五.素顔
次の登楼の日、柚月と白峯の間に、ある変化があった。
この日、柚月はいつも通り、暮れ六つ過ぎに白玉屋を訪れ、白峯から手紙を受け取ると、いつも通り、食事だけ済ませた。
終始、顔にも声にも感情を見せず、ただ淡々と仕事だけ済ませ、そして、いつも通り、帰ろうとした時のことだ。腰を上げた柚月の元に、頼んでもいないのに、禿が酒の用意をしてきた。
「たまには、かがです?」
白峯は杯を差し出し、艶っぽい目を柚月に向ける。
「いや、でも」
柚月が躊躇うと、白峯が重ねる。
「お代はいただいているのに、いつもお食事だけでは。泥棒になったような気持ちになります」
そう言わると柚月も困る。
少し迷った。
が、白峯のまなざしが譲らない。
「では、少しだけ」
結局、柚月の方が折れた。
上げた腰を再び下ろし、杯を受け取ると、白峯が癪をする。そのしぐさまでも艶やかだ。男なら誰しも見とれるだろう。柚月もじっと見つめている。
だが、柚月の視線は、ほかの男たちのものとは違う。
杯に酒が満ちるほどに、心に申し訳なさが満ちてくる。
「すみません」
何が? と白峯が問う間もなく、柚月は続ける。
「雪原さんじゃなくて」
白峯はわずかに目を見開いた。
思いもしない言葉。
ゆっくりと顔を上げると、柚月と目が合った。
柚月は、まっすぐに白峯を見つめている。
その表情。
苦笑に近い。
だが、優しい笑みだ。
白峯は、この柚月という青年の顔を、初めて見た気がした。
この部屋を訪れる柚月は、いつも顔にも声にも感情がない。挨拶程度の言葉しか交わさず、余計なことは話さない。ただ淡々と、やるべきことだけをこなして帰っていく。
白峯と初めて会った時も、雪原に言われるまま杯を交わした。初めて会った遊女と、理由も事情も聞かされないのに、問いもせず、表情一つ変えずに。
面のような顔の青年だ。
白峯はいつもそう思っていた。
この青年は、いつも緊張で作った面のような顔、仕事の顔をしている。
腹の内を見せず、何を考えているのか分からない。
だが今、目の前にいる柚月は、まるで別人。
随分、優しい顔をしている。
あの仮面の下には、こんな顔が隠れていたのか。
白峯は、自身の心がわずかに緩んでいくのを感じた。
「白峯さんも飲みますか?」
柚月の申し出に、白峯ははっと我に返った。
気づかないうちに、柚月の顔に見入っていた。いや、見とれていたのかもしれない。
白峯は一瞬の間の後、黙って杯を手にした。
柚月は酒を注いだが、白峯はすぐには口にしない。杯にたまった酒を、じっと見つめている。
この顔。
柚月は過去の記憶が重なった。
男ばかり、ワイワイと盛り上がる酒の席で、注がれた酒をじっと見つめ、ぐいっと飲み干すと、平気なふりをして笑っていた。
義孝の顔。
酒に強いわけでもないのに、付き合いだと割り切って口にしていた。
だが、時々、一瞬見せる顔を、柚月は知っている。
無理して飲まなくていいのに。そう思っていた。
目の前で、白峯が杯を口に運ぼうとしている。
柚月は、咄嗟にその手を止めた。
白峯の驚いた顔。だが、それはほんの一瞬。
すぐにすっと花魁の顔に戻ると、白峯は静かに柚月を見つめた。その目が、「なんでしょうか」と聞いている。
柚月は慌てて手を放した。
「あ、いや、すみません。…その」
聞いていいものか、迷う。
酒に付き合うのも遊女の仕事。営業妨害になるだろうか。
柚月はポリポリ頭を掻くと、正面から聞けず、上目遣いになった。
「白峯さん、もしかして…、その…、お酒、苦手なんじゃないですか?」
「え?」
白峯は驚きを隠しきれず、目を大きく見開いた。
