76 愛しい人
無体を強いるブルートに必死で抗い続けた私は、体中の至る所に傷を付けて、既に身も心もボロボロになっていた。
無理やり口内に差し込まれる舌を拒み、顔を背けるたびに殴られる熱い痛みが、気力も、体力も削っていく。
こんな男に穢されるくらいなら、いっそ舌を噛んでしまおうか――それを押しとどめる理性すらも霞がかかったように感じられた頃、突如、身体中を弄っていた吐き気を伴う指が動きを止めて、熱情を孕んでいた瞳さえもが一瞬にしてドロリと濁るのが視界いっぱいに広がる。
その目は焦点を失ったまま、馬乗りになっていた私の上から離れると、まるで誰かに呼ばれたかのようにその足を扉へと進ませた。
その足取りはフラフラと頼りなく、幾度か柱へぶつかりながらも、何とか辿り着くと内鍵に掛かっていた鎖をガチャガチャと解いている音がシンと静かな薄暗闇の中に響いている。
続けてギイッと軋むような音と共に扉が開くと、その前に立っていたはずのブルーノの体が突如宙を舞い、用具室の奥に乱雑に積み上げてあった馬鞍の山へと突っ込んでいくのだけがスローモーションのように見えた。
一体何が起こっているのか…入り口に佇む金色の髪と琥珀の双眸を目の当たりにした瞬間、馬鞍がガラガラと崩れ落ちる音も、濛々と立ち上る綿埃さえも私の中からその存在を消してしまった。
暗闇で目が慣れないのか、肩で息をしながら目を眇めて必死に室内を見回している。
その姿を見つけた瞬間、零れ落ちたのは止めようのない涙と、震えるほどに愛しい彼の名前だけだった。
「ディーマっ‼…ディーマ…あ、あ…ディーマっ……グスッ………」
手を伸ばしてその体に強く縋り付いてしまいたいのに、それすらも叶わないのが余計に悲しくてもどかしい。
私の叫び声に、一瞬体を強ばらせた彼が、まるで弾かれたかのような勢いで駆け寄って、ギュッと抱きしめてくれる。
「ルウっ⁈ ルウ…ルウ…会えた……。やっと手の中に戻って来た……。お願い、もっと私の名前を呼んで欲しい…」
温もりを確かめるように、何度も頬や髪に触れ、その全てに優しい口付けを落としていく。
まるで、離したら消えてしまうとでも思っているかのように、何度も何度もその行為は繰り返された。
それは同時に、
その温もりが
彼の纏う香りが
どれだけ恐怖に怯えていた私の心を救ってくれたのか、きっと誰にも判らないだろう。
「も、もう…二度と、会えないと思った…。け、穢されるくらい、なら…死んだ方がマシだと…」
“でも死ななくて良かった。だってもう一度貴方に会えたから”
不安から解き放たれ、この時の私は羞恥という箍が外れ、いつもからは考えられない程に素直になっていた。
止まらない涙を、彼の綺麗な制服に染みを付けるのでさえ気にせず、ただ只管に彼の温もりだけを求めていたのだ。
愛おし気に私に優しく触れる彼もまた、琥珀色の双眸を潤ませている。
「…ルウが私を呼んでくれたから…“共鳴紋”が反応して此処が判った。ルウを永遠に失うのかと思ったら…気が狂う、かと…胸が張り裂けるほど痛かった…」
その言葉と、触れている手が微かに震えていることで、彼もまた、同じ気持ちでいたのだと思うと、もっと彼の傍に近づきたくて私の胸も震える。
フッと、私の体に指を滑らせたディーマが違和感に気づいたように目を眇めると、慌てた様子で着ていたフロックコートを着せかけてくれた。
――そう言えば、私は殆ど全裸の状態だった…。
そんな事に今更気づいて、羞恥に顔を染めることになろうとは…。
「私でさえ触れていないのに、簡単にルウに手を伸ばしたブルーノとは話し合いをしなくてはいけないね。…少しだけいい子で待っていて」
私に向けたその微笑みを一瞬で消し去ると、崩れた馬鞍に埋もれて倒れていたブルーノの元へ向かい、そこからズルリと動かぬ体を引きずり出した。
