第二話 王宮から来た使者
扉を開けると、廊下の先に三人の男が立っていた。
先頭にいるのは、濃紺の礼装をまとった初老の男性だった。胸元には王家の紋章が刺繍され、腰には細身の剣を帯びている。後ろには騎士が二人控えていた。
アヴリリスは、彼らの姿を見た瞬間に正体を思い出した。
先頭の男は、王宮侍従長アルベルト・グランディス。ゲームの序盤で何度か登場する脇役だ。王太子ルシアンの命令を伝え、主人公を学院へ案内する役目を担っている。
ゲーム画面の中では、立ち絵が表示されるだけの人物だった。
だが、実際に目の前に立つ彼は、画面の中の数倍も大きく見えた。鋭い視線は、アヴリリスの顔から胸元の魔紋へと移り、わずかに止まる。
「アヴリリス・ディア・アイデゴディア嬢ですね」
「ええ。あなたは?」
尋ねてから、アヴリリスは自分の失敗に気づいた。
アヴリリスなら、相手の名を知らないふりなどしない。家柄と役職を把握していることを、むしろ誇示するはずだ。
しかし、アルベルトは気にした様子を見せなかった。
「アルベルト・グランディスと申します。ルシアン殿下より、書状を預かって参りました」
そう言って、彼は白い封筒を差し出した。
封蝋には、王家の紋章と聖花の意匠が刻まれている。
アヴリリスは封筒を受け取った。
指先が触れた瞬間、胸元の魔紋が熱を持つ。
熱は一瞬だったが、アヴリリスには分かった。封筒に何かの魔法がかかっている。王家の血筋か、特定の魔力を持つ者だけが開封できる仕組みだ。
ゲームでは、この手紙を受け取ったアヴリリスが、ルシアンからの贈り物だと勘違いして喜ぶ。だが実際の手紙には、学院への入学手続きと、聖女候補についての簡単な説明しか書かれていない。
アヴリリスは封蝋を割った。
中に入っていたのは、予想どおり一枚の書状だった。
――王立学院の入学式に際し、婚約者として王太子殿下の隣席を許す。
――当日は、聖女候補ミレイア・フローレンスとの顔合わせを予定する。
――王国の未来を担う者として、節度ある対応を期待する。
最後に、ルシアンの名が記されている。
アヴリリスは、書状を折りたたんだ。
「殿下からのご伝言は、以上です」
「殿下は、学院であなたと聖女候補が良好な関係を築くことを望んでおられます」
「良好な関係、ですか」
アヴリリスは、思わず首を傾げた。
ゲームのルシアンは、アヴリリスとミレイアを同じ場所に置くことを避けていた。アヴリリスがミレイアを害することを疑っていたからだ。
なのに今回は、入学式での顔合わせを王太子自身が命じている。
シナリオが、また変わっている。
「お嬢様」
隣に立つセシルが、控えめに声をかけた。
「どうされますか?」
アヴリリスは、手の中の書状を見つめた。
ゲームどおりなら、ここで王太子の命令を素直に受け入れる。そこから学院に入学し、主人公のミレイアを見つけた瞬間、アヴリリスの感情が暴走する。
彼女がルシアンの婚約者であることを、ミレイアに見せつけるために。
けれど、アヴリリスはまだミレイアに会っていない。ゲームの主人公という情報しか持っていない。
彼女を敵だと思う理由は、どこにもなかった。
「殿下には、承知したとお伝えください」
「それだけでよろしいのですか?」
アルベルトが、わずかに目を細めた。
「何か問題が?」
「いえ。失礼いたしました」
彼は深く頭を下げた。
だが、廊下へ戻ろうとしたそのとき、後ろに控えていた若い騎士が口を開いた。
「失礼ながら、アヴリリス嬢」
「何かしら」
「先ほど、食堂のほうから強い魔力の反応がありました。あなたが放ったものですか」
セシルの肩が揺れた。
アヴリリスは、騎士を見た。
短く刈った褐色の髪。灰色の瞳。まだ若いが、立ち姿には隙がない。腰の剣には、王国騎士団の紋章が刻まれている。
この顔も、知っている。
カイ・ヴァルガス。
ゲームでは、主人公を守る聖騎士。学院編では無愛想な護衛役として登場し、アヴリリスが魔族の力を使った場面で、彼女を警戒する。
ただし、彼がアイデゴディア家を訪れるのは、ゲーム開始から半年後のはずだった。
