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線路の上の約束 ― 出発進行の朝に ―  作者: リンダ


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軽い気持ちの代償

84 履行されない


民事判決から、約束の期日が過ぎた。


七海側の口座に、振り込みはない。

分割案も、誠意のある提示もない。

あるのは、弁護士を通した薄い文面だけだった。


「支払いは困難」

「本件における当方の責任は限定的」

「他被告らの主導が大きい」


“責任は限定的”。


茂は紙を置き、声を落とした。


「……責任は限定的、か」


咲子が言う。


「七海の傷は限定的じゃないのにね」


七海は、もう驚かなかった。

驚く力は、暴行の日に持っていかれた。


ただ、言った。


「……やってください」

「差し押さえ、進めてください」


85 強制執行の開始


弁護士は淡々と説明した。


「判決が確定し、任意の履行がない場合、民事執行へ移ります」

「まず資産の調査です」

「預金、給与、不動産、車、保険、その他換価できる資産」

「対象は、判決で支払い義務が認められた各被告です」


茂が問う。


「誰が払うかは、こちらは選べるんですよね」


「はい。連帯債務ですから」

「回収可能性の高いところから、現実的に回収するのが通常です」


七海は、心の中でだけ呟いた。


“現実的”。


その言葉が、どれほど残酷か、もう知っている。

助けてと言っても、現実的じゃないと言われる。

学校が動かない。

警察が動かない。

でも、金の話になると、現実はすぐ動く。


86 口座が凍る日


最初に起きたのは、静かな異変だった。


笠木家――孝介の家。

父がスーパーのレジでカードを出す。

いつも通りの動作。

いつも通りの会話。


「すみません、こちら……通りません」


もう一度。

また通らない。


父は笑ってごまかした。


「あれ? 変だな」

「現金で」


財布を開く手が、微かに震えた。


帰宅後、ネットバンキングにログインしようとして、画面が止まる。

問い合わせの番号。

“利用制限”という文字。


それが、執行の現実だった。


争って、逃げて、先延ばしにして、

最後に待っているのは、生活の回路が一本ずつ切られていくこと。


家族の会話が減る。

冷蔵庫の中身が減る。

レシートの束が増える。


母が言う。


「……これ、いつ戻るの?」


父は答えない。

答えられない。


孝介は、部屋のドアを閉めた。


87 給与差し押さえという“通知”


次に来るのは、もっと現実的だった。


会社に届く。


「給与差押命令」


父の職場。

母のパート先。

場合によっては、祖父母の口座にまで波及する。


会社は個人の家庭事情を守ってくれない。

会社は会社のルールで動く。


上司が父を呼び、言う。


「……あなたの給与の一部が差し押さえになる」

「会社としては、対応するしかない」


父は頭を下げた。


「……すみません」


その「すみません」は、誰に向けたのか分からない。

会社か。被害者か。家族か。自分か。


職場の空気が変わる。

雑談が止まる。

仕事が増える。

視線が外れる。


父の肩が小さくなる。


そして、家計が目に見えて削れる。


88 車が消える


家に必要なものから、消える。


車。

通勤に使っていた車。

子どもの送り迎えに使っていた車。


執行の手続きは、映画みたいに荒々しくはない。

淡々と書類が進み、淡々と引き渡しが決まり、

淡々と“無い生活”が始まる。


父が鍵を置いた。


「……明日から、電車だ」


母が言った。


「パート、どうするの」

「夜遅いのに」


父は答えない。

答えはない。


無いものは無い。

それが現実だ。


89 転居


家賃が払えない。

ローンが回らない。

光熱費を滞納し始める。


そして家は、“維持できない場所”になる。


引っ越し。

狭い部屋。

風呂は小さい。

壁は薄い。

冷暖房は弱い。


生活の水位が下がると、

家族は会話の前に“ため息”をするようになる。


兄弟姉妹が言う。


「私の進学、無理?」

「塾、やめる?」

「スマホ、解約?」


母は答えられない。

父は、怒鳴る代わりに黙る。


黙ると、家は冷える。


90 “極貧”というより、“削られ続ける生活”


ここで起きるのは、派手な破滅じゃない。

もっと嫌な形の、じわじわした崩れだ。


食費の単価が下がる


服を買わない


病院に行くのをためらう


友達付き合いが消える


未来の話をしなくなる


人は、こうやって貧しくなる。

金だけじゃない。

心が、先に貧しくなる。


孝介の家族は、最初「女子に唆された」と言った。

責任を他人に押し付けて、少しでも軽くしようとした。


でも、連帯債務は軽くならない。

責任を押し付けても、判決は消えない。

払わなければ、執行が来る。


逃げるほど、執行は“生活”へ入ってくる。


それが、待っていた現実だった。


91 七海側の静けさ


一方、七海側は喜べない。


回収が進んでも、七海の夜は戻らない。

恐怖が消えるわけじゃない。

学校の空気が変わるわけでもない。


でも、茂は言う。


「履行は、救いじゃない」

「でも、責任が履行されることは、社会の最低限だ」

「最低限すら果たされないなら、また次の七海が出る」


七海は頷いた。


「私は、“次の七海”を出したくない」

「そのために必要なら、執行も受け止める」


咲子は、七海の手を握った。


「七海の人生は、ここから立て直す」

「でも、立て直すための地盤として、責任は必要」


92 世間が知る、軽さの代償


ニュースはまた短い見出しになる。


「民事判決の履行進まず 強制執行手続へ」


それを見て、世間は言う。


「払えないなら最初からやるな」

「軽い気持ちが人生を壊す」

「被害者の人生は戻らない」


ここで初めて、

“軽い気持ち”がどれほど危険かが、

条文ではなく、生活の形で見える。


誰かを殴る。

晒すと脅す。

金を要求する。

それが、冗談で済むわけがない。


そして、冗談で済ませようとした瞬間に、

現実は“差し押さえ”という形で、

生活の扉をノックする。


冷たく、淡々と、逃げ場なく。

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