大きく肩で息をするブルーノは、縺れる足で何とか立ち上がると、手に持ったナイフを突き出すように構えている。
その様子をジッと見つめていたディーマ――ディミトリ殿下は冷たい声音で宣告した。
「エビリズ国従者、ブルーノ・テイラー。お前はアデリーナ第二王女の命により、我がアーデルハイド王家に連なる者に危害を加えようとした。その咎は身をもって償うが良い」
殿下の言葉を聞き終えても、ブルーノは只、立ち尽くすのみで、一言も発さない。
そこに違和感を覚え、暗闇に佇む姿に目を凝らすと、漸く違和感の正体に気が付いた。
ブルーノの足元はまるで酔っぱらったかのようにふらついている。突き出したサボタージュ・ナイフも力が入らないのかグラグラと揺れ続け、その瞳は黒く濁ったまま何も映してはいない。薄く開いた唇からは、零れた涎がまるで蜘蛛の糸のように床へと一筋の線を描いていた。
「そのナイフを此方へ」
ディミトリ殿下の声に、ビクリと体を揺らすとブルーノはその手のナイフをあっさりと手から離す。
一体…ブルーノに何が起きているのか…。
恐らく、その答えを持っているであろう殿下は、ブルーノの耳元へ顔を近づけると一言囁いた。
「なあ、無抵抗な女を殴るのは…楽しかったか?」
拳を振りかざし、ゴツッと音がする勢いでブルーノの頬を殴りつけると、今度は左足でぐらついた体を反対側から蹴り上げる。
「この程度で赦されると思うな。ひとつひとつ、じっくりと痛みを刻んでやる」
既に白目を剥き、痙攣しているブルーノのみぞおちに拳を叩き込むと、気が済んだのか、その場にガクリと蹲る彼の様子には全く見向きもせず、ディミトリ殿下は私の元へ膝をついた。
「待たせたね…不愉快だとは思うが、腕の拘束を解くのに他に適したものが無い。少しだけ我慢して欲しい」
ザクザクと縄が切られるたびに、助かったのだという事が実感できて、漸く深い安堵のため息が漏れた。
数時間にも及ぶ拘束は、体だけでは無く、心までも弱らせ切っていたようで、やっと自由になれた事が嬉しくて堪らず殿下に抱き付いてしまう。
「こんなに酷い怪我を負わされて…。痕が残らないとは思うが、此処での治療では不安だ。迎えを呼ぶから一緒に王宮へ戻ろう」
その言葉に頷くと、ホッとした様にディミトリ殿下は安堵の笑みを浮かべた。
「…ディーマが助けに来てくれた時、ブルーノの様子がおかしくなったの。馬乗りになって躰を弄られていたのに、急に焦点が合わなくなって。それに、自ら内鍵まで外すなんて…もしかしてディーマは、その理由を知っているの?」
「ああ…今までルウに話した事は無かったか。私達アーデルハイド王家には直系の王族にのみ受け継がれる能力がある。人の記憶や精神領域に干渉できる力なんだが、建物の外からブルーノに向けて力を解放したせいで、今も強制的にアイツの精神を縛り付けているからね」
…やはり、王家の秘匿能力――“精神領域干渉能力”は実在したのだ。
「能力を発動している間は、瞳の色が琥珀色になってしまうからね。無闇に力を使う事は無いんだけれど、今回ばかりは使わざるを得なかったな…私が怖い?」
ディミトリ殿下の問いかけに首を振ると、良かったと顔を綻ばせている。
「今ならばブルーノに報いを受けさせることも容易い。殴りたい?踏みにじりたい?…ああ、自分の手が傷つくことを嫌がるのなら、このナイフであいつ自身の臓物を抉り出してやろうか?」
――しかし、その後に続く言葉は恐ろしい。
…彼は顔には出さないけれど、相当激しく怒り狂っているようだ。
「貴方が代わりに怒ってくれただけで、もう十分。無暗に傷つける事は止めて欲しいの。…ブルーノだけでは無く、アデリーナ王女にも公正な場で裁かれる権利があるわ」
彼らは正式なエビリズ国の外交団として、アーデルハイド王国に滞在しているのだ。
いくらアデリーナ王女が嫉妬に駆られたのだとしても、今回の彼女の行為は許されるべきものではない。