「魔力の反応があったとしても、私には心当たりがありません」
アヴリリスは、できるだけ平静に答えた。
「嘘をついているようには見えません」
「それは、私を疑っているのかしら?」
「確認しているだけです」
カイの視線が、アヴリリスの胸元へ向く。
そこには、黒いドレスの下に隠された魔紋がある。
アヴリリスは、無意識に腕を組んだ。
「でしたら、確認は終わりでしょう。私は、魔力を暴走させた覚えはありません」
正確には、アヴリリスの身体が暴走させた。
その事実を、彼に話すわけにはいかなかった。
カイはしばらく黙っていたが、やがて視線を下げた。
「承知しました」
短い返事だった。
彼らが去ったあと、セシルが扉を閉めた。
アヴリリスは、背中を壁に預けた。
「……疲れました」
思わず本音が漏れる。
セシルが目を丸くした。
「お嬢様が、そのようにおっしゃるのは珍しいですね」
「そうなの?」
「はい。以前は、疲れていても『この程度で弱音を吐くなんて、私を誰だと思っているの』とおっしゃっていました」
「私、そんなことを言っていたのね」
「申し訳ございません」
「どうして謝るの?」
「以前のお嬢様のことを悪く申し上げたつもりは……」
アヴリリスは、首を横に振った。
「怒っていないわ。むしろ、知りたいの。私はどんな人間だったのか」
セシルは困ったように唇を結んだ。
しばらくして、彼女は慎重に言葉を選び始めた。
「お嬢様は、誰にも弱みをお見せになりませんでした」
「それは、強いということ?」
「最初は、そうだと思っておりました」
「今は?」
「……とても、お寂しい方なのだと思います」
アヴリリスの胸が、また熱くなった。
今度は魔紋ではない。
自分が言われたわけではないのに、胸の奥に隠されていた誰かの感情が反応していた。
寂しい。
その言葉を、アヴリリスは知っている。
収録スタジオから一人で帰る夜。仕事が終わったあと、誰にも会いたくなくて、部屋の明かりをつけずに過ごす時間。周囲から人気声優として扱われるほど、素の自分を見せる相手が少なくなっていった感覚。
転生前の宇伊にも、孤独はあった。
だからこそ、アヴリリスの感情が分かる気がした。
ただし、分かることと、同じ人間になることは違う。
アヴリリスは、鏡に映った自分の顔を見た。
「セシル」
「はい」
「私のことを、これからも教えてくれる?」
「……はい」
セシルは、少しだけ嬉しそうに笑った。
そのとき、窓の外で鐘が鳴った。
昼の鐘ではない。屋敷の門が開いたことを告げる、短い鐘の音だった。
アヴリリスは窓辺へ近づいた。
門の前に、一台の黒い馬車が止まっている。王家の紋章が刻まれた馬車の隣には、先ほどのアルベルトとカイが立っていた。
そして、馬車からもう一人の男が降りる。
黒い髪。
紫色の瞳。
細身の身体。
ノア・アルカディア。
ゲームの攻略対象の一人であり、王立魔術院の天才魔術師。学院編で初めて登場するはずの彼が、なぜ今ここにいるのか。
ノアは屋敷を見上げた。
距離があるのに、紫の瞳がまっすぐこちらを捉えたように感じた。
アヴリリスの胸元の魔紋が、鋭く痛む。
窓ガラスに、細い亀裂が走った。
「お嬢様!」
セシルが叫ぶ。
アヴリリスは胸元を押さえた。魔紋の奥で、何かが反応している。
ノアが右手を上げた。
彼の指先に、淡い紫色の光が灯る。
魔力の光は窓を越え、屋敷の壁を越えて、アヴリリスの胸元に伸びてきた。
まるで、彼女の中にある何かを探しているようだった。
アヴリリスは、とっさに声を出した。
「止まりなさい!」
魔法を命令するつもりはなかった。
ただ、驚きと恐怖が声になっただけだった。
しかし、その声は空気を震わせ、光の帯を弾き飛ばした。
屋敷全体が揺れる。
窓ガラスの亀裂が消え、魔力の光も霧のようにほどけた。
庭にいたノアが、初めて表情を変えた。
驚きではない。
興味だった。
彼は、アヴリリスを見上げたまま、唇をわずかに動かした。
声は届かなかった。
だが、アヴリリスには読めた。
――共鳴した?
