死に呼ばれる虚無
目の前の女が顔を上げる。カーテンのように顔にかかっていた前髪が動いてその素顔が露わになる。
その端正な顔立ちは見たこともないぐらいに美しく、まさに女神という名がふさわしい。そんな彼女の目がこちらに向く。
「人間……」
彼女の声は思わず聞き惚れてしまいそうなぐらいに美しかった。しかしその声には苦悶の色が込められている。彼女の状態が良くないのは確かだ。
「これがマーディだよ。キミ達人間が神と崇める、ね」
リマは彼女の頬に触れ、そう言った。ならば、その女神が苦しむ様を何の情もなく見ていられるお前は何者なのだと問いかける。
「お前は何者なんだ? マーディの民じゃないのか?」
「ボクかい? ボクはマーディの民じゃない。マーディと対を為す神の先兵さ」
マーディと対を為す? そんな神の存在は聞いたことがない。リーコンが知る限り、この世界には女神マーディとそれに従う四神だけが神として信じられているはずだ。
「お前が従う神というのは何者だ!?」
「……邪神ディマ。この名がキミたちにとっては覚えやすいだろうね」
邪神ディマ。それがマーディと対を為す神なのか。ならば彼女は本当にマーディの遣いなどではなく、その邪神のために自分たちに接触を図り、裏切ったという事になる。一体何故なのか。これも訊いてみる必要がありそうだ。
「お前はディマの指示で俺達に近づいたということだな。それは何だ?」
「ディマの復活の為さ。けれどボクだけじゃこの里に辿り着くのは困難だった。だから目についたキミたちを利用させてもらったってだけ」
彼女が語るうちに、その魂胆が見えてきた。
リマはリーコンたちを利用し、マーディの里に入ることに成功した。その目的はマーディルだ。この里に集う膨大なマーディルを使ってディマを復活させようというつもりなのだ。
「理解が早くて助かるよ。そうさ、ディマの復活にはマーディルが欠かせない。そしてそのマーディルは、今ここで無様な姿を晒しているマーディを殺せば誰のものでもなくなる。そしてディマが復活すれば、フロンティアはもうマーディの物じゃなくなるんだよ」
そう宣教師か何かのように雄大に語る彼女に、リーコンは心底気分が悪くなる。その思いが、ひとりでに言葉となって口に出る。
「……そうはさせない」
マーディに近づくリマの背中に向かってリーコンはそう言い放つ。リマは怪訝な顔をして振り向いた。
「ボクを止めようってのかい? 無駄無駄、できっこない」
「お前の話は聞いてない。俺は、フロンティアがお前のような下衆のせいで奪われるのが死ぬほど嫌なんだ」
リーコンは剣を構える。リマは舌打ちをし、こちらへと近づいてくる。
「キミみたいなちっぽけな存在に何ができる?」
「少なくとも、目の前の敵を倒すことぐらいはできる」
リマは首を横に振ってため息をつく。
「全く……本当に馬鹿な奴だね、キミは。せっかく見逃してあげようって気になったのに」
「余計なお世話だ……。覚悟はいいか? 行くぞ、リマぁ!!」
返事も待たずに叫び、リマに斬りかかる。回転を交えたその攻撃は、しかし簡単に避けられてしまう。
「動きが丸見えだよ」
冷たく突き放すような声。それとは対照的に熱い炎がリーコンを襲う。前に飛び込んで難を逃れるが、髪の襟足が少し焦げた。嫌な臭いが鼻を突く。
振り返り、問答無用で剣を振るう。それをリマは姿を消して避け、リーコンを頭上から襲う。魔法で結晶の刃と化した彼女の腕と、リーコンの剣の刃が火花を散らして激しくぶつかり合う。
「うっ……」
「どうかした?」
リーコンは呻き、どうにかリマを押し返して後退する。彼女の攻撃を受け止めた際に両腕に鋭い痛みが走ったのだ。
「痛かったの? 人間ってのは本当に脆いんだね」
そう言い、宙に浮いたまま体を丸める。そして一瞬の溜めの後、リーコンに向かって弾かれるようにして突撃し、ぶつかる。
リーコンは避けることができず、咄嗟に痛めたばかりの腕でそれを受け止める。刹那、鈍い音と共にその両腕を激しい痛みが襲った。
「あらら、折れちゃったかな」
リマがそう言う前に、リーコン自身がその事実をよく理解していた。最も、折れたのは右腕で、左は関節が外れたようだったが、それでも声を上げたくなるぐらいの痛みだった。
「ほら叫びなよ。痛い、痛いって。無様に床をもんどりうって、苦しんで見せてよ!」
気分が高揚しつつあるのか、リマの口調は先程までとは別人のように打って変わっていた。
しかしリーコンは屈しなかった。痛みに耐え、剣を握り、尚もリマに斬りかかろうとする。
その姿にリマは少し驚くが、遅すぎるその攻撃は簡単に避けることができた。振り返ると、地面に倒れ伏すリーコンの背中が見える。
「まさか向かってくるとは思わなかったな。でもその腕と疲労じゃもう戦えないよ」
「……黙れ。俺がやらなければ、他に誰がやるって言うんだ!」
リーコンの問いに、リマは黙り込む。それは答えが思い浮かばないのか、下で戦っているであろうピュアの事を思い浮かべているのか。いずれにせよ、彼女は何も答えずに今度こそリーコンを殺そうとする。
こちらに向けて掲げられたリマの腕に魔法が込められていくのを見て、遂にここまでかと歯を食いしばる。取り落とした剣を拾おうにも、腕に力が入らず、感覚もなかった。
それを見たリマは魔法を放つことを取りやめ、リーコンの剣を拾う。そして切っ先をリーコンに向かって突き出した。
