7.この手にはまだ、色んなものが残っている
喪失感がすさまじかった。とうとう失われたという恐怖と、胸にぽっかりと穴が空いたような空虚感。もう全部なくなってしまった。浮かんできた考えに自嘲し、自分の手のひらをじっと見下ろす。────今頃、アルフレッドは何をしているんだろう。きっと、何も考えずに眠っているに違いない。
(いいや、違うか……。とうとう目障りな兄が婚約を認めてくれたと思って、ほっとしているところか)
何となく、アルフィーにそういう女性は現われないと思っていた。一生。あの子は気弱で、病弱で、怖がりで、いつもいつも、この私の後ろをついて回っていた。だから、心のどこかで「この子に恋愛なんて、一生出来ないだろう」とバカにしていた。でも、同時にほっとしていた。ずっと、自分から離れていかないだろうから。
あの夜、産み落とされた彼女の子供。彼女の色と顔立ちをそっくり受け継いで、生前の彼女のように眉を下げ、情けない表情でこちらを見上げていた。
制御しがたい感情がせり上がってきて、喉を覆い尽くす。涙をこらえ、一気に酒をあおった。酒に溺れる愚か者。かつて酒に溺れ、国を傾けてきた為政者達をバカにしていたくせに、いざ、自分がこうなってしまうと制御出来ない。止まらない。
酒をグラスに注ぎ、はぁと、深い溜め息を吐く。酒臭い。明日に差し支えるから、ここで一旦、やめておかねば。後ろへともたれ、両目を閉じる。妻がここへ来るまで、酒は飲まない方がいいだろう。
(マルティナ夫人……)
彼女なら困ったように笑って、「アルフレッドのこと、許してあげて」と言うことだろう。ふいに肖像画が見たくなって、立ち上がる。この部屋は王太子時代、使っていた部屋で、教師などを招いて勉強する応接室と、寝室、書斎が備わっていた。一人になりたい時、ふらりと、こちらへやって来て夜を過ごすこともある。今がまさしくそんな気分で、よろよろと歩き、寝室の奥に隠された小部屋へと向かった。
ここは本来、高価な宝石や貴重品を収めるための小部屋らしいが、少し造りを変えて、彼女────マルティナ夫人の肖像画を飾ってあった。
気まぐれに、父が遊びに来ても見つからぬよう、厳重にカーテンで覆い隠されている。さらには絵が老朽化しないよう、ひそかに口の堅い国家魔術師を呼び寄せ、魔術をかけさせた。効果は持続しないので、今でも月に一度、その魔術師に魔術をかけて貰っている。
(王になって良かったことと言えば、それぐらいか……貴重な一等級国家魔術師を、好きなように使える)
軍の一個中隊に匹敵する戦闘力を持ち、生きた兵器とも呼ばれている一等級国家魔術師。就任と同時に私と魔術契約を結び、決して反逆が出来ないようにしてある。そんな稀有な人物を、私は絵のために使っているのか。また、自嘲の笑みが浮かび上がる。
どうして、こうも上手くいかないのだろう。何もかも。どうして、マルティナ夫人とその子供は今も、こうして私の胸をかき乱すのか。笑いながら絵を見上げていると、生前と変わらぬ、気弱そうな微笑みを向けてくれた。澄んだ青い眼差しに、優しげな顔立ち。身にまとうドレスは淡いブルーで、繊細なレースが胸元に重ねられている。
「マルティナ夫人……」
返事はない。当然だ。苦しい時、悲しい時、いつだってここへやって来てこの絵を見上げていた。彼女は心のよりどころであり、その子供であるアルフレッドは────……。
「考えても仕方の無いことばかり、私は考えているな。くだらない」
この様子を普段、私をよく知る重臣達が見ると、腰を抜かさんばかりに驚くことだろう。やつらは私を、血の通った人間だと思っちゃいない。常に国のために尽くし、国民の父であり、いかなる不正も賄賂も許さない。疲れた様子も、取り乱した様子も見せはしない。それは我が子を亡くした時とて、同じこと。「どうも、我らが国王陛下は常に完璧な人間であらせられるらしい」。ああ、くだらない。バカげている。どいつもこいつも。
