変わらないこと
――人、ではない。
ノアは、確かにそう思った。
光に包まれたその存在は、あまりにも静かで、あまりにも美しかった。
血の匂いも、魔物の咆哮も、何もかもが遠のいて――ただ一つ、黄金の瞳だけが、焼き付いて離れない。
***
――風が、停止していた。
瘴気に満ちたイリーニ大森林は、淀んだ空気が渦巻き、不快な気配に満ちているまま、時が止まったかのようにピタリと固まっている。
音がない。
気配がない。
ただ、静寂だけが支配していた。
その中心に――彼女はいた。
精霊フィシス。
地上から僅かに浮かびながら、森を見下ろしている。
髪は光を弾き、輪郭はどこか曖昧に揺らいでいる。
まるで、この世界に完全には属していないかのような、不確かな存在。
彼女が瞬きを一つすると、止まっていた風が、遅れて流れ始め、世界が動き出す。
「⋯⋯酷い。いない時にこんな⋯」
その声音だけが、妙に現実的だった。
先刻放った回復の光が消え、惨状が露わになる。
森の半分が黒に染まり、生命の気配は著しく薄れていた。
視線をうつし、人間達を見る。
満身創痍で、それでも立っている者達。
(⋯⋯力、使い過ぎてるかも)
胸の奥にわずかな痛みが走る。
それを押さえるように、ぐっと手を握る。
ふわ、と隣に光が灯った。
「フィシス、遅かったな」
現れたのは、一人の精霊。
真珠色の長髪に、黄金の双眸。
同質でありながら、どこか鋭い圧を纏う存在――大精霊ミュトス。
「ミュトス⋯⋯大丈夫?怪我してない?」
「ああ、問題ない。皆の避難は済んでいる。⋯⋯それより」
黄金が鈍く光る。
「――お前、無理してるだろ」
わずかな沈黙。
フィシスはすぐに微笑んだ。
「ううん、平気だよ。色々任せてしまって、ごめんね」
「⋯⋯お前が謝る必要はどこにもない」
短く言い捨てるその声音には、わずかな苛立ちが滲む。
フィシスはそれに触れず、目を伏せた。
脳裏に蘇るのは、先程の光景。
血に塗れ、それでも立ち続けていた人間。
最後に見た、あの紫紺の瞳。
(――あの子、変わっていないな)
「あ、あのー!!!あなた様方は⋯⋯!?」
眼下から声が届く。
フィシスは小さく息を吐き、ミュトスへと向き直った。
「ちょっと行ってくるね」
「⋯⋯」
無言のまま、わずかに目を細められる。
その視線を背に受けながら、フィシスはゆっくりと地上へ降りた。
人間達との距離を取って着地する。
恐れさせぬよう、慎重に。
「初めまして。私達は、イリーニに住まう精霊です。対応が遅くなりました。申し訳ございません」
静寂の後、驚愕のざわめきが広がる。
フィシスはふわりと微笑むと、瘴気の浄化後に残っている怪我人の治療を行うと告げる。
「⋯⋯では、すぐ戻りますね」
歓声を背に地面を蹴り、空へと昇る。
そして、ミュトスと共に、瘴気の本源であるアネシス湖へと跳んだ。
黒く染まった湖。噴き出す瘴気。
二人は同時に魔力を解放し、森全体を覆う。
「――《浄化》」
光が降り注ぎ、瘴気と魔物が崩れ落ちていく。
続いてフィシスは、胸元に手を当てる。
ミュトスはそれを不安そうに見詰めている。
幾つもの小さな光がフィシスを囲む。
「《再生》」
そう呟いた途端、光が弾け、キラキラと雪のように舞い降りる。
風が止まり、音が消え、時間すら曖昧になる。
次の瞬間――折れたはずの木々たちが何事もなく立ち並び、焼けた地面には草が息を吹き返していた。
だが確かに、フィシスの中の“何か”が削れていた。
「⋯⋯これで、元に戻った」
一瞬視界が揺れ、体が震える。
それをミュトスが、静かに支えた。
「大丈夫か?」
「うん、ありがとう。大丈夫」
「⋯⋯本当に、あいつらの為に力を使うのか」
低く、押し殺した声。
「放っておけないよ」
「⋯⋯遅いと、迎えに行く。無理にでもな」
フィシスは首肯だけで答え、ミュトスの視線を背に受けながら、彼らの元へ戻った。
「――精霊様!」
フィシスへ駆け寄る人々。
その中に――彼はいた。
ノア・アルデバラン⋯⋯
「この度は、救っていただきありがとうございました」
「いいえ、こちらがお礼を言わなければ」
何事もないように、フィシスは微笑む。
案内された場所に負傷者は数名いた。
その者達へ手を翳し、フィシスは静かに唱える。
「――《治癒》」
手足を失った彼らの前へ、現れた眩い光。
それが、元の身体へと戻していく。
まるで、時が戻るかのように⋯。
「⋯⋯こんな⋯、有り得ない⋯⋯」
ノアは、息を飲む。
その異質な現象に、一歩も動けなかった。
――治療が終わったその時、フィシスの足元から黒にも似た何かが溶け出し、影が僅かに遅れた。
歓喜にわいた天幕。
誰も、何も、気付くことはなかった。




