」
「おー、誰だよ」
「また適当言ってんだろ」
「どうせまだ声もかけてねえんじゃね?」
「かける! 今からでもかける! ていうか、絶対メンバーにするし!」
また笑いが起こる。
けれど、その瞬間。
奏の背中を、ぞわりと嫌なものが走った。
樹が、わざとらしく教室を見回す。
あっちかな、こっちかな、とでも言いたげに、芝居がかった調子で視線を泳がせる。
「んー……誰にしよっかなあ」
からかうような声に、教室がまた少しだけざわついた。
けれど奏にはわかった。
あれは迷っているふりだ。
最初から、決めている目だった。
(やめて)
胸の奥で、警報が鳴る。
(こっち見ないで)
奏は反射的にうつむいた。
心の中で、いつもの呪文を唱える。
(僕はここにいない……空気だ……石ころだ……だから――)
樹の視線が、教室のあちこちを泳ぐ。
ふざけるみたいに、わざとらしく。
けれどその目は、獲物を探している目だった。
「さて、と。誰にしよっか――」
そこで一拍。
泳いでいた視線が、ぴたりと止まる。
教室の隅。
置かれたギターケース。
そのすぐそばで、身を縮めていた奏。
にやり、と樹の口元がつり上がった。
「――な!」
その短い呼び声だけで、奏の心臓がどくんと跳ねた。
――違う。
今のは、僕じゃない。
僕に向けた声なわけがない。
樹はいつもああやって、誰にでもでかい声を投げる。
今だって、きっと教室のざわめきに向かって適当に言っただけだ。
そうだ。
絶対に違う。
奏はうつむいたまま、必死にそう言い聞かせる。
聞こえなかったことにしろ。
気づかなかったことにしろ。
今なら、まだ逃げ切れる。
クラスのあちこちでは、「なんだよ、ただの匂わせかよ」「誰かメンバー入ってやれよ」と面白がる声が、まだざわざわと続いていた。
その空気を手で払うみたいに、担任がひとつ息をつく。
「はいはい、そこまで。火野、そういう寸劇はいいから、ほんとにやるんなら期間内にメンバー集めて、ちゃんと申し込めよ」
「はい!」
樹の返事だけが、やけに元気だった。
まずい。
担任が「解散!」と声を上げた瞬間、奏は弾かれたように動いた。
今だ。逃げろ。
教室の隅へ駆け寄り、ギターケースをひったくるように背負う。
そのまま誰とも目を合わせないようにして、奏は教室を飛び出した。
廊下へ出る。
ざわついた教室の声が一気に遠ざかる。
それでも、背中に視線が刺さっている気がして、足を止められなかった。
(逃げなきゃ)
早足。
けれど、それだけじゃ足りない。
奏はそのまま、半ば駆けるように廊下を進んだ。
「待てって! 相葉ー!」
背後から響いた声に、心臓がひっくり返りそうになる。
(やっぱり僕じゃん……!)
