犠牲と対価(3)
夜が明け、起床時間にパナに起こされる。
常と変わらぬ朝を装いつつ、シュエは相談したいことがあるからと、パナにスィルカを呼んで貰った。
昨夜は動転して見なかったことにしようとしてしまったが、鏡でシュエルバ姫の顔を見ることで、何とか気持ちを奮い立たせたのだ。
「急に呼びつけてごめんなさいね」
「いえいえ。それがお役目ですから」
シュエに促されて、スィルカが客間のソファセットに腰掛ける。すかさずパナによって給仕された香茶の香りを楽しみ、スィルカは頬を緩めた。
ここに来るときの楽しみなのだと、嬉しそうにスコーンを頬ばる。
「それで、相談したいこととは?」
「ええ、ここのところ体の調子がいいから、少し運動したいのだけれど」
「それはいい! とてもいいことです。私も大賛成ですよ。具体的には何をなさりたいので?」
「北の庭園は中央の広場を囲うように道があるし、そこを早朝に少し走ろうと思っているの」
ひとまずは無難な話題で会話を繋ぐつもりだったが、シュエの提案に、香茶を飲もうとしていたスィルカの手が止まった。
「庭園を、走る……?」
嬉々として耳を傾けてくれたはずの顔に、戸惑いが混じる。シュエは変な事を言ったつもりはなかったので、言葉を続けた。
「ええ、体力と持久力をつけられるでしょ?」
飲み続けていた毒薬のせいで、シュエルバ姫の心肺機能はかなり弱まっていた。
シュエが体力をつけはじめたことで、ようやく常人と同程度の機能性を取り戻した段階だ。
生きていくのに不便はないが、シュエはこの体を護るという使命がある。軽い散歩で息切れし、鋼鉄製の片手剣を鉛のように感じる肉体では困るのだ。
「それは、確かにそうですが。しかし、一国の姫君が早朝に走り込みは──」
「はしたない?」
「いえ、その──ですね」
言い淀んだ時点で図星だ。それもそうかと、シュエは今更のように納得する。
シュエにとって己の肉体を鍛えることは義務ですらあったが、普通、王族や貴族の女は運動なんかしない。する必要がないからだ。
百歩譲っても、趣味で狩りや野駆けをする者が騎乗訓練をするくらいだろう。
シュエはどう説得したものかと眉間に皺を寄せたが、いっそ黙って、勝手に走った方がよさそうだと気づく。
どうせスィルカを呼ぶための口実でしかなかったのだからと、シュエは早々に諦めるそぶりをとることにした。
「困らせてしまってごめんなさい。元気になってきたものだから、つい嬉しくて。まずは散歩の時間を増やすことにするわ」
「そう、ですね。それがいいかと」
あからさまに安堵した顔で、スィルカが賛同する。気まずさを誤魔化すように、スコーンにたっぷりとジャムをのせて頬ばった。
「相変わらず、パナの作るスコーンとジャムは最高ですな」
「ええ。私も大好き。ああそうだ、一つ聞きたいことがあるの。昨日、寝台脇のチェストで見つけたのだけれど」
本題を切り出しつつ、昨夜みつけた小瓶を取り出す。
その瞬間、スィルカはサッと顔を青ざめさせた。
「なんてことだ。パナ! すべて破棄せよと命じたはずだぞ!」
初めてみる剣幕でパナを叱りつけたスィルカに、シュエこそがびくりと肩を震わせてしまった。その隙に、老人とは思えぬ素早さで、シュエから小瓶を奪い取る。
「申し訳ありません、スィルカ様。すべて回収したと思っていたのですが」
「言い訳はいい。姫様、薬はこれだけですか!?」
「ま、まだ少し、引き出しの中に」
「すぐに回収して、破棄してきなさい」
「はいっ」
スィルカの剣幕に突き飛ばされるようにして、パナが部屋から出て行く。
せわしない足音が遠くなると、スィルカは深く息を吐き出しながら肩を落とした。
「スィルカ……?」
「申し訳ありません、取り乱してしまいました」
「いえ、いいのだけれど。その、引き出しの奥に、綺麗に並んで填まっていたのよ。あまりパナを責めないであげて」
毒薬であることを問い詰めるつもりだったが、あまりに緊迫した空気に動揺して、シュエはパナを擁護する言葉しか出てこなかった。
「確かに、きつく言い過ぎました。あとで謝っておきます。忌まわしく思うあまり、つい。数の確認を怠った私の責任です。お許しくださ──まさか、飲んではおりませんよね!? 飲まなくてはいけない時期の記憶しかないのでは!?」
「大丈夫よ、パナとたまたま体調の話になって、もう飲む必要がなくなったと聞いていたの」
シュエが答えると、スィルカがあからさまに安堵し、僅かに浮かせていた腰をソファに戻した。
この一瞬で十は老けたのではないかと思うほど、表情に疲労が滲む。
「安心しました。今の姫様には不要どころか、悪影響のある薬だったので」
「そう」
その言葉と表情で十分だった。
