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線路の上の約束 ― 出発進行の朝に ―  作者: リンダ


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立件



取り返しのつかない三日間


第三部 法廷の外で、言葉が殴り合う


18 家裁へ


家庭裁判所の廊下は、音が吸い込まれるように静かだった。

七海は自分の足音が怖かった。歩くたびに、現実が近づくからだ。


茂は七海の一歩前を歩き、咲子は七海の一歩後ろを歩いた。

挟まれているのに、七海は孤独だった。

 

向こう側に、平田沙代里がいた。

鎌田静江も、市田優愛も、少し離れて座っている。

笠木孝介は、もっと遠くで、壁を見ていた。


目が合った――気がした。

沙代里はすぐ視線を逸らした。


「……まさか、ここまでになるとは思わなかった」


誰かが呟いた。

それが、七海の中の何かを逆撫でした。


“ここまで”。

ここまでとは何だ。

ここまでとは、七海の顔か。七海の動画か。七海の生活か。

それとも、あなたたちの“炎上”か。


七海は奥歯を噛みしめた。



19 「知らなかった」の盾


審判の場で、加害者側の弁護士は丁寧に言った。


「本人たちは未熟で、結果の重大性を十分に理解できていませんでした」

「恐喝の意図は明確ではなく、感情的な行き過ぎが――」

「被害者を追い詰めることが目的ではなく――」


七海の胸が、じわじわ熱くなる。


“意図は明確ではない”。

“目的ではない”。

“未熟”。


七海は、自分の体の痛みが「未熟」で説明されることに耐えられなかった。


茂が発言の機会を求める。

許可が出る。


茂は紙を手にしたまま、低い声で言った。


「未熟で済むなら、

 なぜ“金を持ってこい”という文言が残るんですか」

「なぜ“持ってこなければ出す”という脅しが残るんですか」

「未熟で、ここまで“構造”を作れますか」


弁護士は言葉を選び直す。


「……その点は、反省しており――」


茂は遮らない。

ただ、一つずつ積み上げる。


「そして、動画を撮った」

「より鮮明にして投稿した」

「鍵をかけても遅いと分かっていたように、転載が起きる」

「“思わなかった”ではなく、

 “起きてもいいと思った”のではありませんか」


空気が重く沈んだ。


孝介が小さく舌打ちする音がした。

七海はその音を聞いて、背中が冷たくなった。


この人は、まだ“自分の被害”しか見ていない。



20 民事の席――数字が言葉になる


場面は変わる。

民事の場、損害賠償の話が出る段階になると、空気の温度がさらに変わる。


慰謝料。

治療費。

通院交通費。

弁護士費用。

削除対応費用。

将来の心理的影響に関する評価。

学業・進路への影響。


数字が並ぶたび、加害者側の保護者の顔が固まっていく。


平田沙代里の父が、こらえきれず声を荒げた。


「払えない!」

「そんな金、現実的じゃない!」

「うちの家が壊れる!」


その言葉が出た瞬間、七海の中で何かが切れた。


七海は、静かに手を挙げた。

許可が出る。


七海は立つ。

声が震えないよう、腹に力を入れた。


「……壊れたのは、私の生活です」


言ってしまった瞬間、涙が出そうになった。

でも、止める。


「私は、外を歩くのが怖い」

「スマホが怖い」

「知らない人の視線が怖い」

「学校に行くのも怖い」


七海は一呼吸して続ける。


「お金で戻るなら、

 私だって戻してほしい」

「でも、戻らない」

「だからせめて、責任を“現実の形”で示してほしい」

「“払えない”は、私にとって救いになりません」


相手側の母親が泣き出した。

七海は、その涙を見て揺れた。


でも揺れながら、言った。


「順番が違うんです」

「あなたたちの生活の話の前に、

 私の救済があるべきなんです」



21 そして、“討論”の場へ


この事件は、ネットで燃えた。

だから皮肉にも、社会の目が集まってしまった。


地域の会館で、学校・保護者・弁護士・支援団体が集まる“公開討論”が開かれる。