思わず小さく息を呑み、奏はさらに足を速めた。
階段まで行けば、どこかに紛れられるかもしれない。
そう思って角を曲がった、その瞬間。
「おっと!」
がしっ、と手首を掴まれた。
「ひゃっ……!」
強い力に引かれて、奏の体がたたらを踏む。
危うくギターケースごとひっくり返りそうになったところを、反対の手でどうにか壁に支えた。
恐る恐る振り返る。
そこには、息を弾ませながらも、満面の笑みを浮かべた火野樹がいた。
「っはー、速えな! 逃げ足!」
「あ……」
喉が引きつって、声にならない。
樹は掴んでいた手首をようやく離すと、覗き込むように顔を寄せた。
「相葉。俺のこと覚えてる? 小学校一緒だった火野樹!」
「あ……う、うん……」
「だよな! じゃあもう友達だな。今日から奏って呼ぶわ!」
「……え?」
あまりにも当然みたいに言われて、奏は目を瞬かせた。
いや、よくない。
全然よくない。
覚えていたら、いきなり名前呼びでいいことになるのか。
その距離感は、どう考えてもおかしい。
けれど、そんな奏の困惑なんて最初から存在しないみたいに、樹の視線はもう奏の背中へ向いている。
正確には、そこに背負われたギターケースへ。
「で、それ。やっぱギターだろ?」
「え……あ、これは、その……」
「だよな!」
びしっと指を差され、奏は反射的にケースを庇うように身をよじる。
けれど、そんな反応をした時点でもう答え合わせは済んでいた。
樹はにやりと笑う。
「やっぱそうか。よし、当たり」
「……当たり?」
「ああ。怜の予想、正解」
怜。
聞き覚えのない名前に、奏は目を瞬かせた。
誰のことかもわからないまま、樹はそんな戸惑いなど最初から見えていないみたいに、当然の顔で話を続ける。
「実はさ、ちょっと前からお前のこと見てたんだよ」
「え……」
「怜が言ってたんだよ。『お前のクラスに、たぶんギター触ってるやつがいる』って」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「最初は、ほんとかよって思ってたんだけどさ」
樹は、にっと笑う。
「授業中、たまに左手だけ動いてただろ。机の下で、コード押さえるみたいに」
息が止まる。
無意識の癖だった。
考えごとをしている時や、頭の中でフレーズをなぞっている時、左手の指だけが勝手に動く。
まさか、そんなところを見られていたなんて思わなかった。
「あと、右手で机ちょっと叩いてただろ。リズム取ってる感じで。で、今日それ持ってきてるの見て、もう確信した」
樹は得意げに胸を張る。
逃げ道が、ひとつずつ塞がれていく。
「だから決めた。今日、誘う」
「さ、誘うって……」
「バンドに決まってんだろ!」
あまりにもまっすぐに言われて、奏の思考が一瞬止まる。
「俺ドラム。怜ベース。で、奏ギター。ちょうどいいじゃん!」
「ちょうどよくないよ!」
反射的に声が飛び出した。
樹はきょとんと目を丸くしたあと、すぐににっと笑う。
「なんでだよ。どう考えてもハマってんじゃん」
「そ、そういうことじゃなくて……!」
下校中の何人かが、面白がるようにこちらを見る。
やめてほしい。
見ないでほしい。
放っておいてほしい。
「む、無理だよ……! 僕、全然弾けないし……人前とか、ほんとに無理だから……!」
「弾けないやつが、そんなケースを身体の一部みたいに背負うかよ」
「そ、そういう問題じゃ……」
「そういう問題でもあるだろ」
樹はあっけらかんと言い切る。
「怜、第三音楽室で待ってるし。あんま待たせると、あとでうるせえんだよ」
「……え?」
「いいから来いって! 絶対、後悔はさせねえから!」
「ちょ、ちょっと、どこ行くの!?」
樹は有無を言わせず、奏の手首を掴んだ。
その力は強くて、奏の弱々しい抵抗なんて最初から織り込み済みみたいだった。
「ま、待って! ギターぶつかる……!」
