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四.罪の影

 柚月が(やしき)に着くと、鏡子が出迎えた。この邸は、雪原が愛人である鏡子を住まわせている別宅だ。

 鏡子は元芸者で、そして、雪原は面食いなのだな、と思うに十分な美人である。


「おかえりなさい」


 いつものように鏡子がそう言うと、柚月もまた、いつものように「ただいま」と応えたが、気持ちは清名にもらった絵本にいっている。

 早く読みたくてたまらない。

 柚月は鏡子の横をすり抜けると、そのまま離れにある自室にこもってしまった。

 

 どれほど時間がたったか。文字が見えづらくなって、柚月はやっと顔を上げた。

 部屋が薄暗くなっている。

 日が傾いているらしい。

 行燈(あんどん)をともそうと腰を上げかけ、ふと、清名の言葉がよぎった。


『お前を心配しておられる』


 柚月は鏡子の顔が浮かび、絵本をじっと見つめた末、閉じた。

 

 自室で縫物をしていた鏡子は、手元が暗くなってきたのが気になりだしていた。

 さすがに、危ない。

 行燈をともそうと針を置くと、障子戸に映る影がある。

 柚月だ。

 何か言いたげに、だが、言葉が見つからない様子で立っている。


「お茶でも入れましょうか?」


 鏡子は、「どうしたの?」とは聞かない。聞いたところで、こういう時の柚月はなかなか言い出さないことを知っている。


 そして案の定、柚月は一瞬びくりとしたが、「いや」と言ったきり手をすり合わせ、「何か、手伝いましょうか」と言い出した。


 いつものことだ。

 こういう時の柚月は決まって手伝いを申し出る。

 そして鏡子が断っても、困ったような顔をするばかりで立ち去らない。


 手がかかる。

 だが鏡子は、柚月のこういうところがかわいい。


「入ったら?」


 そう言われて、柚月はやっと部屋に入った。

 一歩だけ。

 そして、部屋の隅っこで、障子戸つっくつように腰を下ろす。

 これも、いつものことだ。

 

 柚月は鏡子と二人きりの時、絶対に自分から鏡子の部屋に入らない。

 鏡子が促して、やっと一歩踏み入れる。

 本当に一歩だけ。

 必ず障子戸の脇に座り、奥まで入らない。

 

 鏡子は、これがおかしい。

 

 最初は、雪原への気遣いなのかと思った。

 柚月も男だ。

 雪原の愛人である鏡子と、部屋で二人きりなることを避けているか。


 なくはない。

 だが、そういう気遣いをするには、普段の柚月は少々幼いように思える。

 

 だとすると、誰かにそう教えられたのだろうか。

 そう考える方がしっくりきた。


 誰に言われたか知らないが、誰にも見られてもいないのに、柚月は律儀にその教えを守っている。

 鏡子にはそう思える。


 鏡子は行燈をともすと、縫物の続きを始めた。

 柚月は黙ったまま、障子戸に頭を預けてもたれかかり、指先を合わせた手を、胡坐(あぐら)の上で所在なさげに揺らしている。


 いったい、今度は誰と何があったのか。

 鏡子はおかしくなり、くすりと笑った。


「清名さんに、しかられでもしたの?」


 試しに言ってみた。

 どうやら当たりらしい。

 柚月はビクリとすると、うつむいた。


「しかられたわけじゃ、ないんですけど」


 声が頼りない。

 指を合わせた手をゆらゆら揺らし、じっと見つめている。


「ねえ、鏡子さん」

「なんです?」


 鏡子は応えてはいるが、縫物から目を放さない。


「『自分を大事にしないことは、自分のことを大事にしてくれている人を、大事にしていない』って、知ってます?」


 柚月は清名のこの言葉を、どこかのことわざだと思ってしまっている。だが実際は、清名がたまたま口にした言葉にすぎない。鏡子にしてみれば、初めて聞く言葉だ。

 

「知りませんよ」


 鏡子はふふっと笑った。だが、その言葉が言わんとしていることは、なんとなく分かる。


「知りませんけど、自分を大事にするように、ということではないの?」


 柚月ははじかれたように鏡子を見た。

 清名と同じことを言っている。

 

 鏡子は、ただただ縫物をしている。柚月の方を見ることもなく、行燈の灯りを頼りに、手を止めない。

 だが、その口元は微笑んでいる。

 優しい笑みだ。


 柚月はまた視線を落とした。

 胡坐の上に手を開き、じっとその手を見つめる。

 ただ、じっと。


「自分を大事にって、…どういうことなんですかね」

「え?」


 鏡子はおもわず顔を上げた。

 柚月は障子戸の脇で、胡坐の上で開いた両手をじっと見つめている。

 その表情は、暗い。


 柚月は広げた掌に、同じような掌が重って見えだした。

 こうして、掌を見つめていた。


 あれは、人斬りだった頃――。


 柚月の中で、過去の記憶が蘇る。

 だんだんだんだん、感覚まで鮮明に。

 それに合わせて、目の前の、見えるはずのない掌も、徐々に濃く、はっきりとしてくる。


 過去と現在、二組の掌が重なりそうになった、その瞬間。

 急に別の手が割って入り、柚月の手を包み込んだ。


 鏡子の手だ。


 途端、過去の掌がぱっと消え、同時に、柚月は鏡子の手を払いのけていた。

 鏡子の驚いた顔。

 柚月もまた、驚いている。


「すみません」


 そう言うと、柚月はバタバタと出て行った。


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