名目は再発防止。

実態は、感情のぶつかり合いだった。


壇上に座る席が並ぶ。

七海と両親。

加害者側の保護者。

学校側。

そして、弁護士と支援団体の司会。


会場の空気は、法廷より生々しい。

ここには、ルールが少ない。

人の感情が、直接届く。


司会が言う。


「本日は、何が起きたのかを整理し、

 再発防止と救済のあり方を議論します」


その言葉の直後、平田沙代里の母がマイクを握った。


「うちの子だって、被害者なんです!」


会場がざわつく。

七海の心臓が跳ねる。


母は続けた。


「ネットで住所も名前も晒されて、

 家族まで巻き込まれて、

 兄弟まで学校で――」


司会が止めようとする。

だが母は止まらない。


「更生の機会も奪われるんですか!」

「一生、社会から追い出すんですか!」


その瞬間、茂がマイクを取った。

声は静かだった。静かなのに、強かった。


「“更生の機会”という言葉は、私も否定しません」

「しかし、順番があります」


会場が静かになる。


茂は言った。


「被害者の救済が先です」

「安全確保が先です」

「拡散の停止が先です」

「責任と賠償が先です」

「それを果たした上で、更生を語ってください」


加害者側の父が怒鳴った。


「そんなの理想論だ!

 現実に払えないんだ!」


七海は、マイクを握った。


震えた。

でも、逃げなかった。


「払えないのは、私のせいじゃない」

「私が“この状況”を作ったわけじゃない」

「私は、ただ歩いていただけ」

「好きな作家の新刊を買って、

 家に帰ろうとしてただけ」


会場が息を呑んだ。


七海は続ける。


「私は、誰かを陥れたこともない」

「誰かを撮って脅したこともない」

「誰かの人生を、動画にしたこともない」


言葉が、少しずつ鋭くなる。


「なのに、私が“回復のために必要な費用”を語ったら、

 あなたたちは“うちが壊れる”と言う」

「私の生活が壊れたとき、

 あなたたちは何をしていたんですか」


加害者側の席が揺れた。

沙代里が俯いた。

静江は泣き出した。

優愛は硬直した。


孝介は、ようやく顔を上げた。

そして、言った。


「……まさか、こんなことになるとは思わなかった」


その一言が、会場をざわつかせる。


七海は、真正面から言った。


「“思わなかった”は、免罪符じゃない」

「“知らなかった”は、責任の代わりにならない」

「あなたが思うより、世界は繋がってる」

「あなたが思うより、人は壊れる」


七海は、ここで息を吸った。


「だから、制度が追いつかなきゃいけない」

「拡散の速さに、救済の速さが負けないように」

「少年法の理念も、守るなら、

 被害者救済の制度も同時に強くしてほしい」


“ガチ”の討論が、始まった。



22 もう一つの暴力――「対応」という名の刃


公開討論の翌日、七海は熱を出した。

体のどこかが痛いわけじゃない。

でも、起き上がれない。


咲子が額に手を当てて言う。


「……無理しすぎたね」


七海は布団の中で、天井を見たまま呟いた。


「私、何か間違ったこと言った?」


茂は答えを急がなかった。

急いで言葉を当てはめると、また傷になることがあるからだ。


「間違ってない」

それだけを、ゆっくり置いた。


だが、七海の心に刺さったのは討論の熱だけじゃなかった。

翌日に届いたのは、冷たい“文書”だった。



23 加害者側の学校――「関係ありません」


加害者側の学校から、七海の両親へ連絡が入った。

沙代里たちの学校だ。


担当の教頭は、丁寧な声だった。

丁寧なだけで、中身が空っぽだった。


「本件は校外で発生しており、当校としての直接的な指導は――」


茂が言う。


「しかし、加害者は貴校の生徒です」

「貴校は生活指導の範囲で、接触禁止や再発防止の措置を取れます」


教頭は、少し間を置く。


「生徒のプライバシーもございますので……」


プライバシー。


七海はその言葉を聞いて、胸がひゅっと冷えた。

――私のプライバシーは?

――私の顔が殴られて腫れていることは?

――私の動画が晒されていることは?


