2・変わらないこと
POV:フィシス
――風が、停止していた。
瘴気に満ちたイリーニ大森林は、淀んだ空気が渦巻き、不快な気配に満ちているまま、時が止まったかのようにピタリと固まっている。
音もなく、気配もなく。
ただ、静寂だけが支配していた。
その中心に――彼女はいた。
精霊フィシス。
空を浮かびながら、森を見下ろしている。
髪は光を弾き、輪郭はどこか曖昧に揺らいでいる。
まるで、この世界に完全には属していないかのような、不確かな存在。
フィシスが瞬きを一つ落とすと、止まっていた風が遅れて流れ始め、世界が動き出す。
「⋯⋯酷い。いない時にこんな」
その声音だけが妙に現実的だった。
先刻放った回復の光が消え、惨状が露わになる。
森の半分が黒に染まり、生命の気配は著しく薄れていた。
視線を移し、人間達を見る。
満身創痍で、それでも立っている者達。
(⋯⋯力、使い過ぎてるかも)
胸の奥にわずかな痛みが走る。
それを押さえるように、ぐっと手を握る。
――ふわ、と隣に光が灯った。
「フィシス、遅かったな」
現れたのは、一人の精霊。
真珠色の長髪に、黄金の双眸。
同質でありながら、どこか鋭い圧を纏う存在――大精霊ミュトス。
「ミュトス、大丈夫?」
「ああ、問題ない。皆の避難は済んでいる。⋯⋯それより」
黄金が鈍く光る。
「⋯⋯お前、無理してるだろ」
僅かな沈黙。
フィシスは、すぐに微笑んだ。
「まだ平気だよ。色々任せてごめんね」
「⋯⋯お前が謝る必要は、何もない」
その声音には苛立ちが滲む。
フィシスはそれには触れず、ゆっくりと目を伏せた。
脳裏に蘇るのは、先程の光景。
血に塗れ、それでも立ち続けていた人間。
最後に見た、あの紫紺の瞳。
(――あの子、変わっていないな)
「あ、あのー!!!あなた様方は⋯⋯!?」
眼下から声が届く。
フィシスは小さく息を吐き、ミュトスへと向き直った。
「ちょっと行ってくるね」
「⋯⋯⋯⋯」
無言のまま細められる瞳。
その視線を受けながら、フィシスはゆっくりと地上へ降りた。
人間達と距離を取って着地する。
恐れさせぬよう慎重に。
「初めまして。私達は、イリーニに住まう精霊です。対応が遅くなりました。申し訳ございません」
静寂の後、驚愕のざわめきが広がる。
スタンピードを片付けた後、怪我人を治療させて欲しいと伝えて、地面を蹴り空へと昇る。
湧き上がる歓声に顔を顰めるミュトスと共に、瘴気の本源であるアネシス湖へと跳んだ。
黒く染まった湖。
噴き出す瘴気。
深淵から這い出でる魔物。
二人は一度視線を合わせてから、同時に魔力を解放し、森全体を覆う。
「《浄化》」
光が降り注ぎ、瘴気と魔物が灰のように崩れ消えていく。
空気は澄みわたり、湖は美しい青を揺らす。
フィシスは、胸元に手を当て目を瞑った。
ミュトスはそれを不安そうに見つめる。
風が止まり、耳が痛いほどの静寂が落ちる。
「《再生》」
そう呟いた途端、フィシスを中心に、光が波紋のように広がる。
折れたはずの木々たちが音もなく起き上がり、焼けた地面には草が息を吹き返しはじめた。
「⋯⋯これで、元に戻った」
目を開けて、森林を見渡す。
いつもの景色にほっと息をつくと、ぐらりと視界が揺れ、体が震える。
ミュトスが静かに支えてくれる。
「大丈夫か?」
「うん、ありがとう。大丈夫」
「⋯⋯このあと本当に、あいつらの為に力を使うのか」
低く、押し殺した声。
「放っておけないよ。⋯⋯ね?」
支えられていた手に一瞬力がこめられてから――ゆっくりと力が抜けていき、離される。
「⋯⋯遅いと、迎えに行く。無理にでもな」
「うん、ありがとうミュトス」
フィシスは微笑むと、平原へと跳んだ。
「――精霊様!」
駆け寄る人々。
その中には、彼の姿があった。
ノア・アルデバラン。
「この度は、救っていただきありがとうございました」
「いいえ、どうか頭を上げてください。こちらがお礼を言わなければ」
美しい礼をとるノアへ、フィシスは優しく答えた。
挨拶もそこそこに、負傷者の元へと急ぐ。
そこには数名の団員達がいた。
手や足がない者。深い傷がある者⋯⋯その者達へ手を翳し、フィシスは静かに唱える。
「《治癒》」
彼らの身体が、眩い光に包まれる。
その光が、元の身体へと戻していく。
まるで、時が戻るかのように。
「⋯⋯ありえない⋯⋯」
ノアは息を飲む。
その異質な現象に、一歩も動けなかった。
――その時、フィシスが一瞬顔を顰めた。
歓喜にわいた天幕。
誰も気付くことはなかった。




