20、ナニか
桃音は朝の六時になる前に、電車で自宅に帰っていった。家に帰ったらお風呂と朝食を済ませ、学校に行くのだという。
雪も、もう優太の部屋にいる意味はなくなり、桃音と共に出て行った。
残された優太は、なんとなく眠ることもできず、ぼんやりと登校時間になるまでを過ごした。
多少は眠ることができたのだが、怒りなのかショックなのか、よく分からない感情に苛まれて、熟睡することはできなかった。
どうして、という疑問。
何故、という怒り。
冷静になることはできず、このまま一人で悶々と考えるのも嫌で、優太はいつもより少し早い時間に、家を出て学校へ向かった。
通い慣れた道を進み、学校に到着する。生徒の波を掻き分けて下駄箱へ向かい、靴を履き替えた。教室へ向かうために、顔を上げて。
同じく靴を履き替えて教室へ歩いていこうとしていた柚莉香と、目が合った。
「あ……」
優太と目が合って、硬直したように柚莉香が立ち止まる。眉尻を下げた表情は、どうしよう、という思いが表れていた。
普段であれば、お互いに軽口と共に挨拶を交わして、並んで教室へ行くことだろう。
しかし柚莉香を見た瞬間、悶々とした気持ちが怒りという明確な感情になって、優太は無意識に自分の目が吊り上がるのを感じた。
「……」
優太は無言で、柚莉香から顔を背けた。荒々しい足取りで、教室に向かって歩き出す。
そんな優太に、柚莉香も声をかけることはなかった。
優太と柚莉香の教室は、同じ校舎の同じ階、さらに隣同士である。そのため優太は、柚莉香の一歩前を歩くような形になった。
お互いすぐ傍にいることは分かっていたけれど、何も言わない。まるでお互いの存在に気付いていないかのようなフリをする。
校舎に入り、廊下を歩いて、階段を上る。周囲の生徒達の賑やかな声が、校舎の中には響いていた。
柚莉香への怒りが冷めぬまま、無心に優太は階段を進む。
しかし不意に、ぞくりと悪寒がして、眉根を寄せた。
なんだ?
風邪を引いたときのような寒気。しかし微妙にそれとは違う。
心なしか、周囲の気温も下がった気がした。
背後に誰かの気配を感じる。自分の横を通り過ぎていく生徒のものとは違う、気配。まるで殺気立っているかのような……。
自分の気のせいだろうか、と思いつつも、優太は階段を上りながら振り返った。
眼下には、優太と同じように教室へ向かう生徒達の姿が多々あった。そして二、三段下には柚莉香もいる。
「……?」
優太の視線に気が付いたのか、歩きながら足元を見ていた柚莉香が、顔を上げた。
――その柚莉香の背後、まるで柚莉香の顔の横から自分の顔を覗かせるように女性が立っていることに気が付いて、優太は目を見開いた。
乱れた長い黒髪のせいで、顔の上半分は隠れている。柚莉香の体が邪魔で、女性の体も見えない。だが唯一見える口元が、次の瞬間笑みを刻んだ。血の気のない青い唇が、ニィと吊り上がって。歯が覗いて。
途端。
「えっ……」
優太の目の前で、まるで何かに引っ張られたかのように柚莉香の体が、後ろに向かって浮いた。
足を踏み外して、階段から落ちる……!
「柚莉香!」
反射的に優太は、柚莉香に向かって手を伸ばした。彼女の手を掴んで、自分の元に強く引く。
「きゃっ」
優太に引っ張られた柚莉香は、優太の胸に飛び込むような形になった。柚莉香の体がぶつかった勢いで、またバランスを崩さないように、優太は彼女の体を抱くように支える。
柚莉香の手から離れた鞄が、勢いよく階段下の廊下に落ちたのが見えた。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
尋ねながら優太は、周囲に視線を巡らせる。
周りにいるのは、突然のことに驚いた生徒だけだ。さっき見えた、奇妙な女性の姿はもうない。
見間違い? 幽霊? でも、何故?
生徒達は驚いたような表情をしながらも、すぐに歩き去って行く。
「……優太?」
黙ったままの優太を不思議に思ったのか、躊躇いがちに柚莉香が名前を呼んだ。
名前を呼ばれて優太は、そこで初めて、自分が柚莉香の体を抱いていることに気付く。
「あ、わ、悪い」
柚莉香の体を抱いている。そう自覚した途端、服越しの柔らかさとか、自分のものとは違うシャンプーの香りだとか、そんなものを意識してしまって、優太は慌てて柚莉香から離れた。
同時に、自分は柚莉香に怒っていたのだ、と思い出して、今さらながら気まずくなる。
「……じゃあ」
「あ……」
柚莉香から顔を背け、優太は生徒の波に紛れるようにして、再度階段を上り始めた。
「ゆ、優太! ありがとう!」
そんな柚莉香の声が聞こえてきたけれど、なんとなく振り返ることもできなくて、優太は早足に柚莉香から離れたのだった。
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