咲子の声が震える。


「動画が残っているんです」

「転載も止まっていません」

「学校として、削除の要請や、関係機関との連携を……」


教頭は繰り返した。


「当校としては事実確認を進めております」

「個別案件のため、回答は差し控えます」


差し控える。

確認。

回答できない。


その言葉は、七海にとって“拒否”と同じだった。


電話を切ったあと、七海は呟いた。


「……私、透明なんだね」



24 教育委員会――「慎重に」


次に茂たちが向かったのは教育委員会だった。


窓口の担当者は、資料を揃えた丁寧な対応をした。

丁寧で、正しい。

そして、冷たい。


「学校の指導には裁量がありまして……」

「事実確認が必要でして……」

「再発防止に努めるよう指導してまいります」


茂は机の上に、書類の束を置いた。


被害時刻。

脅迫の文面。

動画のURL。

削除申請の受付番号。

医師の診断書。


「この時点で、事実確認は十分ではありませんか」

「必要なのは“速度”です」

「拡散は今この瞬間にも進んでいる」


担当者は、まるで天気の話をするように言った。


「お気持ちは分かります」

「しかし、手続きがございますので」


お気持ち。


七海は、その言葉で息が止まった。


“お気持ち”という言葉は、

怒りも恐怖も、痛みも、

全部まとめて柔らかい袋に入れて、

机の端に置くための言葉だった。


七海の中で、何かがゆっくり崩れた。



25 「被害者が証拠を残すと、校則違反」


さらに追い打ちが来た。


七海の学校の担任から連絡が入る。

校内の聞き取りをしたいという。


茂と咲子が同席する形で、七海は空き教室に通された。


担任は慎重に言葉を選ぶ。


「七海さん、辛いとは思うけど、

 加害者側が“そういうつもりではなかった”と言っていて……」


七海の耳が、じんとする。


まただ。

“そういうつもりではない”。


担任は続けた。


「それと……」

「録音や録画は、校則上――」


茂が言う。


「校則より先に、子どもの安全です」


担任は目を伏せる。


「……学校としても、トラブル防止のために……」


七海は、ここで初めて自分の声を出した。


「トラブルを防止したいなら、

 “暴力”を止めてください」

「“脅し”を止めてください」

「“拡散”を止めてください」


担任は、苦しそうに言った。


「学校にも限界があって……」


その一言が、七海にとっては刃だった。


限界。


限界があるなら、

じゃあ私はどこに行けばいいのか。


警察も“時間”。

学校も“限界”。

教育委員会も“手続き”。


七海は、助けを求めるほど、

出口が小さくなる感覚に襲われた。



26 加害者側の学校の“守り方”が、さらに刺す


さらに、加害者側の学校の対応が七海を抉った。


沙代里たちが登校できなくなった――という情報が回ってきた。


「生徒の心のケアが必要です」

「二次被害が深刻です」

「生徒が自死しないように見守ります」


その文言を聞いた瞬間、七海は視界が揺れた。


自死。


“加害者が自死しないように”。


七海は、口を開いても声が出なかった。


加害者の命が守られるのは当然だ。

――当然だ。否定しない。


でも。


その言葉が出るまでに、

七海の心を守る言葉は、ひとつでもあっただろうか。


七海の動画が晒されたとき、

学校は何をした。

教育委員会は何をした。


七海は布団の中で、涙をこぼした。


怒りというより、

“見捨てられた”という感覚だった。



27 深く、静かに折れる


ある夜、七海は咲子に言った。


「私、もう頑張るのやめたい」

「何言っても、

 “お気持ち”って言われて、終わる」

「私の痛みって、そんな軽いの?」


咲子は七海を抱きしめた。

抱きしめながら、震える声で言った。


「軽くない」

「軽くないよ」

「七海の痛みは、軽くない」


七海は、咲子の肩に顔を埋めた。


「……助けてって言うの、疲れた」


助けて、という言葉が疲れる世界。

それが七海を一番深く傷つけた。



28 茂の怒りは、方向を変える


茂は机に向かい、書類を作った。


学校宛て。

教育委員会宛て。

そして、プラットフォーム会社宛て。


「手続きが必要なら、

 手続きで詰める」

「速度が必要なら、

 速度を要求する」


茂の声は怒りに震えていた。

でも、その怒りは誰かを燃やすためじゃない。

七海を守るために、冷たく研がれていた。


「七海」

茂は言った。


「お前の痛みを“お気持ち”で終わらせない」

「形にする」

「責任を形にする」

「救済を形にする」


七海は小さく頷いた。

涙が止まらなかった。




29 通知


ポストに入っていた封筒は、妙に薄かった。

でも、七海にはそれが“重い紙”に見えた。


茂が宛名を確認して、息を吸う。


「警察からだ」


咲子が七海の手を握る。

七海は頷いたつもりだったけれど、首はほとんど動かなかった。


茂が封を切り、紙を取り出す。

読み上げる声は、できるだけ淡々としていた。


「……本件について、傷害事件として捜査を開始する。

 関係者からの事情聴取を行い、証拠を収集する。

 加害行為に関与した者は十六歳であり、刑事事件として立件の方針――」


“傷害事件”