「おっと、悪ぃ!」
悪びれた声だけ置いて、樹はまったく止まらない。
教室に残っていた生徒たちが、「お、樹が誰か連行してる」「あれ、相葉じゃね?」と面白がって囃し立てる。
そのひとつひとつが、針みたいに背中へ刺さった。
恥ずかしい。
情けない。
もう泣きそうだった。
(どうして僕なんだよ……放っておいてよ……)
連れてこられたのは、旧校舎三階のいちばん端。
今はほとんど使われていない、第三音楽室だった。
古い木の匂いがする。
長く閉め切られていた部屋特有の、乾いた埃っぽさが鼻の奥にまとわりつく。
陽の差し込みにくいその場所は、季節外れにひんやりとしていた。
「ここだ! 入るぞ!」
樹が勢いのまま、ドアを開け放つ。
中には、ひとりの男子生徒がいた。
窓際に体を預け、分厚い洋書を開いている。
こちらが入ってきた気配にも、すぐには顔を上げない。
「……樹か」
平坦な声だった。
その視線が、ようやく本から離れる。
まっすぐ奏へ向けられた目は、人を見るというより、標本でも観察するみたいに温度がなかった。
「……遅い。五分遅刻だ」
「おう。けど、そのぶんちゃんと拾ってきた。新メンバー候補!」
樹に背中を押され、奏はよろめきながら部屋の中へ踏み込んだ。
「あ……」
知っている顔だった。
月島怜。
全国でもトップクラスの成績を取り続ける秀才。
小学校の頃から“神童”と呼ばれていた、有名人だ。
身長は奏より少し高いくらい。
それなのに、部屋の温度が一段下がったように感じるのは、まとっている空気のせいだった。
樹が火なら、怜はよく研がれた刃物に近い。
「……相葉奏」
怜が、確かめるようにその名を口にする。
「え……僕のこと、知ってるの?」
怜は一拍だけ黙った。
それから、そっけなく言う。
「少しは」
それ以上は語らない。
だが、最初から名前くらいは知っていて当然だとでも言いたげな口ぶりだった。
怜の視線が、奏の背中のケースへ落ちる。
「その体格で、そのケース。レスポールか」
「え……あ、うん」
「なるほど」
短い一言だけで、何かひとつ結論に辿り着いたような顔をする。
「樹から話は聞いている。もっとも、こいつの報告は八割が騒音だが」
「ひどっ!」
「だが、君がギターに触れている人間らしい、というところまでは把握した」
怜は淡々と言った。
「授業中の癖も、今日ギターを持ってきたことも、全部こいつから聞いている」
横で、樹がうんうんと大きく頷く。
「そういうこと! で、俺が見た感じ、やっぱ当たりだな」
勝手に話が進んでいく。
奏はただ、口をぱくぱくさせた。
どうする。
このままだと、本当に逃げられなくなる。
胸の奥が、いやな汗でじわじわ冷えていく。
嘘はよくない。
そんなこと、わかっている。
けれど今ここで本当のことを認めたら、もっとまずい気がした。
「あ、あの……違うんだ」
「ん?」
樹が首をかしげる。
その横で、怜だけが黙ったまま奏を見ていた。
「こ、これは……僕のじゃなくて」
言ってしまった、と思った。
けれど、一度こぼれた言葉は止まらない。
「叔父さんに預かってるやつで……ちょっと調子が悪いから、音楽の先生に見てもらおうと思って……それで、持ってきただけで……」
我ながら苦しい。
苦しいけれど、それでも押し通すしかなかった。
「へえ?」
樹は意外そうに目を丸くした。
けれどすぐに、「でもさ」と何か言いかける。
その前に、答えたのは怜だった。
「嘘だな」
ひゅっ、と喉が鳴った。
「……え」
怜の視線が、奏の顔ではなく、肩から背中へ流れる。
ケースを支える腕。
食い込んだストラップ。
重さを逃がすようにわずかに傾いた体の軸。
「ケースの持ち方だ」
怜は、感情の起伏をほとんど感じさせない声で言った。
「重さに振り回されていない。少なくとも、今日初めて持った手ではない」
図星だった。
頭の中が、すっと真っ白になる。
