3.見習い魔女は使い魔(?)に恵みを与える
***
どこかで子どもが泣いている。
見まわせば、絹のブラウスに赤い腰布をまきつけた少女が、暗闇の中にうずくまって泣いていた。
小さな少女の小さな泣き声はかぼそく、すすり泣きはいまにも途切れそうだった。
ふるえる身体から染みでるのは、悲哀と絶望。
「ばかだね。今日は聖夜祭だよ。すべてを赦し、清算をする日さ。ほら、この蝋燭に火を点けてやろう」
凛とした女の声がして、蜜蝋の甘い匂いが煙といっしょに鼻先をただよった。
ぐるり。
視界が反転する。
*
今度聞こえてきたのは少年の泣き声だった。
先ほどの少女とは違って、わんわんと声をあげて泣いている。
ロレンスはその声に聞き覚えがあった。
「セオドア!」
思い浮かべた名を誰かが呼ぶ――視線を移せば、部屋の扉を開けて、幼いロレンスが入ってくる。
「にいさん……」
(――あぁそうだ)
これは〝過去〟だ。
いつの間にか周囲の景色ははっきりと輪郭を宿していた。もう何年も立ち入ったことのない、弟の自室。
このころにはまだ兄弟は反目しあってはおらず、壁にはロレンスのとってやった春楡の枝がかけられていた。
乾燥した葉のついたままの枝の下で、弟はまだ泣いている。
過去の自分はセオドアに駆け寄ろうとし、……ぴたりと足を止めた。背後に父の気配を感じたからだった。
「ロレンス。……セオドアに近づくな。こちらへ来い」
厳めしい顔つきの男が手に乗馬鞭を持って立っている。
泣き濡れたセオドアと無表情な父のあいだで、ロレンスは無言のまま立ち尽くした。
やがてのろのろとロレンスはきびすを返し、セオドアを視界から追いだした。父が鼻を鳴らすのがうつむいたロレンスの耳に届いた。
逆らえば――あの鞭が飛んでいくのは自分ではない。セオドアなのだ。
ロレンスの父は厳しい人だった。
跡取りとなるべきロレンスと、そうではない弟のセオドアを、明確に区別した。
ロレンスが食べ終わるまでセオドアは食事を与えられない。武器も防具も、セオドアにはロレンスのお下がりしか手に入らなかった。セオドアにかかる養育費は徹底的に切り詰められた。
公爵位を継ぐ間際に弟の反乱に遭った父は、セオドアの牙を抜き去ろうとしたのだ。身内ほど信用できないものはないのだと、領主となった男は常々言っていた。
ロレンスは怯えた。
実の弟を手にかけたように、父は実の息子も手にかけるのではないかと。
だから父と同じようにふるまった。セオドアを足蹴にし、冷たく扱った。他人に笑いかけることをやめた。そうすればセオドアは沈黙を守り、父は満足するからだ。
セオドアは――セオドアは、恨んでいるはずだ。
*
冬至の夜。
新しい侍女が領主たるロレンスのもとへやってきた。
部下たちによる何重もの身元確認のすえ、危害なしと認められたはずの侍女だった。
まだ幼さの残る、年端もいかぬ少女。
しかし彼女の差しだした茶には毒が含まれていた。銀のスプーンにも痕跡を残さぬひそやかな、それでいて人を死に至らしめるだけの猛毒が。香りの強い薬草茶で誤魔化そうとしても、舌を刺すような苦みは拭いきれない。
声の漏れぬ小部屋にやってきたのも、侍女に茶の用意をさせたのも、部下から内密な報告があると伝えられたからだ。
ロレンスは幾人もの裏切者がこの状況を仕立てあげたことを知る。
同時に侍女も、ロレンスのわずかな逡巡から気づかれたことに気づいた。
「アングス領のため、セオドア様のため……!!」
毒に侵されつつある身体をなんとか奮い立たせ、侍女のふるうナイフを宝剣の柄で弾き飛ばす。
部屋の外へ飛びだしたロレンスを男たちが待ちうけていた。
毒がまわりきる前に、逃げださねばならない。
『これは兄さんが持っていてくれ』
そう言って領主の証である宝剣をロレンスに渡したのはセオドアだったというのに。
(やはり、セオドアは俺を恨んで――)
噛みしめた唇は血の味がした。
*
空には雪が舞っている。町の広場であかあかと燃える篝火が丘に建った屋敷の庭から見下ろせた。あの篝火は太陽の化身であり、どれほど天候が荒れようとも三日三晩尽きることはない。
かたわらに魔女はいなかった。
ロレンスは殺されようとしていた。
忠誠を誓わせたはずの部下たち、使用人たちは、各々に武器の鋭い切っ先をロレンスへ向ける。
ぐるりをとり囲まれた視線はひえびえとした暴風雪となって四方八方から吹きつける。
父と同じ目だった。
そしておそらく自分とも。
「――やれ」
暗い顔をした誰かが呟く。
無数の青白い刃が、まるでやわらかな新雪を刺すように、ふくりと身体を貫いた。
じんわりと血のにじむ服が氷点下の空気に冷やされて凍っていく。
踏み荒らされた硬い雪の上に鮮血が散った。
血の味が喉の奥からこみあげる――。
「兄さん!!」
漫然と死の感覚を味わっていたロレンスを、不思議な声が揺さぶった。
聞きなれた、しかしもう何年もこんなふうには呼ばれなかった、そして先ほど思い出の中で呼ばれた声。呼び名。
ロレンスに刃を突き立てていた者たちに動揺が走る。
彼らを押しのけながら一人の男が現れた。少年の面影を残した鳶色の目と髪の男――。
「セオドア……」
「やめろお前たち!! 兄さんはやさしい人なんだ!! ずっと僕を守ってくれていたのに……!!」
セオドアはロレンスのもとへ駆け寄るとくずれそうな身体を必死に抱きしめた。
「兄さん!! ロレンス兄さん!! 早く、屋敷の中へ運べ!! 医者を呼べ!!」
あのときと同じように涙をぼろぼろと流しながら自分を支えるセオドアが叫ぶのを、ロレンスはぼんやりと聞いていた。
「ごめんね、ごめんね僕が、勇気の出なかったばっかりに――」
こんな記憶はない。
ならばこれはまだ現実にはなっていない出来事。
ロレンスの唇からふるえる声がこぼれ落ちた。
「これは――〝未来〟なのか?」
***
そこで小さな蝋燭は燃え尽きた。
炎が身をくゆらして消えると同時に、すべての景色もかき消える。
しかしロレンスは動かなかった。
呆然と宙を見つめるロレンスの背中に、シャルは呆れ半分の笑いを投げた。
「よかったわねぇ、魔女に拾われて。私も師匠が戻るまでこの家を守らなければならない身なの。争いは困るわ」
テーブルから杖をとりあげると魔力を込める。
昨日からこっち、使い魔をさがそうとしただけなのに大盤振る舞いだ。魔力消費の激しい魔法ばかり使わされている。
今度請求書を送りつけてやろうかしら、とシャルは考えて、すぐに否定した。魔女は世捨て人。里人と、ましてや貴族と関わるべきではない。
ひらかれた魔道書から魔法陣が放射される。
「風よ風よ、連れてゆけ、彼をゆくべき場所に」
「……なんだ、なにを――」
ロレンスがふりむくより早く、呪文は唱え終えられた。
「バイバイ、聖夜の恵みを」
最後に見えたのは、魔女のやさしいほほえみだった。