スィルカはシュエルバ姫の敵ではない。毒薬を処方していた張本人であることは確かだろうが、責めるべき相手は他にいるのだ。
「申し訳ありません、姫様。少し気分が優れぬので、お暇してもよろしいですか」
「もちろんよ。確かに顔色が悪いわ。しっかり休んでちょうだい。医師が体調不良では笑えないわよ」
何も知らず、何も気づいていないことを装って、ただスィルカを心配する言葉をかける。シュエはおぼつかない動きのスィルカの背に手を添え、立ち上がるのを手伝った。
「ゼグ、来てちょうだい。彼を自室まで送り届けて」
「いえ、いえ。姫様。大丈夫です」
「でも」
シュエの言葉に再び首を振り、スィルカは呼びかけに応えて扉を開いたゼグの脇を、足早にすり抜けていった。
その背を数秒見つめてから、ゼグがシュエに視線を向ける。
「何があったんです? 少し前にすごい勢いでパナが出てきましたし、スィルカ様もご気分が優れぬ様子でしたが」
「私が彼を信じたいがために、酷いことをしてしまったの」
罪悪感に押し潰されてしまいそうな顔をしていた。
シュエルバ姫が怪我で死にかけたとき、スィルカはどれほどの恐怖を胸に秘めて治療にあたったのだろうか。
意図的に弱らされていた体に負わされた傷は、本来なら致命傷だったのかもしれない。シュエが急所を避けたことと、この肉体に高い治癒力があったからこそ助かったのだ。
おそらくそのことを、スィルカが誰よりも理解している。
「姫様が、酷いことを……?」
想像もつかないという顔でゼグに呟かれて、思わず眉尻が下がる。
シュエはそのまま廊下に出て、歩き出した。当然のように、ゼグが後に付いてくる。
屋敷の外へ出て、正門に辿り着いたところでようやく、ゼグが口を開いた。
「どちらへ?」
「どこへ行けばいいのかしら」
「といいますと?」
「陛下にお会いしたいの」
シュエが答えると、ふいに背後から足音が消えた。思わず振り返ると、ひどく真剣な顔で、ゼグがシュエを見つめていた。
「ゼグ?」
「陛下に、お会いになるのですか」
「え、ええ。お訊きしたいことがあるの」
ゼグの態度に戸惑いつつ、頷く。
「あ、本城へ行くなら、さすがに着替えたほうがいいわね」
屋敷でのシュエの格好は、ゆったりとしたワンピースドレス姿なのだ。それは元からのようで、療養を目的としつつも、他者との接触がないことをシュエに知らしめるに十分な要素だった。
結果として、動きやすくはあったのだが。
真昼の日差しに温められた風が、二人の間を吹き抜ける。
同意も否定もなくゼグに見つめられて、シュエは背中に嫌な汗をかいた。
(え、なに。シュエルバ姫が言わないようなことを、私は言ったのかしら)
沈黙に耐えかねて顔を逸らすと、ゼグが口を開く。
「貴方は──」
「タルジュ様!」
不意に駆けられた声に、二人で視線を向ける。遠くから、一人の兵士が駆け寄って来ていた。水色の制服が、本城警備を担う者を示している。
「お、あ、シュエルバ姫様、申し訳ありません。ご無礼を」
ちょうどゼグの陰になっていて、遠くからでは姿が見えなかったのだろう。
近づいたことで気づいたらしく、滑り込むように跪こうとしたのでシュエは慌てて止めた。
「構わないわ。ゼグに用事があるのでしょう?」
「はっ」
屈もうとしていた体をすぐに引き起こし、ぎこちない動きで一礼する。ひどく緊張した面持ちで、兵士はゼグに向き直った。
「隊長がお呼びです。件の男がようやく口を割ったらしく」
「本当か! 目的は!? 首謀者は──」
前のめりになったゼグに気圧されて、兵士が一歩下がる。
「じ、自分に聞かれても困ります。タルジュ様をお呼びしてくるよう命じられただけですので」
「そうか、すまない。すぐに──」
一歩を踏み出そうとして、シュエの存在を思い出したように動きを止める。ゼグの瞳に逡巡が滲んだので、シュエは苦笑した。
「例の襲撃者の件ね。すぐに確認しに行ってちょうだい」
「ですが」
「一緒にいけばいいかしら?」
「それは──」
尋問部屋に行くことに躊躇いはなかったが、ゼグの方がうろたえて口籠もる。
「お許しいただけるのであれば、姫様は自分が部屋までお送りします」
すかさず兵士が申し出たことで、ゼグは安堵したように頷いた。
王城警備に配属されている時点で、その実力は証明されている。
「お前、名前は」
「カシュラです。エンデ・カシュラ」
騎士に名を問われたからか、目を輝かせて兵士が名乗る。
気遣いのできる者は、誰とて重宝するだろう。ゼグは記憶したと言うように頷いて、エンデの肩を叩いた。
「ではエンデ、頼んだぞ」
「はいっ」
敬礼と歯切れの良い返事を確認してから、ゼグは本城がある方向へ走って行った。




