粕谷 美代
ドアを開くと、良い匂いがした。何だろう。香水のように、こちらに主張してくる香りではない。きっと王子様改め新田さんの匂いなんだろうな…とか言うと本当に私気持ち悪いストーカーみたい。さっき表で失礼な男に言われたストーカーという言葉が、結構深く胸に刺さっている。そりゃそうだよね。偶然商店街で見かけたらついてきちゃうよね…だっていつまでも見てるばっかりじゃ、誰かに取られちゃうんだもん。きっかけは、自分で作らないと。
「ところで、お名前は?あと、新田さんとの関係」
布団を干していた里穂さん…というらしい女の人は、お茶を淹れにキッチンにこもってしまった。今のうちに何か打ち合わせしておかないと、失礼男は新田さんの本当の知り合いみたいだし、このままでは本当に私はストーカーにされてしまう。
「人に名前を聞く時は、まず自分から名乗れよストーカーさん」
「だっだからストーカーじゃないから!…粕谷美代。19歳。商店街のお惣菜屋さんでバイトしてて、新田さんはお店のお客さんです。って言っても、お惣菜の話以外したことないんですけど……」
私と新田さんの関係って、突き詰めるほど本当に薄っぺらい。惨めすぎて、赤面したまま俯く。あぁ、よりによって何でこの人こんなに目つき鋭いの?ただ見られてるだけで、凄い威圧感。
「俺は、真田伸一。あいつとは職場が一緒でな。南町消防署で働いてる。俺はあいつの三期先輩だ」
「私は、村瀬里穂と言います」
自己紹介が終わった所で、見計らったようにトレーを持った女の人が現れる。しかも、するりと会話に入り込む茶目っ気も、包み込むような笑顔も魅力的だ。
「二人とも初対面なのね。じゃあ、一緒に来たわけじゃないのね。鞠子さんに強引に連れて来られたのかな」
柔らかく笑いながら、かちゃりとティーカップを並べていく。藍色の上品なケーキ皿には、モンブランと苺のミルフィーユが乗っている。私は迷わずどっしりしたミルフィーユを選ぶ。
「美代ちゃんは、六花くんの事が好きなのね。聞くわよ、恋話」
里穂さんは、ショートケーキのフィルムをくるくると上手にフォークで剥がしながら、にやにやとこちらを見てくる。私も、負けじとフィルムをフォークで巻き取ろうとしたが、経験の差が裏目に出て、ミルフィーユはパイ生地を小規模に撒き散らして、無残に皿に横倒しになった。しかも、指にカスタードクリームがべったり。
「あ、あ、あぁ…」
「大丈夫よ。倒して食べるのが正式なのよ。ミルフィーユは。美代ちゃん正解」
おろおろする私にさっと手拭きを差し出して、にこにこと里穂さんは続ける。
「私ね、訳あってここに間借りさせて貰ってるだけでね、六花くんとは…何ていうかな。姉弟みたいな感じなの。本当にそれだけよ」
里穂さんは、中央の苺を避けるようにさくさくとケーキを食べていく。何だかさっぱりしていて良い人だ。
「私、出身が北海道で、こっちに出て来たての時って、方言が出ないかどうかいつも気にして人と喋ってて、バイトしてる時も、なんかいつも顔を下に向けちゃう癖があって。新田さんと初めて会った時、笑われたんです。看板娘が下を向いてちゃもったいないよって。吃驚して顔を上げたら、すっごくカッコ良い男の人が立ってて、それが新田さんでした。」
「それってあいつの見た目が好きって事だよな」
それまで、押し黙ってモンブランを切り崩していた真田が混ぜっ返してくる。
「今は、見た目と声を掛けてくれた優しさの片鱗しか知りませんけど、これから知っていくつもりです。」
「はっ!俺なら、自分の事をこそこそ尾けてくる女薄気味悪いけどな」
「だっだからそれは…軽率だったと思ってます。でも、何で初対面のあなたにそんな事言われなくちゃいけないんですか!真田さん、恋したことないでしょ?だからそんな酷いこと言えるんだ!」
「俺の輝かしい恋愛歴をケツの青いガキに教える道理はねぇな」
「ケ、ケツ!?セクハラですよセクハラ!」
真田さんの失礼な物言いは何とかならないものか。思わず歯を食いしばって応戦しようとした時、里穂さんの笑い声と赤ちゃんの泣き声がそれを遮った。
「もう面白すぎる二人とも。ほんとに初対面なの?」
