第123話 戻った子の影
居間に沈黙が落ちた。
古沢住職の言葉が、空気そのものの色を変えてしまったようだった。
「……“戻ってきた子”って……どういう意味ですか」
美奈の声は震えていたが、問いかける目だけは必死だった。
聞かなければいけない。
ここを避け続けてきたから、二十年、森は誰かの声を飲み込み続けたのだ。
古沢は、合掌したまま、しばらくまぶたを閉じていた。
「……その子は、三日後に見つかりました。
森の奥で、ひとり、立ち尽くしていたそうです」
春香の喉が、ひくりと動いた。
「……生きて……いたの……?」
古沢は頷いた。
「ええ。息もあり、傷もなかった。
だが──村の者は皆、口を揃えて言ったのです。
『あれは……あの子ではない』と」
美奈の唇が乾く。
「……姿が違っていた、とか……?」
「いえ。姿は、まったく変わっておりませんでした。
ただ……表情がなかったのです。
目の焦点も合わず、何を聞かれても答えず、“意識だけが抜けているような”……」
春香は思わず耳を塞ぎたくなった。
──美桜も、あんなふうに戻ってきたのだろうか。
──もし、戻ってきていたら……。
想像した瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。
「その子は……どうなったんですか」
美奈が、恐る恐る尋ねる。
古沢は、目を伏せた。
「……姿を消しました。
戻ってきてから、わずか二週間ほどで」
美奈の背筋がぞくりとした。
「……また、森に?」
「分かりません。ただ、家族が目を離した隙に、跡形もなく消えた。
遺体も衣服も見つからず……まるで始めから“そこにいなかった”ように」
春香が小さく震えた。
「……どうして……村の誰も……言わなかったの……
そんなこと……」
古沢は、言いにくそうに答えた。
「恐れたのです。
“それ”を語れば……また、森が誰かを呼ぶのではないか、と」
その言葉を聞いた瞬間──
美奈の脳裏に、鮮明な記憶が浮かび上がった。
中学の帰り道。
夕暮れの校庭。
鉄棒の影に、ひとり立っていた少女。
彼女は、いつも独りで、
誰とも目を合わせず、
誰も名前で呼ばなかった。
それでも美奈は、ある日だけ覚えている。
少女がぽつりと呟いた言葉を。
──「あそこ、呼んでるよ」
──「行ったら戻れなくなるよ」
あのときは冗談だと思った。
だが。
美奈の指先が冷えていく。
「……古沢さん、その“戻ってきた子”って……
その子の……名前は……?」
古沢の喉が、ごくりと鳴った。
言うべきか迷うように、しばらく口を閉ざしていた。
やがて、ゆっくりと、重く言葉が落ちる。
「……鷹取 瑞月……」
美奈の心臓が跳ねた。
頭の中で、何かが切れるような音がした。
瑞月。
忘れられた子。
誰も名前を呼ばない子。
でも──美奈は覚えている。
瑞月は、紅葉の失踪の一週間前、村を出たはずだった。
春香も、美奈も、同時にはっと息を呑む。
「おかしい……」
「どうして……?」
古沢だけが、静かに目を閉じた。
「……鷹取家は“村を出た”と言い残しましたが……
本当は……
あの子は、失踪したのです。
紅葉さんと──まったく同じように」
美奈の視界がぐらりと揺れた。
──二十年前、美桜が失踪。
──その数日後、“戻ってきた誰か”。
──同じように、鷹取瑞月が消えた。
──そして今、紅葉がいない。
「……じゃあ……紅葉と瑞月の間に……何かが……?」
美奈が言いかけたときだった。
玄関の外で、
コツ……
コツ……
と、ゆっくりとした“ノック音”が響いた。
全員が凍りついた。
春香が震える声で言う。
「……こんな時間に……誰……?」
美奈は、喉をひくつかせながら立ち上がった。
祐真は駐在所にいる。
近所の人なら声をかけるはずだ。
この、
ゆっくりと、
間を置くような、
“確かめるノック” は──
美奈は、無意識に口にしていた。
「……これ……瑞月の……ノックの仕方……に似てる……」
春香の背筋が凍る。
再び──
コツ……
コツ……
森の奥から聞こえた“あの足音”に似た、不規則な間隔。
美奈が春香の手を握った。
「開けちゃ、ダメ……」
しかし。
玄関の向こうで──
かすかな“少女の声”がした。
春香は息を呑む。
「……紅葉……?」
その声は、
“紅葉によく似ていたが、紅葉ではない声”
だった。




