第124話 戸口の向こう
玄関の木扉の向こう──
紅葉によく似ているのに、紅葉ではない“誰かの声”が、もう一度つぶやいた。
「……あけて……?」
春香の胸が締めつけられた。
その声は、小さく、震えていて、助けを求めるようで──
けれど、紅葉の声にある“温度”がない。
息の湿り気も、感情の揺れもない。
まるで、録音された声を、誰かが戸の前で再生しているような無機質さを帯びていた。
「開けちゃダメです、春香さん」
美奈が強く腕を引いた。
だが春香は、扉に近づく足を止められずにいた。
「……紅葉かもしれない……
あの子、怖くて……震えてるのかも……」
「違う。これは紅葉じゃない」
静かだが強い声で、美奈が言う。
「紅葉なら……“お母さん”って呼ぶはずです。
こんな呼び方、しない」
春香はぎゅっと唇を噛んだ。
確かに、娘が助けを求めるなら必ずそう言う。
“お母さん”と。
そのとき──
扉の向こうから、三度目のノックが来た。
しかし、今度は違った。
ゆっくり二回叩いたあと、三秒ほど間を置き、もう一度ひとつだけ叩く。
美奈はその音のパターンに、心臓が凍りついた。
中学の帰り道。
鉄棒の影。
瑞月が、美奈を呼んだあの日。
──コン、コン……(間)……コン
「……み、瑞月……」
思わず名前が漏れた。
すると外の気配が、ぴたりと止まった。
沈黙。
どこにも風は吹かず、虫の声すら遠ざかったような静寂。
古沢が口を押さえ、震える声で言った。
「……その叩き方……記録に、あります……
二十年前、“戻ってきた子”が、家に現れた夜と……同じです」
春香の背筋を冷たいものが這った。
「……美桜と……同じ……?」
どうして。
どうして今、こんな形で……。
春香の視界が揺れた。
床の板が遠くなる。
胸が苦しい。
手が冷える。
美奈が慌てて支えた。
「春香さん、しっかりしてください……!」
その瞬間──
ガタッ
扉の向こうで、何かが“這うような音”がした。
まるで、戸口に顔を寄せ、“隙間から覗こうとする”ように。
美奈の血の気が引いた。
「……見てる……誰かが、隙間からこっちを……」
春香は、震える声でつぶやいた。
「……紅葉……?
本当に紅葉なら……名前を……」
春香は扉へ向き直り、小さく呼びかける。
「……紅葉……?
そこにいるの……?」
静寂。
春香はもう一度、震える声で。
「もし紅葉なら、返事をして……
あなたの声を聞かせて……」
数秒──
長い長い沈黙があった。
そして。
「…………おかあ……」
紅葉の声。
完璧な紅葉の声。
だが──
語尾が違う。
言葉の“間”が違う。
息継ぎの仕方も違う。
“紅葉の声を知っている何か”が、真似している。
春香は、その瞬間に理解した。
──これは、紅葉ではない。
胸に、冷たく重いものが沈んだ。
「……紅葉を、真似しないで……」
春香は、扉から一歩退いた。
美奈も、古沢も、息を呑んで見守る中──
扉の向こうで、声が変わった。
「……あけて……
ねぇ……あけてよ……
こんなに……さむいのに……」
その言葉は、急に幼い声へと変わっていった。
美桜の声に、似ていた。
春香の膝が崩れかけた。
「……美桜……?
美桜なの……?」
美奈が強く叫んだ。
「騙されないで!!」
「でも……この声は……」
「違う!
美桜の声、覚えてるんですよね?
あの子、そんなふうに“泣きつく声”出しませんでした!」
美奈の言葉は鋭く、そして正しい。
春香の肩が震えた。
その瞬間──
扉の外で、何かが“立ち上がる”音がした。
ゆっくり、ぎしぎしと、骨が軋むような音を伴って。
古沢が変色した顔でつぶやく。
「……これは……人ではありません……
“形だけ借りているもの”です……」
美奈は息を飲んだ。
「じゃあ……紅葉は……紅葉はどこに……?」
春香の目から、ひと粒の涙がこぼれ落ちた。
扉の向こうで、
“それ”は──
コツ、コツ、コツ
先ほどとは違う速さで、指を扉に当て始めた。
まるで、
怒りか、
焦りか、
落ち着かなさをあらわすように。
「……入れて……
……いれて……
……いれ……て……」
声が、どんどん“潰れていく”。
紅葉ではなく──
美桜でもなく──
瑞月でもなく。
“名前のない何か”の声に変わっていった。