目尻の涙を拭いながら、ソファーの向こうから赤ちゃんを抱いて戻ってきた。今まで、寝ていたのだろう。ソファーの影に隠れていたので、全く気付かなかった。さっそく抱かせてもらうと、ミルクの甘い匂いがした。起きたばかりだからか、目はまだ何となくとろんとしていて、動きも緩慢だ。
「里穂さんの赤ちゃんですか?うわぁ…ふにゃふにゃ。かぁわいい」
「家が火事になった日に生まれたの。モモっていうのよ」
「火事?いつですか?」
真田さんが、途端に真剣な顔になった。ここも、南町消防署の管轄のはずだから、もしかして里穂さんの家の火事を消したのは真田さんってことか。あの火事は、私も覚えてる。人も亡くなった大きな火事だったし、消防車が現場に到着するのが遅れた原因が、商店街の店が違法にはみ出させた備品にあるって事になって、凄く厳しく指導があったから。うちの店も、お客さんの整列を促すポールが、規定より2cm外に出ていると指導を受けた。
「六花くんに聞きました。私の夫と母を発見してくださったのは、真田さんなんですってね。ありがとうございました」
「いえ、無事に救助すること叶わず、責められこそすれ、お礼を言われるようなことではありません。こちらこそ、力及ばず、申し訳ありませんでした」
大人二人は、深々と頭を下げ合った。その間、私は膝に乗せたモモちゃんの手を無意味に弄んだ。先に頭を上げたのは里穂さんで、私と真田さんをひたと見つめた。
「六花くん、その火事の事を調べてくれているんじゃないかなって思うの。あの火事が起きる少し前に、一度だけ、夫と六花くんがこそこそ話しているのを見た事があるの。それまでそんなに親しくなかったのに、トラックで一緒に帰ったりなんかして。それにね、最近になって、夫から六花くんに宛てて手紙が届いてるのよ。これって、夫が六花くんに何か相談していたのかなって思うの。火事が起きてから、強引に私をここに連れてきたりして…何かおかしいもの」
「それで?」
「俺たちに何をしろって?」
「何とか、六花くんをサポートしてくれませんか?こんなこと、きょう初めて会った人に頼むのは非常識だって重々分かってます。でも、夫に口止めされてるみたいで、六花くん…何にも話してくれないし、赤ちゃんを抱えて自分でも動けない。母も夫もいなくなって、誰も頼れる人がいないの」
「分かった…と言いたい所だけど、あいつに関しては、俺も一つ気になってることがあってね。それがすっきり晴れない事には大手を振って協力できない。その懸案事項が何かについては、今は話せない。ただ、それと並行してで良いなら、その話受けよう」
「いいわ。美代ちゃんは?いい?」
自分には関係無い物と思って、モモちゃんに笑いかけていたあたしは思わずびくりと姿勢を正す。
「え、あ、あたしもですか?あたし…何か役に立てるのかな?」
「私に代わって、真田さんがしっかりやってくれているか、中立的な立場で監視しててほしいの。自分の気になってる懸案事項ばっかりにのめりこまないように」
「わ、わかりました」
その後、すぐに戻ると言った新田さんから里穂さんの携帯に連絡があり、今日は少し遅くなると言うので、真田さんと二人で今日は失礼することになった。新田さんには、真田さんから話を通しておくということになり、あたしたちは、また魚屋の前に戻ってきた。
「何だか色々ありすぎて、頭パンクしそう」
「俺も、色々と考えたい事ができた」
自宅に帰る場合、魚屋の前で左右に分かれる事になるらしい。真田さんに一礼して歩き出すと、すぐに腕を掴まれた。
「俺の懸案事項に関わる事なんだけどな。俺が大丈夫って言うまで、新田とは二人っきりになるな」
思わず反発しかけたが、真田さんの表情があまりに真剣で堅い。元々、目には鋭さが宿る人だが、鋭さの奥にどんよりとした不安が沈殿している。その表情を見て、あたしもひやっと背筋が冷たくなって、こくこくと頷いた。それを見て、真田さんは、ふっと表情を緩めて歩き去って行った。
「新田さんて、どういう人なんだろう」
名前がつけられない嫌な感情が、ふいに胸をきゅうっと締め付けてきた。それを振り払うように、私も帰路につくことにした。