王女としては私の身分の低さから、闇に葬れると軽んじた可能性が高いが、アーデルハイド王国は君主制ではあるものの、統治している国王陛下は公明正大な人物だ。
だから、王宮議会に掛けられ、公の場で裁かれれば、エビリズ国の王族であったとしても全てを闇に葬り去ることは難しいだろう。
今回の半年以上に渡る同盟交渉は水泡に帰す可能性が高く、その責任者であるアデリーナ王女も強制送還か、王宮へ幽閉か…いずれにせよ、何らかの咎は負う事になる。
「それに、ブルーノの話の端々から、外交団の重鎮の一人が王女を唆した可能性があることも分かったわ。その事も王妃殿下にお伝えしないと…」
そう告げて彼の頬に口づけると、ディミトリ殿下は困った顔をしてから深々とため息を吐いた。
「まったく…。ルウのお人好しには呆れるばかりだ。…でも、それこそが貴女らしさ、なんだろうな」
どれだけ腸が煮えくり返っていたとしても、最後には私の意思を尊重して留飲を下げてくれる殿下を心底愛おしいと思う。
――そう言えば今の私は“ルイ―セ”では無くカールだったことを今更ながらに思い出す。
王立学術院で拉致され、素顔は殴られた傷で血だらけだし、制服も引き裂かれてボロボロのみすぼらしい状態…これでは『侯爵家の貴族令嬢ですわ』などと言い逃れするのは絶対に無理だろう。
以前医務室でバレた時の様に、もう一度ディートハルト先生に記憶を改ざんして貰えば…等と馬鹿な考えがかすめたけれど、そんな必要は無い。
私を見つめ、ルウと呼ぶ優しい声を…もう二度と失いたくないと思ってしまったから…。
貴族令嬢然とした立ち居振る舞いや化粧、豪奢な衣装を身に纏った時にだけブルーノは美しさを誉めそやしたけれど、こんなに傷だらけで埃まみれの薄汚れた“ルイ―セ”でも、大切だと愛おしそうに触れてくれるのだ。
――こんな相手にどう足掻いても敵う訳が無いだろう?
恋愛小説に憧れて愛されたいと願うくせに、いざ愛情を向けられれば“初恋の女性の身代わりだから”とか、“卒業までには気持ちが変わる”だとか、必死で自分が傷つかないように疑って、傷つけて――自分の気持ちにさえ蓋をして…。
とっくに手放すことが出来ない程の愛に溺れて、今から引き返して、逃げ出す事なんかできないくらいには、彼の傍に居たいと願ってしまう。
(…あああ…自分はなんて愚かなんだろうか)
ディミトリ殿下が他の令嬢に目を向ける未来が来たなら、きっと私は嫉妬のあまり彼を傷つける。
それでも…もう、離れてしまう事が考えられないくらいに愛してしまった。
彼への思いを噛みしめていると、殴られた体以上に、頭がズキリズキリと脈打つような痛みを感じる。
焼けつくような痛みに、頭を抱えて蹲っていると、奥にチカチカと瞬く光を感じ、それがまるで記憶の土石流のような速さで、私の脳内を全て押し流していく。
――痛い痛いイタイ…いたい…
痛みは継続的では無く、微かに正気に戻る瞬間があって、その度に自問自答する記憶が、私の意識を混濁させては、苦しめていく。
何時から私は彼を“ディーマ”と呼んでいた?
何故“共鳴紋”と呼ばれるものが私の体にあるの?
…私たちが初めて出会ったのは、あの舞踏会の日では無いの?
…そして貴方が愛している初恋の令嬢とは一体誰なの…?
「ルウ…?どうしたの…顔色が真っ青だよ⁈」
「…ディーマ…私…」
伝えたいことも、聞きたいことも沢山あるのに、もう目を開けていられない。
痛い…苦しい…悲しい…寂しい…
負の感情だけが脳内にパチンと弾け、押し寄せる感情の波が私の意識までも奪っていく。
――まだ、ディーマに………愛していると伝えていないのに
幾度も私の名を呼ぶ悲痛な叫びの中で、意識を失う直前の私はその事だけを考えていたのだった。
※いつもお読みいただきありがとうございます。あ、評価もありがとうございました。




