真田 伸一
今日は非番だ。いつも行く牛丼屋が店舗拡張の為に臨時休業の為、俺は児童公園の並びの喫茶店に入った。胃袋が完全に牛丼モードなので、果たして喫茶店のモーニングで満足してくれるだろうか。半信半疑で、喫茶店の重厚なドアを開ける。軽快なカウベルの音と共に、淹れたてのコーヒーの香ばしい香りに。ふわりと体を包まれた。急に牛丼の気分は吹き飛んで、たまにはお洒落な朝食も良いか、という気分になる。全く現金な物だ。
時刻は午前九時。朝、ここを賑わせるサラリーマンは仕事を始めた頃だろうし、次にここを賑わせる主婦たちは家事の真っ最中だろう。そのおかげで、店内はがらんとしていた。窓からは、清潔な朝の光が降り注いでいる。奥のソファー席に陣取って、使い古されたメニューをめくる。クラブハウスサンドにカフェラテのセットを頼み終えると、ほっと一息吐く。
ふと窓から外を眺めると、隣の児童公園の風景が目に飛び込んできた。まだ誰もいない児童公園を、老人が横切っていくのが目に入った。赤い毛糸の帽子に、格子模様のどてら、腹巻に皺の寄ったズボン。シルバーカーにゴミ袋を乗せて、夜のうちに投棄された空き缶を拾っているようだ。ゴミ箱の中まで改めている所を見ると、ホームレスだろうか。
「お待たせいたしました」
カリッと焼けたトーストに、瑞々しいレタスとトマト、半熟の茹で卵、香ばしく焼けたベーコンが、主役を譲るまいとせめぎ合っている。ミルクの泡が溢れんばかりに盛り上がったカフェラテがテーブルに着地すると、待ちかねたようにぐぅと腹が鳴った。いかにも喫茶店のウェイトレスらしいおさげ髪の女が、伝票を置きながらくすっと笑う。
「ごゆっくりお召し上がりくださいね」
目礼を返すや否や、大きく口を開けて食事にかぶりつく。時折カフェラテで喉を湿らせながら一気に平らげていく。一瞬で無くなったクラブハウスサンド。やはりボリュームが圧倒的に力不足だ。追加でホットドッグをオーダーすると、ホットコーヒーをサービスしてくれた。
「あの、お兄さんて向かいの消防署の方ですよね?」
「あ、ああ。そうだけど……何か?」
ケチャップとマスタードのかかったオーソドックスなホットドッグを咀嚼しながら返事をすると、ウェイトレスが憂い顔で佇んでいる。白い肌に薄くそばかすが散っていて、なるほど美人ではないが、愛嬌のある娘だと思った。
「昨日、隣の公園であった事件、ご存じですか?」
「いや。何かあったのか?」
昨日は、一日中消防署に詰めていたが、珍しく一度も出動が無かった。こんな日もあるのか、と署員皆で首を傾げていたくらいだ。
「犬がね、三匹殺されたんです」
「犬…か」
「犬だからあんまり注目されてないんですけど、実は結構続いていて…。夏にも猫が殺されてた事もあって……秋にはハトに矢が刺さってるのが見つかって…動物が可哀想な目に遭う事が増えてるんです。ううん…発見できてないだけで、ほんとはもっとあるのかも。前は、もっと野良猫が沢山いたんですこの公園。マスターには内緒ですけど、私こっそりパンの耳とかあげてた時期もあって」
彼女はちらりとカウンターを振り返り、小声で続ける。マスターは、朝の混雑から解放された安心感からか、カウンターで居眠りをしている。
「警察の人にも事情は説明したんですけど、中々相手にしてもらえなくて…。こないだあった大きな火事の犯人探しで忙しいのかな」
「いや。最近、動物虐待が殺人に繋がるケースも増えているっていうから、警察も相手にしないってことはないんじゃないか?」
「そう…ですかね。早く捕まるといいなって思って……ちゃんと捜査してくれてるのかなって思ったんですけど、やっぱり警察の領域ですよねこれって」
「そうだな。俺は、特に力になれないな。申し訳ないが」
その時、ふいにカウベルの音がして、ベビーカーを押した主婦が二組入ってきた。ウェイトレスは、ぺこりと一礼して、元気良く駆けて行った。
ふいに、夏の日に見た猫の死骸が思い出された。俺が足早に公園を立ち去った後に、誰かが通報したのだろう。しかも、あの後も事件の続きがあったとは……。もし、新田六花の仕業だったとしたら、本当にあいつは何を考えているのだろう。
