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線路の上の約束 ― 出発進行の朝に ―  作者: リンダ


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発車票の下で

 第十九章 発車標の下で


 放課後、薄曇りの空が校舎の窓に溶けていた。

 帰り道を少しだけ遠回りして、二人は小さな跨線橋に立つ。下を普通列車が一本、静かに抜けていった。柵の向こう、ホームの発車標が点き、時刻表の白い行が淡く光る。


 風がスカートの裾を撫で、澪は両手で髪を押さえる。

 伸介は、ポケットの中で指を三度、そっと回した――ブレーキハンドルの合図。胸の鼓動が“常用”の針で揺れているか、確かめるみたいに。


「なぁ、伸」

 澪が横顔を覗く。視線はまっすぐ、けれど少しだけ揺れている。

「ん。」

「……うちね、大きくなって大人になったらさ、伸と結婚してね、いっしょに電車の乗務員になりたいんだわ」


 言葉は、線路の上を走るみたいにまっすぐだった。

 澪の頬が、ふっと灯りを点けたみたいに赤くなる。


「伸が電車の話しとるとき、ほんとすごく輝いとるんだて。うち、見とるだけで胸がポカポカするの。ただの幼なじみって言うだけやないって、ずっと思っとって……」

 言い終えると、澪は指先をぎゅっと編んだ。

「ほんで、こんな状況で言うの、図々しいかもやけど……どうしても今、言いたかったがね」


 伸介は、息を一つ、深く吸った。

 風の匂い、線路の鉄の匂い、制服の襟の固さ。ぜんぶが、今日という“時刻”を形にする。


「……澪」

 自分の声が、思ったより少し低く響いた。

「俺、運転席の窓から前見とるとき、澪の描いた線がいつも重なっとるんだて。**“ちょうどいい”**って、澪に教えてもらっとるみたいでさ」

 澪が、目を瞬く。

「いっしょに乗務員――ええなぁ。俺、運転士で、澪は……車掌?」

「うん。車内放送、任せといてちょう」

 照れ笑いが零れる。「次は〜、幸せ行き、幸せ行き〜。発車進行、よろしいですかぁ」

「よし。発車進行」


 二人の掌が、そっと合わさる。

 合図は、遊びじゃない。今はもう、約束だ。


「怖くなったら、三回、回すでな」

 澪が指で小さくハンドルを作ってみせる。

「見えとる。そんときは、俺が非常入れる。いっしょに止まって、また出す」

「ん。止まれたら、また発車できる――やてな」


 跨線橋の下を、もう一本、列車が過ぎる。

 耳が勝手に編成を数える。(下り、四両。)

 風が二人の間を通り抜け、澪の頬の赤みをやさしく撫でた。


「伸」

「ん」

「好きだて」

 名古屋の音が、淡く、真っ直ぐに落ちた。


 伸介は、うなずく代わりに、まっすぐ“前”を指さした。

「一緒に前、見よまい」

「見よまい」


 発車標の白い点滅が、次の時刻を指し示す。


 赤――止まれ。

 黄――注意。

 青――進め。

 それでも運転は、いつだって“青の中の注意”だ。速度計の針を“ちょうど”に合わせるために、手の中の力を微調整し続ける。


 二人は並んで、同じ風を吸った。

 遠く、警笛が一度だけ鳴る。

 今は、発車前の静けさ。

 でも――もう、列車は動き出している。

 同じ行き先表示を掲げて。



 非常ベルの鳴る教室

 五時間目が終わり、廊下に人の波が流れ出した。

 理科室から教室へ戻る導線の角、視界が一瞬狭まる。

 前を歩いていた女子がふと立ち止まり、後ろの列が詰まった。

 そのとき――

 コツン。

 伸介の肩が、その女子の肩に軽く触れた。

 振り返った女子は一拍の沈黙ののち、胸いっぱいに空気を吸い――

「きゃああ!」

 甲高い声が廊下に跳ねた。

「人殺しと肩ぶつかった!」

 空気が崩れた。

 廊下のざわめきが一瞬で“事件”の音に変わり、教室のドアがばたばたと開閉を繰り返す。

 誰かが「え、今の見た?」と叫び、誰かが「やば」と笑い、誰かがスマホを胸元で反転させた。

 伸介の足下から、体温がすうっと抜けていく。

(いま、ただ、当たっただけだ。謝ろうとした。言葉を出す前に、人殺しが落ちてきた。)

「やっとるやん、正義マン!」

 角の陰から、慎太。

「見た見た、“事故の家”やで」

 水谷の口角がゆるむ。

 “根回し”で張られた糸が、一気に締まっていくのを、澪は肌で感じた。

「待って、今の――」

 澪が前に出る。

 だが女子は両手を胸に当て、後ずさりしながら声を上げた。

「ほんとに怖かったんだって!押されたみたいで!」

(“みたいで”。言葉の芯は、もう“事実”の顔をしている。)

