22、襲われた彼女
放課後の保健室の扉は閉まっていた。
保健室の前に立っているだけでは、中に人の気配は感じられない。
保健室の扉を、優太は見つめる。
周囲は、どことなく異様な雰囲気があった。いつもと変わらない学校、廊下。それなのにどうして、こんなにも薄ら寒さを感じるのだろう。
そう疑問に思って……すぐに気付く。
音がないのだ。
廊下を歩く先生や生徒の姿も、窓の外から聞こえてくるはずの部活動に勤しむ生徒の声も、何もない。
ただ校内は、シンと静まり返っている。
まるで自分一人が、校内に取り残されているかのような錯覚。自分の呼吸音が、廊下に響いているような気がする。
「優太くん、大丈夫?」
立ち尽くしたままだった優太は、隣から聞こえた桃音の声に、我に返った。
どうやらまた、ボーッとしていたらしい。
「取り込まれるなよ」
優太と桃音の後ろで、静かに雪が言った。
「……ここにいるぞ」
柚莉香がいるのか、それとも幽霊がいるのか。雪は言わなかった。しかしなんとなく優太は、その両方がいるのだという確信があった。
不意に桃音が手を伸ばして、保健室の扉の取っ手に触れた。横開きのドアを、スライドさせようとする。
だが扉は、まるで岩のようにびくともしなかった。
「鍵かかってるのかな?」
「いや。多分中の空間が隔離されている」
「隔離……?」
「保健室の中だけ、幽霊の空間にされてるということだ」
周囲に誰の姿もないのは、きっとそれが関係しているのだろう。
「ユッキー開けれる?」
桃音に尋ねられ、雪は保健室の扉に触れた。
瞬間、火花が飛び散った。
「ひゃっ!」
「ちっ……」
桃音が身を竦める。雪は手を引っ込めて、舌打ちを漏らした。
「強いな」
それだけ言うと雪は、改めて両手を、扉の取っ手にかける。再度火花が飛び散ったが、次は手を引っ込めなかった。
「くっ……」
ガタッ、と小さく、扉が揺れる。
しかし扉を開けようとする雪の表情は苦痛に歪んでいた。
雪の手元では大量の火花が上がっている。物理的なものではない火花は、雪にもいくらかのダメージを与えるらしい。
「ユッキー、大丈夫?」
「ユッキー言うなって言ってるだろうが……」
ハラハラと、心配そうに両手を胸の前で握る桃音に、苦痛の表情を浮かべながらも雪は、桃音を安心させようとするかのように小さく笑った。
「おい、呼んでみろ」
「え?」
掠れた声で雪は口を開く。一瞬誰に言ったのかと優太は疑問に思ったが、すぐに自分に言われているのだと気が付いた。
「ゆ、柚莉香!」
扉に向かって、優太は叫ぶ。
「柚莉香! いるのか! おい!」
耳を澄まして優太は返事を待った。少しの声でも聞き逃すまいと、扉に耳を押し付ける。
雪が触れれば火花の散る扉は、優太相手には何もなかった。きっと幽霊相手にしかあの火花は発生しないのだろう。
「柚莉香! ゆり……」
そのとき――保健室の中から、聞き慣れた声が、した。
「柚莉香!」
何を言ったのかは分からない。ただ柚莉香の声が保健室の扉の向こうから聞こえてきて、優太は思わず扉にしがみつくように体を密着させた。
もう中からは何も聞こえてこない。だがさっき聞こえてきた柚莉香の声は、聞き間違いではないはずだ。
「ユッキー先輩! 開けれませんか!?」
「今やってる……!」
歯を食いしばりながら、必死に雪は扉を引いていた。見ればほんの少し、指一本が入るかは入らないかの隙間がある。
優太は思わずその隙間に指を入れた。
「ふん……っ!」
優太も雪と同じように、力を込めて扉を引く。