ポケットから、しわくちゃになった交番表を引っ張り出す。真田が入署した年から、交番表はパソコン上で見るだけになり、一人一人に配布される事はなくなったが、どうにも不便で、真田はいつもプリントアウトして携帯している。
「昨日昨日…っと」
ごつごつした指を滑らせて、新田六花のシフトを調べると、昨日は非番になっている。何とも嫌な符合だ。過去の事件の日付も含めて調べる必要があるだろうか。今日も有給を使って休んでいるようだ。ざわざわと嫌な予感がする。席を立つと、児童公園の遊歩道を、新田六花が急ぎ足で通り過ぎるのが見えた。
反射でジャケットを片手に会計を済ませ、走って店を出る。新田六花の後ろ姿が確認できると、何とは無しに後をつける。大体、有給を取ってるのに何でこんな所をうろついてんだこいつは。街路樹に隠れながら距離を取って歩いていく。新田六花が振り向く気配は無い。大胆に距離を詰めていくと、ケーキ屋の箱が見えた。新田六花は、箱を前後に振りながらすいすいと歩いて行く。どうやら南町商店街に向かっているようだが、一体どこへ向かっているのだろう。
その時、ふいっと新田が視界から消えた。慌てて後を追うと、爽やかな柑橘系の香りが漂う店内に新田の姿が見えた。西洋風の張り出し窓の向こうには、明らかに女性以外お断りの空気が漂っている。さすがに二の足を踏んで店外で待つことにする。表の看板を見ると、美容に良い入浴剤や石鹸を売る店らしいが、こんな店に何の用があるというのか…女性店員と楽しそうに談笑している新田を見て首をかしげる。十分後、ケーキの箱と紙袋を提げた新田が外に出てきた。再び尾行を開始する。その後も、花屋、雑貨屋、洋服屋などで着々と手荷物を増やし、新田は軽やかな足取りのまま、魚芳という古びた魚屋の二階に消えていった。しばらく待っても新田が下りてくる気配が無いので、ようやく真田は物影から出て行く事ができた。
すると、同じタイミングで、隣の路地から顔を出した女がいた。フードにファーがついた白いダッフルコートを着ている。この寒いのに、膝丈のふんわりとした黒っぽいチェックのスカート、足元はブーツ。しかも、魚屋の店先から新田が消えていった先を眺めているのも同じだ。気まずさに耐えかねたのか、向こうが口火を切った。
「何ですか?」
「こっちの台詞だ。あれか?新田の彼女か?」
ぱっと頬を赤くしながら、髪をぶんぶんと振りながら女は否定した。
「やっそんな違います!彼女だなんて…なれるならなりたいけど。さしずめ、ただのファンで…っていうか新田さんていうんだ」
「あいつのストーカーか」
ストーカーという言葉は、彼女のプライドをいたく傷つけてしまったようで、一転して女は烈火の如く怒りだした。
「違っ!」
女が何か言おうと拳を振り上げた時、新田六花が消えたドアが再び開いた。思わず女の手を引いて、同じ路地に隠れる。二人で息を殺している間に、手ぶらになった新田は、また商店街に繰り出して行った。昼も過ぎて人通りが多い商店街。もう新田は、人ごみの中に見えなくなってしまっていた。
「ちっ!見失ったか……」
「あーあ」
二人で悔しがるも、後の祭り。戻ってくるのを待つか迷っているうちに、魚屋の店先のおばさんと目が合った。おばさんは、にぃっと笑うと、のしのしとこちらに近づいてくる。
「ねぇ、さっきからそこにいるけど…君たちは新田くんの友達?」
二人とも口ごもっているのに、そのおばさんはどんどん話を先に進めてしまう。しかも、新田の部屋と思しき窓から、ちょうど女が顔を出した。布団を干しているが、あれは新田の彼女なのだろうか。その女に向かっておばさんが手を挙げて叫ぶ。
「里穂ちゃぁぁん!この二人、新田くんの友達なんだってさぁ!」
「じゃあ、上がってきてください。六花くん、すぐ戻ってくるって言ってたから。お茶でも淹れるわ」
おばちゃんは、一仕事終えたとばかりに店に戻って行くが、こっちは気が気じゃない。新田に、俺が尾行していたとばれてしまうじゃないか。隣の女だって、ストーカーしていた事がばれて困るはず…。当然断ると思いきや、女は既に階段に足をかけていた。これは引き返せないってことか。俺は、大きくひとつ溜息を吐くと、頭をかきながら階段を上って行くことになった。