犠牲と対価(2)
「二十九、三十──っと」
腹筋と背筋、腕立て伏せ。それぞれ三十回を一セットとし、ようやく三セット完遂できるようになった体に満足して、シュエは額の汗を拭った。
シュエルバ姫の体は、腕立て伏せが一回もできないという現実をシュエに突きつけて絶望させたが、継続こそ力、と己を奮い立たせた結果だ。
凄まじい筋肉痛との戦いが、高い治癒力のお陰で軽減されたのもある。
「一時はどうなることかと思ったけれど、なんとかなりそう」
一応、周囲の反応を気にして寝る前にこっそりとやっているが、そろそろ持久力をつけるために走り込みでもしたいところだ。
「でも、見つかったら絶対、ゼグは不審に思うわね」
パナとスィルカは快活になったシュエルバ姫を、「死に直面して価値観が変わった」という解釈で受け入れているようだが、ゼグだけは相変わらず痛ましいものを見るような瞳をシュエに向けてくる。
決まって何か言いたそうにしているし、シュエも話をしたいのだが、いざ会話をしようとすると気まずい沈黙に場が支配されてしまうのだ。
シュエは後ろめたさからだが、ゼグの理由はわからない。
別人である可能性を危惧している様子はないが、だからこそ、その態度が気になった。
「何かきっかけがあればいいのだけれど」
思案しつつ、濡らした布で身を清め、夜着に着替える。シュエはそのまま寝台に伏せようとしたが、袖口が何かに引っ張られた。視線を向けると、寝台脇に据えられていたチェストの把手に、裾のリボンが引っかかっている。
「っと」
綺麗なレース編みのそれを、台無しにするわけにはいかない。
シュエは丁寧にリボンを外し、裾に結び直した。そこでふと、引き出しの中を見たことがないことに気がつき、改めて把手を掴む。
猫が丸まった姿のそれは真鍮製で、ひんやりとしつつもすぐにシュエの体温に馴染んだ。
ゆっくりと引き出すと、中には消毒液の小瓶とガーゼが詰め込まれた箱が入っていた。おそらく、背中と肩の傷が塞がるまで使われていたのだろう。
「予備をしまっておいて、忘れてしまったのかしら。普段は空だったのかしらね」
日記でも入っていればと期待しただけに、シュエは肩すかしを喰らった気持ちで箱を元に戻そうとしたが、なぜか入らなかった。
「あら?」
何か引っかかっているのかと、シュエは再び箱を退けて引き出しの中に手を入れた。すると、こつりと何かが指先にあたる。
掴み出すと、親指ほどの大きさの小瓶だった。
「なにかしら、これ」
油燭の灯りに近づけて確認しようとしたところで、引き出しが僅かに傾き、慌てて手を添える。すると、コトコトと音をたてて、同じ小瓶がいくつも手前に転がってきた。
「あら、まぁ」
同じものがいくつも出てきたことで、シュエルバ姫が飲んでいたという薬のことを思い出す。
「本来はこのチェストに常備されていたのかしら。奥で綺麗に並んで填まってしまっていたのね」
その手前に箱が入れられたことで、更に発見されることなく残っていたのだろう。
薬の管理としてはずさんすぎるが、それゆえに、本当に栄養薬だったのかもしれないとシュエは思った。
体が弱いことを理由に幼い頃から軟禁され、自由を奪われ、毎日毎日、薬を飲む日々。それを想像すると、心が弱って無気力になってしまうのも頷ける気がした。
(でも、その諦観を押し退けるほどの使命を、彼女は負った)
体調が回復したことや軟禁が解かれたことと、関係があるのだろうか。
(そもそも誰が外出を禁じていたのかしら。医師であるスィルカ?)
明日にでも確かめようと思いつつ、シュエの脳裏にはもう一人の影がちらついていた。
シュエルバ姫の父親である、国王だ。
娘が大怪我をして意識を失っていた間、何度か見舞いに来ていたらしいが、目を覚ましてからは一度も会いに来ていないのだ。
一時は対峙する可能性に心臓が痛くなるほどの不安と緊張を覚えていたシュエだったが、来訪の気配は未だにない。
(王妃様は確か、シュエルバ姫を産んだ翌年に病で身罷られたのよね)
ゆえに、王妃の忘れ形見として、国王がシュエルバ姫をたいそう可愛がっていたという記述が史実に残っているくらいなのだ。しかし、現状ではその様子はうかがえない。
(一ヶ月も昏睡していた愛娘が目を覚ましたのだから、何を差し置いても駆けつけて来そうなものだけれど)
見舞いには訪れていたのだから、尚更奇妙だ。
(軟禁は娘を心配するあまり、国王が医師であるスィルカに指示させたもので、実は不当だった。それが最近発覚し、関係がこじれていた──とか?)
そこまで考えたところで、シュエは両手でくしゃりと髪をかき混ぜた。
「ああもう、先走りはだめよ、シュエ。また自分の憶測で自分を混乱させたいの? 今、確実に確認できることだけをしなさい!」
自分に言い聞かせるように呟いて、手にしたままだった小瓶の蓋をとる。
せっかく現物を手に入れたのだから、中身を調べてみようと思ったのだ。シュエはまず、匂いをかいだ。
「……甘い香り。蜂蜜ね。苦みを和らげるためかしら」
薬の知識も、最低限はある。シュエは頭の中で滋養効果のある素材を思い出しながら、中身の液体を指先につけた。
飲み薬とパナが言っていたので、口に含んでも害はないだろう。
そう思って指先をなめた瞬間、蜂蜜に混じって覚えのある別の甘みがあり、シュエはすぐさま唾を吐き出した。
心臓が驚くほど強く拍動し、指先が震える。
「え……なぜ?」
うそでしょ、と零した声が掠れる。
おそらく、とても、とても薄められている。だが、それは薄められているからこそ、間違いなく毒となる類いの液体の味だった。
「起床樹の樹液だわ」
原液は酷く苦いため催吐薬として使われるのだが、薄めると不思議と甘くなり、呼吸障害を起こす作用があるのだ。
シュエの時代ともなると、貴人が警戒する毒薬の代表格なので、士官学校時代に害のない濃度で味見させられていた。
独特の甘みに加え、毒を吐かせるための薬が毒薬になる皮肉が、シュエにこの薬を強く印象づけていた。
この時代ではまだ、一部の薬学に詳しい者が知るに留まっているのだろう。
(だから、シュエルバ姫は気づかず飲んでいたのね)
この瓶に入っている液体は花蜜によって甘みが増されているので、おそらくはシュエが味見したものより更に薄められたものだろう。
それでも、毎日飲めば症状は出るはずだ。
(体が弱かったんじゃないわ。弱らされていたのよ)
殺意がある濃度ではないが、与えられていた以上、思惑はあるのだ。
震える手ですべての瓶を引き出しの奥に戻し、箱で元通りに隠す。
寝台に伏せ、枕に顔を埋めると、シュエの眦に涙がにじんだ。
(医師であるスィルカが、薬の中身を知らないわけないわ。なぜ?)
スィルカの言動を思い返しても、シュエルバ姫を害しようという意思は感じられない。シュエが積極的に体力をつけようとしている姿を、心から喜んでくれていたのだ。
(なにか特別な理由があったんだわ。もしくは逆らえない相手からの命令だった)
そう確信したいのに不安がぬぐえなくて、シュエはきつく瞼を閉じた。