「あっ、わ、わたしも!」
それを見た桃音も、慌てたように扉の取っ手に手をかけた。雪の手に被さるような位置だったが、雪に触れることはできないため、文字通りその手は重なっている。
「せーのっ!」
桃音の掛け声を合図に、三人は一斉に扉を引いた。
雪が触れることで火花を散らせながら、鎮座する岩のように動かなかった扉は、三人の力で、ゆっくりとではあるが、開き始めた。
そして扉が、完全に開かれる。
瞬間優太は、保健室の中に飛び込んでいた。
「柚莉香!」
叫びながら飛び込んだ保健室の中は、夕方に近い時間とは思えないほど、暗かった。薄っすらとした灯りが、妙に赤い色で室内を照らしている。棚も壁も、保健室に置かれている体重計や机、イス、何もかもが、灯りによって赤に染まっていた。灯りによって描き出された闇色の影が、床や壁に伸びている。黒と赤のコントラスト。身震いしそうなほどの、鋭い寒々しい空気。
普通ではない。
室内の様子に目を見張ると同時に優太は、保健室のベッドの上の人影を見て、顔を強張らせた。
少女の上に、女性が馬乗りになっている。女性の伸ばされた両手が掴んでいるのは、少女の首。
その少女は、柚莉香だ。
「柚莉香!」
優太は再度名前を叫ぶ。
刹那――弾かれたように女性が顔を上げて、優太を見た。
乱雑な長い黒髪の下から覗く鋭い目は、眼球に血を流したかのように真っ赤だった。威嚇なのか開かれた唇から、叫ぶような、声になっていない音が出て、空気を震わせる。
「うっ……」
女性が発する超音波のような音に、思わず優太は耳を塞いだ。
その中で気付く。女性の格好が、看護士のものであるということに。あれは……病院の廃墟で見た女性の幽霊のものと、同じ。柚莉香を襲っているのは、あのときの幽霊と、同じ……?
苦痛に顔を歪ませる優太の横を、勢いよく誰かが通り過ぎた。視界の端を横切るのは、束ねられた長い黒髪と、柊高校の女子生徒の制服。
雪だ。
雪が女性の幽霊に飛びかかる。雪の体重を受け、女性の体が雪ともども、ベッドの上から吹っ飛んだ。二人して床に転がり落ちる。
「ユッキー先輩!」
女性の幽霊が叫びが止まり、優太は両手を耳から離した。雪と女性の幽霊が、ベッドの陰になっているため見えない。
「柚莉香ちゃん!」
雪のあとに保健室に入ってきた桃音が、ベッドに駆け寄る。それを見て優太も、雪の状況を確認するため、そして柚莉香の様子を見るために、ベッドへ向かった。
「柚莉香! 大丈夫か!?」
ベッドで横たわっている柚莉香は、肩で息をしながらも、小さく首を縦に振る。首にははっきりと、絞められた指の痕が痛々しく残っていた。
弱々しい様子ながらも、柚莉香の無事を確認して、優太はホッと息を吐く。
しかし安堵したのも束の間。
「ユッキー!」
裏返りそうな桃音の叫びに、優太は顔を上げた。
「ぐっ……」
女性の幽霊が、片手で雪の首を掴んで、持ち上げていた。一体あの細い体のどこに、そんな力があるのか。
首を絞める手から逃れようと、雪がもがく。掻き毟るように女性の幽霊の手を掴もうとする。しかし首を絞める手は離れない。
「っ……はっ……」
「ユッキーを離してえッ!」
女性の幽霊の背中に向かって、桃音が突進した。
桃音が自分に向かって走ってくるのを、気配でか、視界の端でか、捉えたのだろう。女性の幽霊が、雪を掴んだまま方向転換する。
雪を盾にするように女性の幽霊は桃音に向き直った。
そしてまるで砲丸投げのように雪を、投げた。
「キャアアア!」