“捜査”

“事情聴取”

“立件”


言葉が、七海の体の中を通っていく。


たった数行なのに、胸の奥が熱くなる。

息が詰まる。


咲子が小さく言った。


「……やっと、動いた」


七海の目から涙がこぼれた。

嬉しい涙なのか、怖い涙なのか、自分でも分からない。



30 救いの形は、いつも鈍い


「これで終わるの?」


七海が呟くと、茂は首を振った。


「終わらない」

「でも、“始まった”」


茂は机の上に書類を揃え直す。

診断書。通院記録。脅迫の通知。削除申請番号。

動画のURL――今は多くが消えているが、“存在していた”ことの記録は残っている。


「警察が動くということは、

 “痛み”が、ようやく“事件”として扱われるってことだ」


七海はその言葉を聞いて、ふっと笑いそうになった。

笑えるはずがないのに。


痛みが、事件になるまでの距離。

それが、あまりにも長い。



31 加害者側に走る衝撃


同じ頃、平田家にも電話が鳴っていた。


父が受話器を持ったまま立ち尽くし、

母が口元を押さえ、

兄が青ざめた顔で壁を見た。


「……傷害事件として、捜査?」

「立件?」


母が掠れ声で言う。


「沙代里、あんた……」


沙代里は顔を背けた。

背けた先に逃げ場はないのに。


鎌田家でも、市田家でも、笠木家でも、同じ言葉が落ちた。


「刑事事件として扱う」

「十六歳だから、軽くはない」


“炎上”は、画面の中の火だった。

けれど“捜査”は、現実の足音だった。


鍵をかけても消えない。

削除しても戻らない。


「まさか、ここまで――」


その言葉が、また誰かの口から漏れた。


そしてその「まさか」を、七海はもう許せなかった。



32 討論、第二ラウンド――「まさか」を切り裂く


公開討論の続きが、急きょ設定された。


理由は簡単だった。

警察が動いたことで、学校も教育委員会も「無関係」を装いにくくなった。


会館の壇上。

マイクの赤いランプ。

会場のざわめき。


司会が言う。


「本件は、警察により傷害事件として捜査が開始されました。

 本日は、学校・教育委員会としての対応、そして再発防止策について――」


その瞬間、教育委員会の担当者が先に言った。


「捜査中のため、詳細は差し控えます」


会場に、ため息が落ちる。


茂がマイクを取った。

前回よりも低い声だった。


「差し控えるのは結構です」

「ですが、あなた方が“差し控えている間”に、

 被害者は削られ続ける」


教育委員会担当が言う。


「お気持ちは――」


その言葉が出た瞬間、七海がマイクを握った。

手が震える。でも、声は震えなかった。


「“お気持ち”で終わらせないでください」


会場が静まる。


七海は続ける。


「私は、証拠を残すために動画を撮りました」

「司法も学校も動かないからです」

「なのに学校は、録音・録画できるものを“持ち物検査”で没収しようとした」


担任が言い訳のように言う。


「トラブル防止のためで――」


七海はまっすぐ返す。


「トラブルを防止したいなら、

 “暴力を止める仕組み”を先に作ってください」

「校則を守らせる前に、

 命と尊厳を守ってください」


加害者側の保護者席がざわつく。

沙代里の母が堪えきれず立った。


「でも、うちの子だって――!

