東大寺 紫
美代からの電話からちょうど二時間。
京紫での試食会は、恙無く終わった。店名に『紫』が入っている縁で何となく働き始めた和菓子屋。昭和初期に創業した老舗で、元は砂糖問屋であったらしい。竹皮で包んだわらび餅は創業当時から変わらぬ味で、京紫の看板メニューだ。昨今のヘルシースイーツブームも手伝って、うちの大学の学生にも人気がある。この間もタウン情報誌の取材が入った。
歴史とは、何気く流れていく時間の積み重ねだ。私は、それを丁寧に拾い集めていく作業が好きで、史学科に籍を置くまでになった。博物館かどこかで学芸員として身を立てていけたら良いと思うけれど、それまでは京紫でアルバイトを続けようと思うくらいには、居心地が良い。
さて。ぶらぶらと歩いてふと気付けば、目の前に魚芳の看板があった。すっかりシャッターが下りた店の横に、錆びた階段が付いている。ここの事だろう。美代は、最近探偵ごっこに忙しいようで、家にいてもそわそわしている事が多い。美代をそわそわさせているのが、純粋に探偵行動なのか、王子様との急接近にあるのかは微妙な所だろう。
インターホンの類が見つからないので、ドアをノックした。すると、すぐにドアが開いて、美代がひょこりと顔を出した。
「こんばんは。遅くなってごめんなさい」
「ゆ~かぁり~!いらっしゃぁぁあい」
「お邪魔します。あら、だいぶ飲んでるわね。何かあった?」
くすくすと笑うと、美代の頬がみるみる膨れる。
「いいのぉ!今日は飲むって決めらぁのぉ」
美代はビールにつまみより、コーヒーに甘味派で、あまり酒は飲まない。しかし、ショックな事があったり嬉しい事があったり、何かが振りきれると酒に呑まれる傾向にある。居間に入るとすぐに、整った顔の男性が迎えてくれた。これが噂の王子様か。ぐでんぐでんの美代の腕を首に巻きつけたまま対峙する。
「初めまして。新田六花と言います」
「遅くなってしまってごめんなさい。美代のルームメイトの東大寺紫と申します。私で何かお力になれるのかしら」
ミステリアスな王子様と聞いていたが、ミステリアスな感じはしない。笑顔で何かを取り繕っているように感じる。でも、それは嘘くさいという感じではなく、何だか小さな子供がはったりをかましているイメージに近い。何というか微笑ましいのだ。美代には、見えていないようだが。
テーブルの上はすっかり宴会状態。チョコレートが転がりポテトチップスが豪快に口を開けている。美代が、へらへらした顔で、冷えた缶ビールを滑らせて寄越した。新田さんが、苦笑しながら本題を切り出す。
「何か美代ちゃんこんなですけど、本題に入ります」
「時々あるんですよこういうこと。少し寝ればすぐ冷めます」
そう話している間にも、美代は缶ビール片手に机の上に突っ伏している。一時間もすれば起きるだろう。
「私、あまり回りくどい話は好きじゃないので、聞きたい事だけ聞いていただけますか」
「そうですか……では。和菓子屋さんのベンチの前に、よく座っている若い女性に心当たりがありませんか?」
新田さんの前には、缶ビールの空き缶が10本。美代に付き合って飲んでいたのだろうが、顔色一つ変わっていない。酒豪か。今も、私に付き合って新しい缶ビールのプルタブを起こしている。プシュッという小気味良い音と同時に溢れだす泡に慌てて口を埋めている。
「そうねぇ。若い女性は、箱詰めの和菓子を買うというより、看板商品のわらび餅だけ買って店先で食べて行く人ばかりだから……他に何か情報はありませんか」
「……原稿を入れた大きな封筒を時々郵便局に持って行っている子みたいなんですよね……あとは、白い封筒」
白い封筒。思いつめたような顔で無地の封筒を見つめる女の子に声を掛けた覚えがある。確か台風が近付いていたから去年の秋だろうか。強風で危険だから幟を仕舞いに店先に出た。幟は予想より盛大にはためいていて、ベンチに座る女の子の後頭部に今にもぶつかってしまいそうだった。こちらに背を向けてうつむく女の子に私は声を掛けたのだった。
「もう随分台風が近付いているみたいですよ」
女の子は、突然声を掛けたからか、びくりと振り向いた。振り向いた大きな瞳は涙で満ちていた。
「は、はい。すみません……きゃっ」
その時、一際強烈な突風が商店街を吹き抜けた。女の子の持っていた封筒は、こちらに向かって飛んできた。封筒それ自体は地面を滑るように飛び去って行き、手紙の本文は、とっさに伸ばした私の右掌に張り付いた。女の子に返そうとちらりと文面に目を遣ると、真っ赤な字で「お前だけ幸せになるつもりか」とあった。
「あ、あの……それ……あ……ごめんなさい違うんです」
「良かったですね。飛ばされなくて」
それだけ言ってお店に戻ろうとした私の背中を、蚊の鳴くような声が追いかけてくる。
「何も聞かないんですか」
「聞かないわ。だって興味ないもの。聞いて欲しいの?」
「そういうわけじゃ……でも、でも」
「違うなら行くわ。お店、台風が来るから店仕舞いなのよ。またご利用くださいませ」
それから三日間居座った台風は、店の前を濡れた落ち葉でいっぱいにした。台風一過の秋晴れの日曜日、私は竹箒を片手に店先の掃除に勤しんでいた。美代は、こんな日にたまたまシフトに入っておらず、さっきご機嫌で二度寝しに寝室に戻っていった。羨ましい人。
台風の日に会った、人の不幸せを念じる女の子はこの日も店にやってきた。今日は、大きな分厚い封筒を持っている。
「いらっしゃいませ。今日は何をお求めですか?」
「きょ、今日は……」
「生憎、台風でお砂糖も葛も入荷が遅れておりまして、営業は午後からになりますが」
「あ、あの!私の書いた小説を読んでくれませんか?」
それから、私に小説を読んで貰うと為に彼女は店にやって来るようになったのだ。私の休憩時間になるまでは、店先のベンチで時間を潰していた。
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「私、すごく協力できそうよ」
「本当ですか!?」
美代に聞いたミステリアスな王子様の印象には、出会った時から齟齬を覚えていたが、やはり違う。この人は、ミステリアスな皮を被った少年だ。大人のふりをして背伸びをしているだけ。何で背伸びをしているのかしら。ううん、誰の為に背伸びをしているのかしら。
「えぇ。でも、ここで私の口から個人情報を話す事はできないわ。一応、顧客情報になるものね。だから、明後日の午後2時。うちの店に来たら会えると思うわ。詳しい話はそこで本人から聞いてみて下さい。……それでいいかしら?」
「ありがとうございました。本当に。これで一歩前進できます」
何かお礼をと譲らない新田さんに、全て解決した暁には、ビールじゃなくてワインをご馳走して貰う事を約束して、家路に着く。すぐに目を覚ますと思った美代は、本格的に寝てしまったようで、今日は新田家に泊まらせてもらうことにした。階段の下まで送りに来てくれた新田に、私らしくないと思いながら聞く。
「新田さん、里穂さんの事が好きなのね」
「東大寺さんには敵わないな」
「おやすみなさい」
私は、それだけ聞くと黒いスカートを翻して夜の南町を下宿に向かう。時刻は午前零時。帰ったら、ワインを開けよう。長い黒髪を夜気に晒しながら猫のようにしなやかに歩いた。