雪の体が桃音に直撃する。保健室の中は空間が隔離されているからなのか、雪も女性の幽霊も生きているものに触れることができるらしい。桃音は雪とぶつかった衝撃で、一緒に吹っ飛んでいく。投げ飛ばされた雪がぶつかる衝撃を、桃音の小さな体では吸収することができなかったのだ。
雪と共に桃音は、保健室の壁に勢いよく激突し、床に落ちた。
「モモ先輩! ユッキー先輩!」
壁にぶつかる直前に、雪が桃音を守ったらしく、雪に抱きしめられるような形で、二人は床に倒れていた。
「う……」
呻き声と共に二人は身じろぐが、起き上がる気配はない。
目の前の出来事に、優太は動けなかった。
しかし不意に、視線を感じて顔を上げる。
優太の向かい、ベッド脇で、女性の幽霊が優太と柚莉香を見つめていた。
冷たい視線に、優太の体が凍りつく。生気を感じない瞳を前に優太は、蛇に睨まれた蛙のように、硬直していた。唇が震えて、呼吸が上手くできない。
絡まり合った黒髪の下から覗く目は、柚莉香を睨んでいた。
女性の幽霊の両手がゆっくりと持ち上げられて、柚莉香へ伸ばされる。その手が柚莉香の首を狙っていることに気が付いて、優太は反射的にベッドに上った。
柚莉香は息も絶え絶えで動けない。この女性の幽霊をどうにかする方法も知らない。でもせめて、守らなければいけない。
大事な、幼馴染みなのだ。
女性の幽霊から守るように優太は、柚莉香に覆い被さるようにして、彼女の体を強く抱きしめた。手が、腕が、体が、彼女の体に密着する。制服越しの体温が感じられず、自分の体温を分けるように、抱き締める力を強くする。
背後から迫ってくる幽霊の手と殺気に、優太の目が閉じられる。
――その、瞬間。
体が熱くなった。いや、正確にいえば体ではない。体の一部――柚莉香の制服のポケットに触れている部分が、突如熱を持ち出したのだ。柚莉香のポケットの中が熱い。服越しにも分かる、火傷しそうなほどの熱。
「な、何……」
わけが分からず、呆然と優太は呟く。
そして唐突に、優太の目の前が真っ白になった。
目を刺すような、真っ白な光。
「うあっ……」
あまりの眩しさに優太は目を瞑る。
光はまるで柚莉香のポケットから溢れだしたかのようだった。強い光は保健室全体を包み込む。
光は、眩しくて、強くて――しかし何故か、温かい。
ただそれは、一瞬のこと。
閉じた瞼越しでも分かる光は、すぐに消えた。優太はそっと目を開ける。
「い、今のは……?」
今の状況を飲み込めず、思わず呟きが漏れる。一体何が起こったのだろう。
床に倒れていた桃音と雪も、上半身だけを起こして呆然としていた。突然の光に驚きを隠せないらしい。
桃音と雪に声をかけようとして、そこで優太は、幽霊の女性のことを思い出した。慌てて振り返る。
しかしそこに女性の幽霊の姿はもう、なかった。
「え? え?」
保健室の風景も、いつも通りのものに戻っていた。電灯が明るく保健室内を照らし、窓の外からは夕方を示すオレンジ色の光が差し込んでいる。生徒達のざわめきが、ラジオの音量を徐々に大きくしていくように、廊下やグラウンドから聞こえてきた。肌寒さも感じない。
「元に、戻った……?」
いつも通りの、校内の雰囲気である。
抱き締めている柚莉香を見る。気を失っており、首に絞められた指の跡が残っているものの、呼吸は正常だった。
「柚莉香?」
「う……ん……」
呼びかければ、寝ぼけたような返事があった。
……とりあえず、どうにかなった、のか?
窓越しに、部活動に勤しむ生徒達の声を聞きながら、優太はしばらくの間呆然と、動けなかった。
* * *




