第10話 「落ちた日、置いていかれた記憶」
リビングの空気が、一瞬で変わった。
「……代わりに落ちた?」
俺――高瀬 湊の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ソファの前に立つ神谷 翼は、視線を逸らさない。
「ああ」
短い返事。
でも、その一言が重すぎた。
右で高瀬 陽菜が不安そうに俺の服を掴む。
「お兄ちゃん……」
後ろから高瀬 美月の手が肩に触れる。
少し震えていた。
向かいでは、篠宮 雪乃が目を伏せる。
篠宮 春乃だけが、翼をじっと見ていた。
「そこまで言うんだ」
春乃の声は静かだった。
翼は肩をすくめる。
「もう隠す意味ないだろ」
「ある」
雪乃が即座に返す。
その声には、珍しく強い感情が乗っていた。
だが翼は引かない。
俺だけが置いていかれている。
「……何の話だよ」
絞り出すように聞く。
翼はゆっくり息を吐いた。
そしてソファに座り直しながら言う。
「小六の夏だ」
その言葉で、頭の奥がまた揺れる。
◇
――夏。
蝉の声。
夕焼けの校舎。
校舎裏の古い階段。
俺と翼。
走っていた。
競争だった。
どっちが先に屋上まで行けるか。
くだらない遊び。
でも、本気だった。
「待てよ湊!」
翼の声。
笑っていた。
俺も笑っていた。
そして――
足が滑った。
視界が傾く。
手すり。
空。
落下。
誰かの叫び。
「湊!!」
「……っ!」
息が止まる。
膝が震える。
美月が強く支えた。
「座って」
「大丈夫……」
大丈夫じゃない。
胸の奥がざわつく。
翼はまっすぐ俺を見る。
「お前、本当は俺を庇った」
その言葉で、空気が凍る。
陽菜が目を見開く。
「え……?」
春乃は目を閉じる。
雪乃の指先が、わずかに握られた。
美月だけが低い声で言う。
「……それ以上言わないで」
翼は首を振った。
「言わなきゃいけない」
そして俺に向き直る。
「俺がふざけて押したんだ」
沈黙。
誰も呼吸をしなかった。
「手すりに乗って騒いで」
「お前が止めようとして」
「俺がバランス崩して」
翼の声が少し震える。
「その時、お前が俺を押し返した」
「その代わり、お前が落ちた」
世界が遠くなる。
耳鳴りがした。
頭の中で映像が繋がる。
あの日。
俺は。
◇
「……嘘」
小さく呟いたのは陽菜だった。
涙目で首を振る。
「そんなの……」
翼は俯く。
「俺も、そう思いたかった」
その表情は笑っていない。
苦しそうだった。
「でも事実だ」
春乃が口を開く。
「だから、ずっと来なかった?」
翼は黙る。
数秒後、小さく頷く。
「顔向けできなかった」
雪乃が視線を上げる。
「……なのに今来た」
その問いに、翼は俺を見た。
真っ直ぐ。
「記憶が戻り始めたって聞いたから」
「誰から」
「叔父さん」
父か。
そう思った瞬間。
リビングの入口に父が立っていた。
新聞を抱えたまま。
無言で。
全部知っている顔だった。
「……父さん」
父は静かに目を伏せた。
「言うつもりはなかった」
「なんで」
問いかける声が震える。
父は少しだけ苦笑した。
「今のお前が、ちゃんと笑ってたからだ」
その言葉。
昨日、美月も同じことを言った。
胸が痛い。
◇
夜。
自室。
一人になりたかった。
なのに、ノックがした。
開ける前に分かる。
美月だ。
「入るわよ」
静かに入ってきて、ドアを閉める。
しばらく何も言わない。
俺も言えない。
やがて、美月がベッドの端に座った。
夕方じゃない夜の部屋。
窓の外に月明かり。
「……思い出した?」
「少し」
それだけで十分だった。
美月は膝の上で指を重ねる。
そして小さく言った。
「私ね」
視線を落としたまま。
「事故の日から、ずっと怖かった」
「……」
「また目を離したら、いなくなる気がして」
その言葉に、喉が詰まる。
美月は続ける。
「だから、起こして」
「隣歩いて」
「ご飯一緒に食べて」
「何でも確認したかった」
一拍。
そして。
「そこにいるって」
その声は、ほとんど泣きそうだった。
俺は言葉が出ない。
ただ、胸が苦しい。
美月は顔を上げる。
目が合う。
その目はまっすぐで、もう逃げられなかった。
「……だから」
少しだけ唇が震える。
「誰にも、取られたくなかった」
その一言で。
家族の距離が、また一つ壊れた。




