第11話 「事故の日に、手を離したのは誰だったか」
夜。
部屋の電気を消しても眠れなかった。
窓の外では風が木を揺らしている。カーテンが少しだけ膨らんで、月の光が床に揺れていた。
ベッドに仰向けになったまま、俺――高瀬 湊は天井を見つめる。
事故の日。
小六の夏。
神谷 翼の言葉が何度も頭の中で繰り返される。
『お前が俺の代わりに落ちた』
『俺が押した』
そのたびに胸がざわつく。
……本当にそうだったのか?
記憶は断片的だ。
夕焼け。校舎。手すり。誰かの手。
でも、一番大事なところだけがぼやけている。
コンコン。
静かなノック。
「湊、起きてる?」
声で分かる。
篠宮 春乃だった。
「……どうぞ」
扉が開く。
部屋着姿の春乃は、いつもの笑顔が少し薄い。静かに入ってきて、ベッドの端に腰を下ろす。
少し沈むマットレス。
距離が近い。
でも、今はそれを気にする余裕がない。
「眠れない?」
「お前もだろ」
春乃は少し笑う。
「バレた?」
「顔」
「失礼だなぁ」
軽口を言うけど、その声はどこか固い。
少し沈黙が流れる。
そして春乃が先に口を開いた。
「翼くんの言葉、全部信じないで」
その一言で、俺は春乃を見る。
「……どういう意味?」
春乃は窓の外を見る。
月明かりが横顔を照らす。
「翼くんは、自分を責めすぎてる」
「でも事実なんだろ」
「事実の“全部”じゃない」
その言葉が引っかかった。
俺が何か言う前に、春乃は続ける。
「事故の日」
「手を離したの、翼くんじゃない」
息が止まる。
「……は?」
春乃は静かに言った。
「離したのは――湊くん」
◇
言葉の意味が理解できなかった。
「俺が?」
「うん」
春乃は頷く。
「落ちそうになった翼くんを、湊くんが掴んでた」
頭の奥で映像が揺れる。
誰かの腕。
叫び声。
夕焼け。
「でも、途中で手を離した」
「なんで」
思わず聞く。
春乃は唇を噛んだ。
そして、少しだけ目を伏せる。
「その時……屋上にいたから」
「誰が」
春乃の声が、ほんの少し震えた。
「私」
その瞬間、部屋の空気が変わる。
春乃の手が、膝の上でぎゅっと握られているのが見えた。
「……私、見てた」
「全部」
「でも怖くて、動けなかった」
静かな声。
なのに、その奥にずっと押し込めていたものが見える。
「湊くんが叫んだの」
『春乃、下がって!』
その声と同時に、頭の中で何かが弾けた。
◇
――夕焼け。
屋上。
フェンスの向こう側。
泣きそうな顔の春乃。
「湊くん……!」
翼が滑る。
手を掴む。
重い。
手が滑る。
その時、後ろで春乃が近づく。
危ない。
咄嗟に叫ぶ。
『来るな!』
その一瞬。
意識が春乃に向く。
翼の手がずれる。
そして――
自分から離した。
翼を押し戻して。
自分だけ落ちた。
◇
「……っ!」
息が荒くなる。
頭を押さえる。
春乃がすぐに手を伸ばす。
「湊くん!」
その手を、無意識に掴んだ。
温かい。
震えている。
春乃の方が震えていた。
「……ごめん」
ぽつりと落ちる声。
春乃の瞳に涙が浮かぶ。
「私が行かなければ」
「湊くん、落ちなかった」
一粒、落ちる。
俺の手の甲に。
熱い。
春乃は顔を伏せる。
「ずっと言えなかった」
「忘れてくれて、少しだけ安心してた」
その言葉が苦しい。
自分だけ忘れて、周りは覚えていて。
その痛みを抱えていた。
俺は掴んだ手を少し強く握る。
「……春乃」
名前を呼ぶ。
春乃が顔を上げる。
目が赤い。
涙で揺れてる。
「お前のせいじゃない」
それだけ言うのが精一杯だった。
でも春乃は首を振る。
「違う」
涙を拭いながら笑う。
その笑顔が痛々しい。
「だって、私」
一拍。
そして小さく言った。
「その日からずっと、湊くんが好きだったから」
――その瞬間。
扉が開いた。
「湊」
低い声。
篠宮 雪乃だった。
後ろには高瀬 美月。
さらに、その後ろから高瀬 陽菜。
全員、固まる。
部屋の中。
ベッドの上。
春乃の手を握る俺。
涙目の春乃。
数秒の沈黙。
そして美月が一言。
「……説明して」
終わった。