「それに、借り物を運んでいる人間の手つきでもない」
怜の視線が、奏の左手に止まる。
「傷つけないように気をつけている、でもない。落としたら困る、でもない。身体が無意識に庇っている。それは、自分の楽器を持つ人間の動きだ」
「…………」
反論できなかった。
できるはずがなかった。
さっきまで必死に組み立てていた嘘が、薄い紙細工みたいに、いとも簡単に破れていく。
「お、お前すげえな、怜……なんかあれだ、名探偵の……シャーロック・ホルモン!」
「ホームズだ」
怜は間髪入れず訂正した。
「それそれ! ってことは、やっぱそれ、奏のギターじゃん!」
「う……」
逃げ道が、とうとう消えた。
息が詰まる。
見ないでほしい。
これ以上、勝手に決めないでほしい。
けれど樹は、そんな奏の願いなんてまるで知らないみたいに、太陽みたいな笑顔でぐいっと顔を寄せてくる。
「よし、決まり! じゃあ次は、ほんとに弾けるか見せてもらおうぜ!」
「え……」
最悪の一言だった。
背筋が、ぞくりと冷える。
「僕も興味がある」
そう言って、怜は当然みたいな手つきで本を閉じた。
「見せてくれないか」
「え……」
「相葉君の演奏を」
樹の言葉は勢いだった。
けれど、怜の言葉は違う。
静かなのに、逃がす気がまるでない。
断られることなんて、最初から想定していない言い方だった。
奏は反射的に一歩下がる。
「む、無理だよ! 嘘ついたのは謝るけど……でも、僕ほんとに下手だし……!」
声が裏返る。
みっともないと思う余裕すらなかった。
「帰る……帰らせて……!」
本能が、この場は危ないと訴えていた。
奏は踵を返し、ドアノブに手を伸ばす。
けれど、その前に樹の腕が行く手を塞いだ。
ドンッ、と大きな音がして、樹の手のひらがドア板を叩く。
奏の小さな体は、ドアと樹のあいだに綺麗に閉じ込められてしまった。
「だーめ」
至近距離で、樹がにかっと笑う。
「ここまで来たんだし、一曲くらい聴かせてくれよ! 俺、ずっと気になってたんだ。奏がどんな音鳴らすのか!」
助けを求めるように怜を見る。
だが怜は、わずかに肩をすくめただけだった。
「樹は一度動き出すと止まらない。諦めたほうが早い」
「うう……」
逃げ場は、完全になくなった。
目の前には出口を塞ぐ樹。
背後には冷たい目の怜。
喉がからからに乾く。
(……やるしか、ないのか)
奏は諦めたように息を吐くと、おずおずとギターケースを床へ下ろした。
震える指で留め金を外す。
パチン、パチン、と乾いた音が静かな部屋に響く。
蓋が開く。
そこに収まっていたのは、使い込まれたチェリーサンバーストのレスポールだった。
父の形見。
奏の小さな体には、大きすぎて、重すぎるギター。
「うお……! かっけえ!」
樹が素直に目を輝かせる。
怜は顎に手を当て、静かに観察した。
「……ギブソンか。いい楽器だ」
そして一拍置いて、淡々と続ける。
「だが、それを君が鳴らせるのか?」
その一言が、奏のいちばん痛い場所を正確に刺した。
(無理だ……僕に、父さんの音なんて出せるわけがない)
ストラップを肩にかける。ずしり、と重さが食い込む。
部屋の隅には、古いマーシャルのアンプが埃をかぶって置かれていた。
怜が「繋ぐか?」と視線で問うが、奏は慌てて首を振る。
そんなの無理だ。
自分の音が大きくなるなんて、想像しただけで怖い。
奏はアンプを見ないふりをして、逃げるようにギターを構えた。
ポケットからピックを取り出し、そっと息を吸う。
(大丈夫……いつも通りでいい……誰にも聴かれない……聴かせなくていい)
深く息を吐く。
そして、震える右手で弦を弾いた。
――ペン。
――ポコ。
――チリ……。
アンプを通さない、生音だけの、か細い音。
奏がいつも自室で、誰にも聴かせずに鳴らしてきた、小さすぎる音楽だった。
けれど。
右手が怯えているのとは対照的に、左手だけは別人のように滑らかだった。
