泳げない回遊魚
テーマ【夏】
「今年の夏は暑い」
そう、天気予報のお兄さんが言っていたのを思い出す。
最高気温37.8度。私の体温より熱いとか。笑いを超えて失笑しか出てこない。
37.8度の空気は、気体なのに粘性を持ち、私の肌を舐めまわすようにまとわりついてくる。まるでお湯の中を泳いでいるようで、新鮮な酸素を求めて魚のように口をパクパクと開けるけれど、私の口にはねっとりとした生暖かい空気が入ってくるだけで、思わずむせてしまった。
都会の駅前のスクランブル交差点。正午5分過ぎ。
信号が青に変わると、一斉に巣箱から出てきた社畜という名の魚が、餌を求めて右へ左へと私の前を通っていく。どこからこんなに出てきたのか、どこへ行くのか。まるで巨大な回遊魚の群れのようだった。
それなのに私は交差点の前から動かない。青信号が点滅して、赤に変わる。群れが去っていく。次の群れが集まってくる。圧倒的な疎外感。
何度目かの青信号。それでも私は動かない。
同じ魚なのに、泳がない私を、他の魚たちは不思議そうに、いや邪魔そうに見ては通り過ぎていった。決して声はかけてはくれない。それはそうだ、真夏の正午に日傘もささずに、スクランブル交差点の前で立ち尽くしている女なんて、不気味でしかない。
とある魚は泳がないと死んでしまうらしい。私は昔見たテレビの内容を思い出した。
その魚は、開きっぱなしのエラに、新鮮な空気の入った水を取り込まないと、酸欠で死んでしまうらしい。泳ぐことで呼吸をしている彼らは、泳ぐことを強いられているのだ。いや、泳がないと死んでしまうのだから、強いられているというのは語弊があるか。
信号が青に変わる。それでも私は動けない。
目の前を魚の群れが泳いでいく。ねっとりとした温水の中を、足を交互に動かして泳いでいく。きっと見えないエラでこの多湿な空気から酸素を取り込んでいるのだろう。都心の空気は、けっして新鮮な酸素をもっていなそうであるが。
信号が赤に変わる。
もし私が、泳がないと息ができない魚だったら、きっと私は酸欠で死んでしまっているのだろう。
魚の群れからも置いていかれ、はぶられた私。どこにもなじめない、溶け込めない。
そんな魚はきっと、サメやシャチに食べられてしまうのだろう。一人で泳ぐ魚なんて、恰好の餌食である。
食いちぎられ、咀嚼され、ボロボロに引きちぎられるのだろう。
そんなの嫌である。
だから私はここから動かない。
捕食されるもの嫌だ。群れに媚び打って混ざるのも嫌だ。身体が痛いのも、心が痛いのも嫌だ。
そんなわがままで、できそこないの私に残された最後の手段。
それこそが、「窒息死」
エラ呼吸を辞めてしまった魚はどんな気持ちなのだろうか。
酸欠になりゆく脳で、置いていく仲間たちの背を見ながら、いったいどんなことを考えて逝くのだろうか。
圧倒的孤独感、未練、絶望?
私はそうは思わない。
泳ぐことを強制つけられた魚が、その義務から解放されるとき。
おそらく、その魚は解放感に包まれるのだろう。
泳ぎ続けるといった呪いから解き放たれた喜び。
きっと、霞んでいく思考の中、喜びをかみしめているのだろう。
私はその時を待っている。
泳ぐのを辞めて、エラ呼吸を辞めて。脳が酸欠していくのを待っている。
目の前を通り過ぎていく、魚たちを眺めながら。
だんだんと私の身体がふらふらしてきた。見ている 景色がぐるぐるまわる。
どうやら、私もその時が来たようだ。私はもう泳がなくていいのだ。責務から解放された喜びが全身を包んでいく。脳汁がほとばしる。
私は生きる(泳ぐ)ことを義務付けられた人間(魚)たちに叫んだ。
「どうだ、羨ましいだろう!」
中指を立てながら倒れていく私の身体。
地面にぶつかる、ドサッという音を、他人事のように聞いていた。
そんなことを思う魚がいたっていいじゃないか。
だって私は泳げない回遊魚。
生きることが苦痛なのだから。
【読了後に関して】
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