 ネットで晒されて、家族まで――!」


七海は視線を逸らさず言った。


「晒しが正しいとは思いません」

「でも、それは“私が殴られたこと”の免罪符にならない」

「順番が違うんです」

「まず、私の救済と安全」

「その次に、責任と賠償」

「その上で、更生です」


孝介が、初めてマイクを持った。


「……俺だって、人生終わったんだよ」


七海の胸が痛む。

でも、痛みの種類が違う。


七海は息を吸って言った。


「終わったって言えるのは、

 “始めた人”だけです」

「私は、始めていない」

「私は、歩いていただけ」

「本を買って帰る途中だった」


会場の空気が、ぎゅっと固まる。


七海は言葉を続けた。


「あなたが終わったと言うなら、

 私が終わった瞬間の話も聞いてください」

「殴られて帰った日」

「動画が出た夜」

「“お気持ちは分かります”で片付けられた日」

「証拠を残す手段を奪われかけた日」

「私が“助けて”と言うのに疲れた日」


最後の一言が、会場を刺した。



33 警察の通知がもたらすもの


討論の帰り道、七海は歩きながら言った。


「警察が動いたら、私、少し楽になると思ってた」


咲子が言う。


「……少しは楽になった?」


七海は首を横に振る。


「楽にはならない」

「でも……“私が悪いんじゃない”って、

 やっと外の世界が言ってくれた気がした」


茂が頷く。


「捜査は、救いじゃない」

「でも、事実を“事実”として固定する力がある」

「“まさか”を、まさかで終わらせないために」


七海は空を見上げた。


夕方の風は、まだ冷たい。

でも、今日は少しだけ呼吸ができた。


ただし――

これから事情聴取が始まる。

学校も、教育委員会も、逃げ道を探す。

加害者側は「自分たちも被害者だ」と言い続けるだろう。


その全部と向き合うのは、七海だ。


七海は、スマホを握り直した。


「……逃げない」

「逃げたら、次の七海が出るから」





34 事情聴取


警察署の待合は、白すぎた。

白い壁。白い天井。白い蛍光灯。

白は清潔なはずなのに、七海には「逃げ場がない色」に見えた。


受付で名前を告げると、職員が淡々と案内した。


「こちらへどうぞ」


廊下を歩く。

足音が硬く響く。

咲子が七海の肩にそっと触れた。


「大丈夫。隣にいるよ」


茂は一歩前を歩く。

背中が、いつもより大きく見えた。


小さな部屋に通される。

机と椅子。録音機器。書類。

そして、刑事が二人。


年配の刑事が名刺を差し出す。


「担当の◯◯です。今日はお話を伺います」

「辛い部分は無理に言わなくていい。休憩も取れます」


その言葉は、学校の「お気持ちは分かります」と違って、

“手続きの中の配慮”としてはちゃんと形があった。

だからこそ、七海は少しだけ呼吸ができた。


でも、次の瞬間に思い出す。

ここは救われる場所じゃない。

“事実を固定する場所”だ。



35 最初の質問


刑事はペンを構え、確認から入った。


「事件の日、いつ、どこで、何があったか」

「加害者と思われる人物の名前は分かるか」

「接触のきっかけは」


七海は喉が渇いた。

言葉が、口の中で重い。


「……学校が終わって」

「街の本屋で、新刊を買って」

「帰ろうとして歩いてたら……笠木孝介に声をかけられて」


刑事の目が、ほんの少し動く。


「どんなふうに声をかけられましたか」


七海は、あの日の空気を思い出す。

あの日は普通だった。

普通の午後。普通の光。


「……“よかったら、少し話さない?”って」

「優しそうに見えた」

「友達登録してって言われて……断れなくて」


その瞬間、七海は気づいてしまう。

自分が“責められているわけではない”のに、

“自分の落ち度を探されている”ように感じてしまうことに。


それが、被害者の癖になってしまう怖さだった。


咲子が小さく言う。


「七海は悪くないです」


刑事は頷いた。


「分かっています」

「今聞いているのは“経緯”です。責任を探すためではありません」


その言葉で、七海は少しだけ肩の力が抜けた。



36 “殴られた”という言葉の中身


次に刑事が言った。


「暴行を受けた状況を、覚えている範囲で教えてください」


七海は一瞬、息が止まった。


“暴行を受けた状況”。


たったそれだけの言葉が、

七海の体の奥の痛みを呼び起こす。


「……帰り道で待ち伏せされて」

「“ちょっとついてこい”って言われて」

「人通りの少ないところに連れていかれて……」


刑事が静かに確認する。


「その時、相手は何人いましたか」


「……四人」

「沙代里、静江、優愛、孝介」