指板の上を走る指に無駄がない。
難しいコードも、流れるように押さえ替える。
フォームは綺麗で、運指は迷いがない。
音だけが、外へ出てこない。
「…………」
「…………」
痛いほどの沈黙のあと、最初に口を開いたのは樹だった。
「……奏」
「は、はい!」
「音、ちっさ!!!」
樹が腹を抱えて笑い出す。
「なんだそれ! 全然聴こえねえ! 蚊の羽音かよ!」
樹がけらけらと笑う。
けれど、怜は笑わなかった。
眼鏡の奥の視線が、奏の左手にじっと据えられている。
何かを確かめるみたいに、微動だにしない。
「……?」
樹が笑いを止めて、怜を見る。
その無言につられるように、もう一度奏の手元へ視線を戻した。
「……あ」
次の瞬間、樹は何かに気づいたようにアンプへ駆け寄った。
嫌な予感が、背骨を一気に駆け上がった。
「そもそも繋いでねえじゃん! なんだよ、そういうことか!」
「あ、だ、だめっ――」
叫んだときには、もう遅かった。
樹は床に転がっていたシールドを拾い上げ、片方をアンプへ、もう片方を奏のギターへ迷いなく差し込む。
ガリッ、と不吉な接触音。
回路が繋がる。
その瞬間――
「キイイイイイイイイイイイイイ――――ッ!!」
第三音楽室の空気が、凶悪なハウリングに引き裂かれた。
誰かが最後に使ったままだったのか、古いアンプのボリュームはほとんど最大まで上がっていた。
「うわああああっ!?」
奏はギターを抱えたまま、その場にへたり込んだ。
鼓膜が裂けそうだった。
胸の奥を直接ひっかかれるみたいに痛い。
自分のギターから、こんな暴力みたいな音が飛び出した。
その事実だけで、頭が真っ白になる。
「うおっ、やべ!」
樹が慌ててつまみを捻る。
絶叫が止み、代わりに「ブーン……」という低いハムノイズだけが、嵐のあとみたいに部屋へ残った。
静寂が戻る。
舞い上がった埃が、西日の中で細かく光っていた。
「……あ……あ……」
奏の手から、ピックが落ちる。
もう限界だった。
喉が締まる。
呼吸が浅くなる。
視界が滲む。
「ご、ごめ……っ。やっぱり僕、無理だから……!」
ケースに戻す手も回らなかった。
父の形見を壁際に立てかけたまま、奏は音楽室を飛び出した。
「あっ、おい! 奏!」
樹の声が背中で遠ざかる。
構うものか。
奏はただ、廊下を夢中で走った。
耳の奥には、まださっきの金切り音がべったりと張りついている。
(最悪だ……もう、学校になんて来れない)
涙が止まらなかった。
◇
旧音楽室に、唐突な静けさが落ちた。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、部屋には埃っぽい沈黙だけが残っている。
耳の奥にこびりついたハウリングの残響だけが、まだ薄く空気を震わせている気がした。
樹が、ばつの悪そうに頭をがしがしとかく。
「あー……逃げちまった。さすがに、やりすぎたか?」
「少しは自覚があったのか。感心したよ」
怜は小さく息をつき、壁際に置き去りにされたレスポールへ歩み寄った。
夕陽を受けたチェリーサンバーストのボディに、怜はそっと指先で触れる。
その仕草は丁寧だったが、眼差しはどこまでも冷静だった。
「……樹」
「あ?」
「相葉奏。あれは本物だ」
その一言で、樹の顔から笑みが消える。
「……マジで?」
「マジだ。左手の運指に無駄がない。フォームも綺麗すぎる。あの年齢で、あれは異常だ」
怜の声は相変わらず冷たかった。
けれど、その奥には隠しきれない熱が滲んでいた。
「樹。あいつは逃がすな」
樹はしばらく黙り込んだ。
それから、いつもの調子でにやりと笑う。
「おう。まかせろ!」
遠くで、終業を告げるチャイムが鳴る。
奏の耳に焼きついた、あの暴力的な金切り音。
それは、彼が頑なに守り続けてきた〈ボリューム0〉の世界に、初めて走った亀裂の音だった。