「なぜ、そう思われるのです?」
図星だ。
だが、そのことに気づいたのは、これまで雪原だけだ。
それも、何度か酒を共にした後のこと。
白峯が柚月と酒を飲んだのは、杯を交わした、あの時一度きり。
あの時は、どちらもうつむき、互いの顔などろくに見ていない。
柚月が白峯の酒を飲む姿を見るのは、初めてのはずだ。
「いや、ツレが。その…、酒が苦手なのに、付き合いでよく飲んでて…。似てるなって」
柚月は首をさすりながら言いにくそうにそう言うと、すっと白峯の手から杯を取った。
「甘い物の方がいいですか? あっ、団子と大福、どっちが好きです?」
「え?」
白峯は目をぱちくりさせた。突然何の話だ。しかも、なぜその二択なのか。
動揺と戸惑いから、白峯は花魁の面が、はがれてしまっている。
「え…っと、……大福」
「やっぱいいですよね! 大福」
柚月は安心したように、ぱっと笑顔になった。
「良かったら、今度買ってきますよ。あ、もちろん、禿の子たちの分も」
そう言うと、柚月はくいっと袖を引かれた。
なんだろう、と振り向くと、禿が一人、無垢な目で柚月の顔を見上げている。
「うち、金平糖がいい」
かわいいお願いに、柚月は思わず笑みが漏れた。
が、白峯は慌てた。
「これ。一会」
白峯の制止する声に跳ね上がったのは、なぜか柚月だ。
「ハイッ!」
反射的に返事までした。
が、何かおかしい。
白峯と柚月は互いに驚いて、「え」と顔を見合わせた。
「一会です」
白峯がまだ驚きの残る顔で、柚月の袖を引いた禿を差す。
当の一会は、白峯が止めたのもお構いなしに、袖を引くどころか、いつの間にか柚月の胡坐の上にちょこんと座っている。
「それと、一期です」
白峯はそう言いながら、一会が顔をのぞかせたのとは逆の方を差した。
柚月の袖の陰から、もう一人の禿が柚月を見上げている。
「それと、一華、ですね」
柚月は自分を指さした。
「一なんたらなんて名前、ほかにあんまりいないから、俺が怒られたのかと思いました」
そう言って柚月は笑った。
おかしいのと、恥ずかしいのと。いや、でもやっぱりおかしい。
柚月もだんだん、心が緩んできている。
その柚月の顔を、一期が恐る恐る覗き込む。
柚月が頭をなでてやると、はにかんだように笑った。
柚月の左の腿には一会が座り、右の腿には一期が頬杖をついている。
白峯は、一期と一会が、客の前でこんなにも無邪気な姿を見せるのを初めて見た。
「柚月様も、大福がお好きなのですか?」
自然と白峯の声も優しくなっている。
「そうなんですけど、ツレが団子派で。いっつも団子屋に付き合わされてたんですよ」
「おツレ様?」
「はい。ガキの頃から一緒にいるやつなんですけど」
そう言って、柚月は「ツレ」の話を始めた。
子供の頃、一緒に川で魚を取ったこと。勉強をさぼって塾を抜け出したこと。一緒にいたずらをしたこと。それで叱られたこと。時にケンカをしたこと。そして、仲直りをしたこと。一緒に行った団子屋のことも。
ツレと言っているが、親友なのだな、と白峯にもすぐに分かった。それも、おそらく無二の親友。柚月は実に楽しそうに話している。聞いている白峯の方も、自然と笑みになった。
いうまでもなく、柚月は義孝の話をしている。
まるで、ついさっきまで一緒にいたかのように。
今も毎日、会っているかのように。
だが、次第に白峯は気づいた。
柚月の話は、すべて過去形だ。
それが、何を意味するのか。
察しが付く。
白峯は、柚月の笑みにわずかに胸が痛んだ。客がする話など、辛い話も悲しい話も、慣れているはずなのに。
その日、柚月は初めて、笑顔で帰っていった。