 そこへ山根が走ってきた。

「集まらない! 通路を空ける!」

 生活指導の腕章も、すぐそばに。

「関係者以外は教室へ戻る。記録が必要だ。」

 教室へ戻る流れの中、澪が三度、指でブレーキハンドルを切る。

 蓮が頷き、伸介の腕へ半歩分の距離で張りついた。

「図書室――退避」

 山根が素早く合図を受け取り、学年主任室へルートを切り替える。

「こちらへ。前を見て歩け。」


 学年主任室。

 空調の音だけが規則正しい。

 伸介の掌は冷たく、澪が自分の手をそっと重ねた。

「いまの、当たっただけだて。」

 声が出た。震えたが、出た。

「謝ろうとしたら、“人殺し”って言われた。」

 学年主任は頷き、時刻を書き、場所を書き、関与者を書いた。

「誰が、どの位置にいた?」

 蓮が淡々と答える。

「理科室前の角、掲示板の“生活目標・五月”の真ん前。女子の後ろから二歩、伸は三歩。」

「触れた瞬間、女子は一歩下がって声を上げた。」澪。

「“押された”は、女子の言葉。“見た”は誰?」

「佐藤慎太/水谷翔――“見た”と言ったが、肩が触れた瞬間、二人は角の外にいた。」蓮の筆致はまっすぐだった。

 学年主任は「記録」とだけ言い、赤ペンで目撃位置の図を引いた。

「カメラ、ある。」

 古田教頭が短く告げる。

「理科室前、角の天井。死角はあるが、今の位置関係は拾えるはず。まず、女子の安全を確保して話を聞く。」

 “安全”。加害にも被害にも、まずはそれが必要だと、職員の声はぶれなかった。


 放課後。

 小聞き取りが始まった。

 女子は震える声で言う。

「ほんとに怖かった。押された――みたいで」

「“押された”か、“みたい”か。どっち?」

 生活指導の声は柔らかいが、逃がさない。

「……“みたい”」

「“みたい”は、感じ方。ここでは“事実”をたしかめる。」

 慎太は薄く笑って言った。

「見たって。当たってた」

「君は角の外だった。カメラで確認できる。」

 水谷は肩をすくめる。

「“事故の家”やし、怖がって当然やろ」

「家の職業や事故は、この件に関係ない。」

 古田の声が、はっきりと線を引いた。

「それを口にした時点で、別の問題(差別的言動)になる。」

 カメラ確認。

 画面に映ったのは――

 列の詰まり → 女子が足を止める → 伸介の肩がかすめる → 女子が後方へ一歩 → その後、顔を伏せて距離を取る → 二秒遅れて慎太・水谷が角に入る

 手が伸びる・押す動作は映らない。

 音はない。だが、距離は、嘘をつかない。

 学年主任は、女子に**“心の安全”**を優先しながらも、事実を丁寧に戻していく。

「怖かった気持ちは、確か。大切に扱う。

 同時に、“押された”という表現は“事実”ではない。

 “ぶつかった”は事実。“怖かった”は心の事実。ここを、いっしょに言い直そう。」

 女子はうつむき、しばらく黙った。

 やがて、小さく頷く。

「……ぶつかった。怖かった。――それで、いい」

「ありがとう。いまの言い直しが、教室の安全を作る。」

 慎太の口元から、初めて笑いが消えた。

 水谷はスマホをポケットの底へ押し込む。


 その日の終学活。

 山根は具体を言わず、行為だけを板書した。



 事実(目で見える出来事)



 感情(心の出来事)



 評価・決めつけ(相手を縛る言葉)



「“事実”は修正できない。“感情”は大切に扱う。“評価”は、教室の空気を壊す。

 “怖かった”は言っていい。――だからこそ、“押された”と“みたい”は区別する。」

 前列で、澪が息を吐いた。

 蓮は《下り=常用/前方視界ヨシ》と小さく書く。

 伸介は、手のひらの中でブレーキハンドルを三度、静かに回した。

(止まれた。――だから、また出せる。)


 夜。

 多治見家。

 点検票。



 今日は安全だった? はい



 困った時、どこへ行った? 学年主任室



 ありがとうを言いたい人 澪/蓮/先生/生活指導



 明日やってみたいこと “事実と感情”を言い分ける



 紘一は深くうなずいた。

 一華は湯気の向こうで、やさしく言う。

「怖かったって言葉、出せたらええ。出せたら、止まれる。止まれたら、また行ける。」

 伸介はうなずき、机端の運転席の絵を指でなぞる。

 赤――止まる。

 青――進む。

 どちらも、安全運転の一部だ。

 窓の外を、普通列車が一本、速度を落として通り過ぎた。

 耳の中の速度計は、**“ちょうど”**を指していた――

 ただし、その針は、まだ細かく震えている。

 明日もまた、非常は、迷わず引ける位置に置いておく。

 そして、合図は三度。

 発車進行。


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