『ごっ、ごめんなさい! ええっと、その、あまりにも綺麗な音色だったから……部屋に入って、聴いてても?』
『マルティナ夫人?』
教師が戸惑って、私を見つめてきた。それまで弾いていたヴァイオリンを一旦、肩から下ろして薄く微笑む。
『どうぞ、おかけになって聴いてください。練習中で、そう上手くはありませんが』
我ながら、不気味な八歳の子供だった。待望の男児である私を産んでからというものの、夫である国王は途端に見向きもしなくなり、一気に側室を三人も迎え、女遊びにふけるようになった。やがて、私への当たりが徐々に強くなる。厳格な母の頭の中身はよく分からない。私が王太子にふさわしく、優秀な子供であれば、かつての優しい陛下に戻ると、そう思いこんでいたらしい。
厳しい教師が揃えられ、朝から晩まで、「王太子とはかくあるべき」と言い聞かされた。それをこなせる優秀さが自分には備わっていた。この境遇を不遇だと、そう疑いもせずに生きていた。だが、言葉に出来ない苦しみだけが胸に残る。自分は一体、何のためにここにいるのか? いつか王になるため。そのためだけにただ、生かされ教育を与えられている。
演奏が終わった瞬間、軽やかな拍手が響き渡った。見てみると、壁際のソファーに腰かけた、マルティナ夫人が嬉しそうな笑顔で拍手を送っていた。青い瞳がきらきらと、無邪気に光り輝いている。
『すごいのねえ! まだ八歳なのに、そんなに上手に弾けるだなんて!』
『マルティナ夫人!? 殿下に一体、なんて失礼なことを!』
『あっ、ご、ごごごごめんなさいっ……!! 私ごときがごめんなさい! でっ、でも、小さな体で本当にすごいわ! 腕がまるでプロの音楽家に操られてるみたいに、するすると動くんですもの。見惚れちゃったわ、私!』
彼女は他国の間者だと疑われていても、天真爛漫な微笑みを絶やさない人だった。が、人に叱責されると酷く縮こまり、「はっ、はい。ごっ、ごめんなさい……」としきりに謝った。初めて会った時もそうで、教師に叱責され、涙ぐんでいた。
『こうして会うのは初めてですね、マルティナ夫人』
『殿下』
『えっ? あ、あ、そっ、そうね? 初めまして、ギルバート殿下』
気弱そうな微笑みを浮かべ、挨拶してくれた。何の欲も宿っていない、澄んだ青い瞳に心を囚われた。────彼女なら、この苦しい何かを理解してくれるかもしれない。思うように息が吸えない日々だった。彼女は予想通り、そんな私の手を引いて歩いてくれた。うららかな春の陽射しが、王宮の中庭を照らし、緑の芝生を温めてゆく。そんな中をよく二人で手を繋ぎ、散歩した。
『ギルバート様。王妃様はあなたとその、手を繋いだりなさらないのですか……?』
『記憶にある限り、ありませんね。そんなことは。もっともっと、小さい頃にならしていたのかもしれませんが』
『まぁ! ギルバート様はまだ八歳ですのに! 小さな頃と言いますが、まだまだ本当に小さいんですよ!? ギルバート様は! も~、小さい子にこういった触れ合いが大事だって、あの人達はちっとも分かっちゃいないんだわ!』
そう言って怒り、微笑んで私を振り返ってくれた。言いようのない感情が胸を占め、泣きたくなった。静かに涙を流す私を見て、痛ましい表情を浮かべ、そっと優しく抱き締めてくれたこともある。
「マルティナ夫人……思えば私は、貴女に恩を返そうと思ってこなかった」
