第1話 居候
玄関のドアを開けた瞬間、嫌な予感がした。
靴が増えている。
しかも――見たことのないサイズとデザイン。
細くて、少しヒールのあるブーツ。
白い革に淡いブルーのラインが入った、明らかに外国製のものだ。
「……またかよ」
ため息が漏れる。
うちの姉は昔からそうだ。
何の前触れもなく人を連れてくる。
友達だの、後輩だの、サークルの誰かだの。そのたびに、こっちの生活は振り回される。
とはいえ――
「……今回は、外国人っぽいな」
サイズ感とセンスが、どう見ても日本人のそれじゃない。
嫌な予感が、少しだけ形を持つ。
リビングのドアを開ける。
「ただい――」
言葉が止まった。
ソファに、知らない女が座っている。
金髪が、午後の陽光を浴びて輝いている。
ゆるくウェーブのかかった長い髪は、片側を細く編み込んで後ろにまとめ、残りを肩から胸元まで優雅に流していた。
青い瞳が、まるで宝石のように澄んでいて、長いまつ毛が影を落としている。
顔立ちは整いすぎていて、まるで人形みたいだ。
頰には自然なピンクの色が差していて、柔らかい笑みが浮かんでいる。
「……あ」
目が合った。
次の瞬間、その女はぱっと表情を明るくして――
「カズアキ?」
名前を呼んだ。
「……なんで知ってんだよ」
理解が追いつかない。
すると彼女は、立ち上がるや否や――
一直線にこっちへ来た。
「ちょ、待っ――」
そのまま――
ぎゅっ
「……は?」
抱きしめられた。
完全に、全力で。
「やっと会えた」
耳元で、柔らかい声。
近い。
近すぎる。
というか距離ゼロどころかマイナスだ。
甘い匂いがする。
シャンプーか、柔軟剤か。
とにかく、やけに近くて――やけに意識する匂いだ。
柔らかい感触が、ダイレクトに伝わってくる。
「……っ!?」
気づいた瞬間には、もう遅かった。
ミラの腕が、俺の背中に回っている。
完全に――抱きつかれていた。
「ちょ、おま――!?」
離れようとする。
けど、離れない。
むしろ――ぎゅっと、力が強くなる。
「やっと会えた」
耳元で、柔らかい声。
金髪が頬に触れて、くすぐったい。
それ以上に――
胸元に押し当てられている感触が、完全に意識を持っていく。
柔らかい。
ありえないくらい柔らかい。
弾力があって、それでいて沈み込むような――
「ちょっ、ちょっと待てぇぇぇ!!」
慌てて引き剥がす。
「誰だよ!?」
「ミラだよ~」
あっさり答える。
「お姉さんの友達」
「……ああ、それは聞いてる」
聞いてはいる。
“海外の友達が来る”とは言っていた。
でも――
「距離感どうなってんだよ!!」
「え?」
本気で分かってない顔。
首をかしげる仕草で、金髪がさらりと揺れる。
「普通、初対面でハグしねぇから!!」
「そうなの?」
「そうだよ!!」
「でもボク、嬉しかったから」
にこっと笑う。
悪気ゼロ。
「カズアキ、あったかいね」
「評価いらねぇよ!!」
じっと見てくる。
観察するみたいに、まっすぐ。
「カズアキ、面白~い」
「うるせぇ!」
「反応いいね」
くすっと笑う。
――ダメだ。このタイプ。
「で?」
一歩下がりながら聞く。
「なんでここにいんだよ」
「住むから」
「……は?」
「今日からここ、ボクの家」
「いや聞いてねぇよ!?」
そのタイミングで、玄関から能天気な声が響いた。
「ただいまー」
「……姉貴ぃぃぃ!!」
数秒後、姉が顔を出した。
「あ、一成帰ってたんだ」
「帰ってたんだ、じゃねぇよ!」
指を突きつける。
「これ何!?」
「ミラだけど?」
「それは分かってんだよ!!」
「今日から一緒に住むから、よろしくね」
軽い。
軽すぎる。
「いやいやいやいや!!」
頭を抱える。
「なんでそうなる!?」
「だってミラ、日本で住むとこないし」
「ホテルとかあるだろ!」
「他人行儀じゃん」
「他人だろ!!」
そのやり取りを、ミラは楽しそうにソファの横で聞いていた。
青い瞳を細めて、にっこり笑っている。
「ねえ」
割って入る。
「ボク、カズアキと同じ部屋?」
