23、彼女の理由
不意にぴくりと、彼女の瞼が動いた。
保健室のベッド横に立っていた優太は、それを見て彼女の顔を覗き込む。
優太とはベッドを挟んだ向かいでイスに腰掛けていた桃音も、桃音の横に立っていた雪も同様だった。
「うっ……?」
ゆっくりと、柚莉香の目が開かれる。
「柚莉香、大丈夫か?」
「……え? 優……太……? それに先輩も……」
ぼんやりと柚莉香は、自分の顔を覗き込んでいる優太と桃音を交互に見た。
優太と桃音に視線を向ける柚莉香を見て優太は、雪が柚莉香に姿を視せる気はないらしい、と悟る。だが雪は、目を覚ました柚莉香を見て、どこか安心したような表情を浮かべた。
「あたし……」
緩慢とした動作で上半身を起こし、柚莉香は額に手を添える。
「頭痛?」
「……少しだけ……」
心配そうな顔で尋ねる桃音に、柚莉香は力なく首を縦に振った。
「どうして……」
柚莉香は、自分が眠っていたベッドと、そのベッド横に立っている優太と桃音を見て呟く。いまいち自分の状況を理解していないらしい。
しかし考えるような表情は、すぐにハッと何かに気付いたようなものに変わる。
「そ、そうだ! あの女の人は!? 具合が悪くなって保健室に来たら、突然あの人が現れて……。先生もいないし、部屋からもなんでか出れなくて……それで……」
言いながら柚莉香は、首元に指を当てた。彼女が触れるのは、女性の幽霊が首を絞めてきた痕。
「そしたら優太と先輩が入ってきて……あともう一人誰かいたような……。夢……?」
混乱しているのだろう。柚莉香は不安げな表情を浮かべて、優太を見た。
優太はどう説明しようか悩んだ。幽霊に襲われたと言って、柚莉香は信じてくれるのだろうか。誤魔化すべきか? いや、しかし首にははっきりと痕が残ってしまっているし……。
どうしよう、と悩む優太。
するとそんな優太の代わりに、桃音が口を開いた。
「柚莉香ちゃんはね、幽霊さんに目をつけられたんだよ」
「幽霊……?」
訝しげに聞き返す柚莉香。対して、真面目な顔で頷く桃音。
「最近ずっと、幽霊のフリをして夜中に、優太くんの家の前にいたでしょ?」
「……」
「本物かどうか確かめるために、昨日わたしは優太くんのところにいたんだよ。幽霊さんはいつでも相手を探してる。自分の未練を解消しようとね。夜中に一人でいる、隙のある女の子を見つけて、幽霊さんは標的にした」
「そんなこと……」
ない、と言いたいのだろう。だがその目は、動揺に揺れ動いていた。
「あと柚莉香ちゃん、一人で心霊スポットに行かなかった? 廃墟病院の」
「な、なんでそれ……」
柚莉香が驚いたように目を丸くする。また優太も、桃音の言葉が予想外で、驚いた。
「あの幽霊さん、あの心霊スポットで優太くんを襲おうとしたのと同じだった。あのときは追い払えたけど、あれからついてきてたのかもしれない。そこで柚莉香ちゃんを見つけて、標的を変えた。柚莉香ちゃんを殺そうとしてたのを考えると、寂しかったのかな、あの人は。ずっと一緒にいてくれる人を探している。それこそ『死んでも』、ね」
桃音の説明に、優太は納得する部分があった。
あの女性の幽霊の格好に見覚えがあったのはそのためか。
それに今朝柚莉香の背後で見た、女性の顔。あれもやはり、前兆だったのだ。階段から落ちそうになったのも、具合が悪くなったというのも、幽霊の仕業だったのかもしれない。
柚莉香は、何も言わなかった。
肯定はない。だが否定もしない。ただこの状況で何も言わないのは、桃音の言っていることが正しいと、認めたも同然だ。
「なあ柚莉香、なんでそんなことしたんだよ」
俯いた柚莉香に、優太は尋ねる。
眠っていたせいで乱雑になった髪は、俯いた柚莉香の表情を、優太の位置から隠していた。
「……」
柚莉香は、無言。
「やっぱり幽霊はいないって、俺に分からせようとしてたのか? あんな格好したのも、心霊スポットになんか行ったのも」
実は幽霊はあたしだったんだよ、と言いたかったのか。
あたしも行ったけど何も出なかったよ、とか。
自分が証明することで、いないということを突きつけたかったのだろうか。
