第146話 呼ばれなかった子
扉の向こうから吹き込んだ風が、部屋の空気を大きく揺らした。
白紙になった紙が、ひとりでにめくれ、最後の一枚が床に落ちる。
その瞬間、少女が小さく息を詰めた。
「……あ……」
春香は気づいた。
少女の足元に落ちている影が、先ほどまでとは違う形になっている。
人の形ではあるが、輪郭がはっきりし始めていた。
「どうしたの?」と春香が問う。
少女は自分の胸元を押さえ、困惑したように首を振る。
「……なまえ……
いま、よばれた……きが、した」
美奈がはっと顔を上げる。
「呼ばれた? 誰に?」
少女は目を伏せる。
長い間、口にすることを忘れていた言葉を、探すように。
「……わたし……
“ここにいる子”じゃなかった……」
床が、きしりと鳴った。
家が、呼吸するように低く唸る。
祐真が警戒しながら一歩近づく。
「思い出せ。無理にじゃなくていい。
でも……君は、誰なんだ」
少女の黒い瞳に、初めて“揺れ”が走った。
森の代弁者でも、均衡の管理者でもない。
ただの──取り残された子どもの揺れ。
「……わたしは……」
言葉が途切れた瞬間、
天井に亀裂が走り、細い光が差し込む。
少女の影が、ふっと薄くなる。
「……森に、なまえを取られたの。
“いらない子のなまえ”は、重いからって」
春香の胸が、強く締めつけられた。
「取られた……?」
少女は、ゆっくり頷く。
「わたしはね、だれかの家にいた。
でも……呼ばれなくなった。
声がなくなって、気づいたら、森にいた」
その瞬間、
春香の中で、ひとつの記憶が重なった。
夜。
眠れずに泣いていた、見知らぬ子どもの声。
どこかで聞いたことがあるのに、思い出せなかった声。
「……あなた……」
春香は、静かに、でも確信を持って言った。
「“名を呼ばれなくなった子”なのね」
少女の身体が、びくりと震えた。
「……そう……
でも……それでも……
ここにいれば、だれかの代わりになれた。
だれかが帰れるなら、それで……」
美奈が声を荒げる。
「それは違う!
代わりになるために生まれた子なんて、いない!」
祐真も続く。
「名前を奪われたのは、君のせいじゃない。
君が“残る役”を引き受ける必要なんてない!」
少女は、唇を噛みしめた。
そのとき──
床に落ちていた白紙が、淡く光り始める。
墨ではない、文字でもない。
けれど確かに、“音”を持つ何かが浮かび上がる。
春香は、無意識に口を開いていた。
「……呼ばれたい、名前……
あなたが、いちばん最初に呼ばれた名前……」
少女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……“ひな”……」
かすれた声だった。
それでも、はっきりとした響き。
次の瞬間──
家が、大きく揺れた。
壁の影が剥がれ落ち、
森のざわめきが悲鳴のように遠ざかる。
少女──ひな、の姿が変わる。
影は消え、輪郭が定まり、
ただの幼い子どもの姿になる。
「……思い出した……
わたし、ひな……
だれかの……いえの……」
春香は、迷わず一歩踏み出し、ひなの前に膝をついた。
「ひな。
あなたは、ここに残る子じゃない」
そっと、手を差し出す。
「帰ろう。
美桜と紅葉と──
いっしょに」
ひなは、震える手で、その手を取った。
その瞬間、
扉の向こうから、はっきりと二つの足音が響いた。
とん……
とん……
小さくて、確かな──
帰る足音だった。