「は?」
一瞬、意味が理解できなかった。
「ベッド一個だったよね」
「いやいやいやいや待て待て待て!!」
「だめ?」
首をかしげる。
上目遣い。
距離がまた詰まる。
編み込んだ髪の先が、俺の胸に軽く触れそうになる。
「だめに決まってんだろ!!」
「えー」
露骨に不満そうな顔。
唇を少し尖らせて、青い瞳を潤ませる。
「カズアキ、冷たい」
「当たり前だ!!」
「一緒のほうが楽しいのに」
「知らねぇよ!!」
姉がくすくす笑う。
「いいじゃん、一成」
「よくねぇよ!!」
「減るもんじゃないし」
「何がだよ!?」
「一成の理性?」
「減るわ!!」
ミラが、じっとこっちを見る。
瞳が好奇心で輝いている。
「理性って、なに?」
「説明させんな!!」
ほんとに分かってない顔をしている……いや、違う。
これは、分かっててやってるやつだ。
「ねえ」
また一歩、距離を詰めてくる。
柔らかい胸元のラインが、青い花柄のキャミソール越しに強調されて見える。
リボンが可愛らしく結ばれているのに、全体のシルエットはやけに目を引く。
「カズアキ」
名前を呼ばれる。
やけに自然に。
やけに近く。
「ボクと一緒、いや?」
「……それは」
詰まる。
嫌、とは言い切れない。
理由は分からないが。
「嫌じゃないなら、いいじゃん」
あっさり言う。
「近いほうが仲良くなれるし」
「理屈雑すぎるだろ……」
「そう?」
笑う。
無邪気に。
距離感だけ壊れてる笑顔で、編み込んだ金髪がさらりと揺れる。
「ボクは好きだよ。カズアキと近いの」
「……」
心臓が、少しだけ跳ねる。
――なんでだよ。初対面だぞ。
「……お前さ」
「うん?」
「距離感、バグってるぞ」
「うん、よく言われる」
自覚はあるらしい。
「直す気は?」
「ないよ~」
一歩。
また一歩。
逃げても、詰めてくる。
「このほうが楽しいし…カズアキ、面白いから」
にっこり笑う。
逃げ道なんて、最初からないみたいに。
「……お前さ」
「うん?」
「ミラって、日本語めちゃくちゃ上手いよな」
ふと、気になって口にする。
正直、ほとんど違和感がない。
イントネーションも自然だし、言葉の選び方も妙にこなれている。
ミラは、きょとんとしたあと――
くすっと笑った。
「そう?」
そして、少しだけ顔を近づけて。
耳元で、ささやくように。
「Кадз, я кохаю тебе — навіть якщо ти не пам’ятаєш, нічого страшного, я пам’ятаю все за нас, тож давай почнемо ще раз… цього разу так, щоб ти більше не забув」
(カズ、あなたを愛してる……)
「……は?」
一瞬、思考が止まる。
意味は分からない。
でも――
やけに、響きが甘かった。
「今の何だよ」
「内緒」
にっこり笑う。
「ボクの言葉」
「いや絶対ろくでもないだろそれ!」
「ひど~い」
口ではそう言いながら、楽しそうに笑っている。
「ねね、気になる気になる?」
「……まあな」
正直に答えると、ミラは満足そうに頷いた。
「じゃあ、いつか教えてあげる」
「いつかってなんだよ」
「カズアキが、ちゃんと理解できるとき」
意味深に言う。
「余計分かんねぇよ……」
ため息をつく。
――ほんとに、何なんだこいつ。
距離もおかしいし、言ってることも分からないし。
「カズアキ」
また、距離が近づく。
「ん?」
「楽しいね」
にっこり笑う。
その笑顔だけは――
やけに、まっすぐで。
「……勝手にしろ」
ぶっきらぼうに返すしかなかった。
――終わった。
俺の平穏な高校三年は。
「よろしくね、カズアキ」
ミラが、もう一度手を差し出す。
今度は、少しだけためらってから――
俺はそれを取った。
「ボクの居候先」
その距離は、最初からゼロだった。
そして――
たぶん、これからもっと近くなる。
そんな確信だけが、妙にリアルにあった。