「でもあの格好……姉貴の格好するなんて、お前さすがに悪趣味すぎ……」
「っ、だって!」
優太の言葉を遮るように、柚莉香が声を荒げた。
「だって優太って、いっつも優香お姉ちゃんのことばっかりなんだもん!」
優太は、目を瞬いた。
勢いよく柚莉香が顔を上げる。髪が荒々しく広がり、柚莉香の頬に当たる。
柚莉香の目は、真っ赤になって潤んでいた。
「あんたはいっつも幽霊のことばっか! 全部、ぜーんぶっ、幽霊に関係することばっかり! 優香お姉ちゃんに会いたい一心で! それはあたしも分かるよ。あたしだって会えるもんなら会いたい。でも……っ」
柚莉香の声が掠れる。柚莉香の目から一筋涙が零れ、彼女の頬を伝った。
「お姉ちゃん、もういないんだよ……」
一筋流れたことで堪えきれなくなったのか、ボロボロと柚莉香の目から涙が溢れて流れ落ちていく。
「あたしお姉ちゃんに、あんたのことよろしくって言われてた。だから最初はあんたに付き合った。でもそれって正しいの?」
「……」
「あたし達もう高校生だよ? これからも、もういないお姉ちゃんを探し続けるの? あんたはずーっと、幽霊とお姉ちゃんしか見てなくて……このままじゃ一生そのままで」
高校生になって大学生になって、社会人になって……。ずっとこのままでいるつもりなのかと、柚莉香はそう言いたいのだろう。
優太は何も言わない。言えない。
「いつまでもお姉ちゃんばっかり……。あたしだっているのに……」
柚莉香はそこまで言うと、両手で顔を覆った。手のひらの隙間から、泣きじゃくるような声が聞こえてくる。
そんな柚莉香を呆然と眺めるようにして見ながら、優太は考える。
幽霊なんていない? そんなことない。いるはずだ。だっていないということは、優香はもうどこにもないということなのだ。優太が独りぼっちになってしまうということなのだ。いくら伯父や伯母がいて、天涯孤独ではないといっても――優太にとっての家族は、両親と姉の三人だ。
だから優太は、優香を探した。幽霊になったはずの優香がどこかにいるはずだと。昔の、優香の言葉を信じて。
……けれど本当は、心のどこかで分かっていた。姉はもう、いない。だって死んだのだ。死ぬ間自分は際傍にいた。死ぬ瞬間を見た。葬式にも出た。
じゃあ自分は、独りぼっちなのか?
そう考えて――違う、と否定する。
姉がいなくなったことは悲しくて寂しかったけれど、だからといって孤独を感じたことはなかった。
だって柚莉香がいたから。
幽霊はいるはずだ、と言ってバカにしたり笑ってくる人達の中で、柚莉香は一緒にいてくれた。一緒に探そうとしてくれた。
大事な、幼馴染み。
「……お前ってさ、本当にお節介だよな」
優太は呟く。
びくりと、柚莉香の肩が揺れた。
優太が怒っていると、そう思っているのだろうか。
「――ありがとう」
だから、こそ。
「……え?」
優太の言葉を聞いて、柚莉香は間抜けな声を漏らした。顔を覆っていた手のひらを離す。驚いて涙さえ止まっていた。
確かに柚莉香の方法は、よかったとはいえない。優太を騙した。優太は傷付いた。だから怒った。
だがそのすべて、彼女なりに優太のことを考えてのことだったのだ。
いつまでも『過去』ばかり見ているなと。『今』を見てみろと。独りぼっちではないと。あたしがいると。
お節介で、強引。下手をすればこのまま疎遠になる可能性だってあったのに。
微笑が、優太の顔に浮かぶ。
そんな彼女の気持ちに、嬉しさを感じるから。
「ありがとう」
再度、口にする。
「ッ……」
見る見るうちにまた、柚莉香の目に涙が滲んだ。止め処なく溢れ出す。
「不細工な顔だなー」
「うるさいバカっ!」
泣きながらの鋭いツッコミに、優太は笑う。
ふと視線を感じて見てみれば、柚莉香の背後でそっぽを向いている雪がいた。その隣では桃音が、優しげな、嬉しそうな微笑みを浮かべている。そんな桃音と目が合って、優太はさらに、浮かべる笑みを深くした。
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