「――先輩!」
だが、それでもなお、リーコンが死ぬことはなかった。彼とリマの目の前には、その小さな体全体を使って彼を押し出したリリィの姿があったからだ。
「キミは……」
「……無事ですか? 先輩」
そう言って、左胸から血を流しながらリリィは倒れた。そんな彼女の傍らに駆け寄るリーコン。その背中をリマはじっと見つめていた。
「リリィ、しっかりしろ! おい!!」
「……」
なぜあそこまでリリィの事を気遣うのか。リマには理解できなかった。どうにか頭を回転させて考えようにも、耳元の囁き声で思考が中断される。
「何を遊んでいる。早くマーディを殺せ」
「分かってる!」
耳障りな声を振り払うように腕を振り、がっくりと項垂れるマーディに向き直る。そして、その身に宿る膨大なマーディルを吸収し始める。その間も耳元で囁く男の声は消えない。
「もっと、もっとだ。その存在が消えてしまうほどに奪い取ってしまえ。お前にはそれだけの期待が込められているのだ」
「……」
リマはこの男が嫌いだった。いつも偉そうに命令するだけで、自分で動こうとはしない。そんな態度に嫌気がさして反抗しても一向に歯が立たない。殺してやりたいと思うほどの憎しみを、リマはぐっと押し殺し、目の前の作業に集中していた。
そのせいだろうか。背後から迫る槍に気づくことができなかったのは。
「うっ!?」
自身の胸を貫通する槍、そして背後に視線を移す。そこにはボロボロになって肩で息をしているピュアの姿があった。
「必死すぎて私に気づくことができなかったみたいね」
「もうっ……何なんだよこいつら! ボクが何かしようとすれば必ず邪魔する!」
そう露骨に苛立つリマの様子は、彼女に大したダメージを与えられなかったことを意味する。だが、精神的な屈辱を多少なりとも味合わせてやることぐらいはできたのではないだろうか。
「貴方の思惑が何なのかは知らないけど、女神様とあの二人をあんな目に遭わせたことを後悔させてやるわ!!」
「くっ……よりにもよって一番相手にしたくない奴と闘う羽目になるなんて」
リマの胸に刺さる槍が消え、ピュアの手元には円形の武器が現れる。見たところ、盾のように見えるが。
「あの武器が何だろうと関係ない。その魔女を殺せ。力を与えてやる」
またあの男の声が聞こえる。リマは口を開くが、声を発する間もなく力を与えられる。全身に電流が走ったような感覚が収まると、自身の身に絶大な力が漲るのをひしひしと感じる。
それを見たピュアは、リーコンにリリィを連れて逃げるように言う。
「リーコン、リリィちゃんを連れて逃げて。私はここに残って戦うわ」
「だが――」
「いいから早く!」
「……っ、すまん!」
瞬時迷った後、リリィを背負ってリーコンは逃げようとする。しかし、疲労が限界に達したせいか、すぐに膝を突いてしまう。
「リーコン!」
それを見たピュアは手元の武器をリマに投げつけ、しっかりと足止めしてからリーコンとリリィの周囲にバリアを張る。これでしばらくは安全だ。効果が途切れてしまう前にリマを倒さなければ。
「行くわよ、リマ!」
一方、リーコンはリリィの身体を床に横たわらせていた。どうにか目を覚ました彼女に少しでも楽な姿勢を取らせようと思ったからだ。
「もう大丈夫だ。俺が治してやる」
そう言い、かつて彼女にもらった魔導書から学んだ魔法を使おうとする。だが、使い物にならなくなった腕には十分な魔力が行き渡らない。焦って力を籠めるが、魔力切れを起こしそうになり、思わず踏みとどめてしまう。
「いいんです、先輩。貴方を守ることができたから……」
「そんなことが死んでいい理由になるわけがない! どうにか、少しでも長く耐えてくれ!」
そう懇願するが、リリィは諦めたように目を閉じてしまう。
「もう、無理なんです……でも」
閉じていた瞳が再び開かれる。その目はしっかりとリーコンを見据えていた。
「先輩……約束、してください」
「……何だ?」
「世界を……絶対、救ってください」
生きることを諦めたかのような声。そんなリリィの言葉を受けて、リーコンは首を振って言う。
「ああ、救う。約束する、救ってみせる。だから死ぬな!」
後半はほとんど嗚咽混じりだった。とにかく彼女に死んでほしくない一心で、リーコンは声を振り絞っていた。
そんな彼を見てリリィは微笑み、
「ありがとう……先輩。でも私、自分勝手で……」
リリィの指が、リーコンの頬を伝う涙を拭う。
「先輩に、辛い思いをさせてしまって……ごめん……なさい」
リリィの手から力が抜ける。リーコンの鼓動が早くなる。
「おい、リリィ? おい、おい!?」
痛みも忘れて彼女の体を揺さぶるが、何の反応もない。何度も、何度も揺さぶることを繰り返す。しかし彼女が目を覚ますことは決してなかった。
「返事をしろ! 目を開けろ!! 勝手に死ぬなんて……そんなこと許さないぞ、リリィ!!!」
認めたくなかった。それ故に彼は叫んだ。だが、彼女の魂が戻ることはなかった。
滂沱の涙を流すリーコンの元にピュアが駆けつけたのは、それからしばらく後の事だった。後に聞いた話では、あと一歩のところで逃げられてしまったという。
しかし、リリィという存在を失い、悲しみに暮れるリーコンにとってはどうでもいいことだった。
「クソ、リリィ……クソぉ!!!」
濃厚な死の気配が漂うこの場で、リーコンの絶叫だけが木霊していた。