あの夜、打ちのめされた。王宮に唯一あった、柔らかな温もりが失われてしまったと、そう思って泣いていた。でも、アルフレッドの方がよく泣いていた。母を亡くしたばかりの赤ん坊は熱くて、頼りなくて、「守っていかなくては」とそう思わせる、小さくてぐんにゃりとした体だった。今でも、初めてアルフレッドを抱いた時のことをよく覚えている。この腕に、あの熱が染みついている。浮かんできた涙を親指で拭い、溜め息を吐いてから、笑う。
「返すべきですね。貴女の遺品とアルフレッドを、パーセル伯爵家に……」
彼女は記憶を失ってなどいなかった。勝手にへそを曲げて、今までアルフレッドにさえ、母親の出自を教えてこなかったが。そろそろ言い出すべきだろう。きっと、あの家が二人の結婚を手助けしてくれる。
(が、あの小娘……腹が立つな。お前のせいで、アルフィーに嫌われたじゃないか)
いくらあの娘の嘘だと言っても、聞く耳を持たん。どうしてくれようと、酒に酔った頭で考えていると、妻の「あなた?」という声が響き渡った。
「ああ、マーガレット。すまないな。疲れているのに、呼びつけたりなんかして」
「いいえ! ふふふ、そろそろお呼びがかかる頃だと思って、待機していましたの。……シャーロットちゃんとアルフレッド殿下の婚約、お認めになったでしょう?」
「渋々な」
今朝、声明を出した。二人の婚約を正式に認めると、そう。弟のことが好きだと、指南役だったカミラ夫人にこぼしていたのが運のツキ。あの頃の彼女はもう少し、まともで優しい女性だったような気がするが……。
十八歳だった私はまだ未熟で、誰にもこの悩みを打ち明けるべきではないと、そう理解していたにも関わらず、うっかり、ベッドの上で悩みを打ち明けてしまった。深く溜め息を吐き、額を押さえていると、勘違いした妻が「まったくもう」と言って笑い、腕に寄りかかってきた。
「でも、いい子ですから。シャーロットちゃんは」
「あれのどこかだ。平気で嘘を吐くような女だぞ? しかも、真実を織り交ぜて嘘を吐く。全部が嘘と言いきれないからこそ、誤解を解くのも難しく、」
「まぁ、ギルバート様。お酒の飲みすぎなのでは?」
「マーガレット……。君まで、私の言葉を疑うのか?」
「ふふふ。陛下が白だと言えば、カラスだって白色ですもの。でも、そうね? シャーロットちゃんも、あなたを騙すような悪女かもしれませんね」
(全然、伝わっていないな……)
あの小娘が。酔った頭ではいい言葉も思いつかない。覚束無い足取りで歩く私の手を、妻が笑って引いてくれた。その時、昔の光景と今の光景が重なる。それに、あの腹の中には私の子も宿っている。後ろを振り返ってみれば、マルティナ夫人の肖像画が微笑みかけてくれた。
「……そうか。もう、お守りなんて必要ない年頃か」
「ギルバート様? どうなさいましたか?」
「いいや、何でもない。ただの独り言だ。マーガレット、今夜は一緒に眠っても?」
「ええ、もちろん。お酒臭いあなたとでも、喜んで一緒に眠りますとも!」
(ひそかに怒っているな……)
常に私の体を気にかけている妻のことだ。内心、「こんなに飲んだりして!」と叱り飛ばしたい気持ちでいっぱいなのだろう。でも、彼女は微笑み、私の手を引いてくれている。
「……今度、生まれてくる子は二人で育てよう。もう、あんな思いをさせるべきじゃない」
「ギルバート様?」
「いい父親になれるといいが。今度こそは」
やり直そう、全部。何もかも全部。弟への歪んだ恋心のような、異常な家族愛のような、そんな気持ちはすっかり掻き消えていた。あれほど苦しかったのに、不思議と和らいで、残滓だけが胸に漂っている。マーガレットが涙ぐみ、「はい」と返事した。
「私もいい母親になれるよう、努力しなくては……もう、お姉様もいないんだから」
「すまない、マーガレット。今まで、君の気持ちを無視していた。見て見ぬふりをしていた。許してくれ」
「いいえ、ギルバート様。……ゆっくり、やり直していきましょう。まだまだ先は長いんですから」