七海は声が震えそうになって、机の端を握った。


「沙代里が……“てめぇ、人の男に手を出すってどういうことか分かってんな”って」

「足で蹴られて……お腹に当たって」

「髪の毛を掴まれて引っ張られて」

「顔も……」


言葉が途切れる。

胸が苦しい。

目の前が滲む。


刑事が言う。


「少し休憩しますか」


七海は首を振った。

休憩したら、戻れなくなる気がした。


七海は、絞り出す。


「静江と優愛が、スマホで撮ってました」

「……笑ってた」


その“笑ってた”が、七海にとって一番重かった。


暴力より、

笑い声の方が、長く残る。



37 脅し


刑事が言う。


「金銭要求があったと聞いています。内容を教えてください」


七海は頷いた。


「孝介が……“最初からはめるつもりだった”って言って」

「“お前んち金持ちみたいだからな”って」

「“金持ってこいや。持ってこなかったら動画晒す”って」


刑事のペンが止まる。

一瞬だけ、空気が硬くなる。


年配の刑事が言った。


「これは、傷害だけではなく、恐喝未遂・強要の可能性もあります」

「ただし、今日はまず傷害としての事実確認を確実にします」


七海は、心の中で思った。


“可能性”じゃない。

“現実”だ。


でも、制度の言葉はいつも慎重で、

現実より遅い。



38 「投稿」の部分


刑事は続ける。


「動画が投稿されたのは、どこで知りましたか」


「通知で」

「……夜」

「知らない人からリンクが送られてきて」


咲子が拳を握る。

茂の指が僅かに震える。


刑事が言った。


「保存してありますか」

「URLやスクリーンショットなど」


七海の体が反射的に硬直する。

“証拠を残す”という言葉が、学校で否定された記憶と繋がるからだ。


七海は小さく言う。


「……あります」

「でも学校で、“録音録画は禁止”って……」


刑事は即答した。


「警察に提出する証拠は別です」

「学校の校則と、捜査の証拠収集は関係ありません」


その一言が、七海の胸に深く落ちた。


関係ありません――

たったそれだけの言葉が、七海を救った。



39 供述のズレ


事情聴取の終盤、刑事は言った。


「相手側の話も聞いています」

「一部、主張が異なる点があります」


七海の心臓が跳ねる。

また“私が悪い”に戻される恐怖。


刑事は淡々と続けた。


「相手は“軽く押しただけ”と言っています」

「“蹴っていない”とも」

「しかし、診断書と一致しません」

「映像・メッセージの記録もあります」


七海は思った。


軽く押しただけ。

蹴っていない。


その言葉が、七海の体の痛みを二度殴った。


でも、刑事は言った。


「こういうズレはよくあります」

「だから証拠が重要です」

「そして、十六歳なので、刑事事件として立件の方針です」


“十六歳なので”。


その響きに、七海は少しだけ震えた。


救いなのか、

怖さなのか、

分からない。


ただ、現実が“戻れない方向”へ進み始めた感覚だけがあった。



40 帰り道


警察署を出た瞬間、空気が違って見えた。


世界はいつも通りで、

コンビニは営業していて、

信号は青に変わって、

電車は走っている。


でも七海だけが、少し違うところに立っている。


咲子が言った。


「頑張ったね」


七海は小さく首を振る。


「頑張ったんじゃない」

「……言わされた」


茂が言う。


「それでも、言えた」

「言えたから、記録になった」

「記録になったから、言い逃れができなくなる」


七海は、足元を見つめた。


「……私、怖い」

「相手が罰されるのも怖い」

「でも、罰されないのはもっと怖い」


咲子が七海の手を握り直す。


「怖いでいい」

「怖いままでも、進める」


七海は頷いた。

涙がまた出そうになったけれど、今日は堪えた。


家に帰ったら、またスマホが震えるかもしれない。

学校の空気も変わらないかもしれない。

教育委員会も“手続き”と言うかもしれない。


それでも。


七海は、息を吸った。


「……次は、何をすればいい?」


茂は答えた。


「次は、守る仕組みを作る」

「学校と教育委員会に、具体策を出させる」

「そして、検察の段階に備える」


七海は空を見上げた。


冷たい風の向こうで、

春が来る気配は、まだ遠い。


でも、もう一つだけ確かなものがあった。


今日、七海の痛みは“事件”になった。

それは遅い。

鈍い。

それでも、ゼロじゃない。


七海は、その“ゼロじゃない”を握りしめた。




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