* * *
夕方、アヴリリスは父親の書斎へ呼び出された。
部屋に入ると、グレゴリウスのほかにノアがいた。アルベルトとカイは壁際に立っている。
机の上には、黒い布をかけられた大きな箱が置かれていた。
「座れ」
父親に命じられ、アヴリリスは椅子に座った。
「本日、食堂で発生した魔力暴走について、ノア殿に調査を依頼した」
ノアが一歩前に出る。
近くで見ると、彼の紫色の瞳は不思議な色をしていた。光の加減で青にも赤にも見える。ゲームの立ち絵では美形として描かれていたが、実際には人を観察する目が鋭すぎて、落ち着かない。
「あなたの魔力は、一般的な魔族のものとは異なります」
「具体的には?」
「声に反応して、周囲の魔力を変質させる」
アヴリリスは黙った。
やはり、声優としての発声が魔法に影響している。
「それは危険な力かしら」
「使い方によります」
「便利な力でもある?」
「使い方によります」
同じ答えを返され、アヴリリスは眉を上げた。
「ずいぶん便利な言葉ね」
「曖昧な質問には、曖昧な答えが適切です」
ノアの声には、冗談の気配がなかった。
ゲームの彼も、こういう人物だった。人の感情に興味がなく、研究に必要な情報だけを求める。主人公に対しても、恋愛感情を抱くまでに長い時間がかかる攻略対象だ。
けれど今のノアは、アヴリリスの顔ではなく、彼女の喉元を見ていた。
「あなたは、発声によって魔力を安定させています」
「意識していないわ」
「だから危険です」
ノアは、机の上の箱へ目を向けた。
「中に、古い魔導具があります。あなたの魔力と同じ波長を持つものです」
グレゴリウスが、布を取り払った。
箱の中には、黒い結晶が置かれていた。薔薇の蕾に似た形をしている。中心には赤い光が宿り、アヴリリスの胸元の魔紋と呼応していた。
見た瞬間、頭の中に声が響いた。
――近づかないで。
今度は、はっきり聞こえた。
アヴリリスは立ち上がった。
「それは、どこから?」
「お前の母親が保管していたものだ」
グレゴリウスの答えに、アヴリリスは息を呑んだ。
「お母様が?」
「お前の魔紋と、この魔導具には関係があるらしい。ノア殿によれば、聖花協定の時代に作られた古代の共鳴器だそうだ」
聖花協定。
ゲームの真相ルートに関わる言葉だった。
人族と魔族の平和を維持するため、百年前に結ばれた協定。その裏には、魔族の血と魔力を利用した古代魔法がある。
ゲームでは終盤まで明かされなかった秘密だ。
なのに、なぜ今ここにある。
「学院へ行く前に、魔力の制御を学べ」
グレゴリウスは冷たく言った。
「聖女候補と同じ場所に立つ以上、力を暴走させることは許さん。お前の魔力が公になれば、公爵家だけでは済まない」
「私を、守るためですか?」
アヴリリスの問いに、グレゴリウスは答えなかった。
代わりに、ノアが口を開く。
「彼は、あなたを守りたいのではありません」
父親の視線が、ノアに向く。
「彼女の力が、家と王国に必要だからです」
書斎の空気が張り詰めた。
アヴリリスは、ノアを見た。
ゲームのノアは、真実を語る人物だった。誰かを慰めるために嘘をつくことはない。その代わり、真実が相手を傷つけるかどうかも考えない。
「あなたは、随分と正直なのね」
「嘘をつく理由がありません」
「私が傷つくとは考えないの?」
「傷ついたのですか?」
「……」
アヴリリスは、言葉に詰まった。
転生前の宇伊なら、適当に笑って流していただろう。仕事柄、相手に合わせることには慣れていた。だが、この世界でアヴリリスとして生きるなら、いつまでも感情を隠してはいられない。
アヴリリスは、黒い結晶に近づいた。
結晶の中心から、赤い光が伸びる。魔紋が熱くなり、頭の奥に記憶が流れ込んできた。
幼いアヴリリスが、母親の手を握っている。
母親は何かを言っている。
――あなたの声を、誰にも渡してはいけない。
次の瞬間、映像が途切れた。
アヴリリスは膝から崩れそうになった。
カイが素早く近づき、腕を支える。
「大丈夫ですか」
大きな手が、アヴリリスの腕を支えている。ゲームでは何度も見た場面なのに、実際に触れられると、胸の鼓動が早くなった。
「平気よ」
「顔色が悪い」
「平気だと言ったでしょう」
「それは、平気な人の言い方ではありません」
カイは、アヴリリスを離さなかった。
その視線は厳しい。しかし、敵意だけではない。
アヴリリスが何かを隠していることを知りながら、それ以上は追及せずに支えている。
ゲームの中でも、カイはこういう人だった。
不器用で、真面目で、相手の弱さを見つけると放っておけない。
アヴリリスは、支えられた腕を見た。
そして、ふと気づく。
これまで彼女は、攻略対象たちを「ゲームのキャラクター」として見ていた。
ルシアンは王道の王子。
カイは無口な聖騎士。
ノアは天才魔術師。
けれど、目の前にいる彼らは、台詞を言うために存在しているわけではない。自分の判断で怒り、自分の意思で手を差し伸べる人間だ。
ならば、アヴリリスも同じだ。
彼女は、誰かが決めた役柄ではない。
「お父様」
アヴリリスは、グレゴリウスを見据えた。
「私は、学院へ行きます」
「当然だ」
「ですが、誰かの指示どおりに人を傷つけるつもりはありません」
「何を言っている」
「聖女候補にも、王太子殿下にも、私自身の意思で接します。公爵家のためでも、王家のためでもありません」
グレゴリウスの顔から、わずかに血の気が引いた。
「お前は、何を企んでいる?」
「企んでなどいません」
アヴリリスは答えた。
「ただ、私の人生を私が選ぶだけです」
言葉にした瞬間、胸元の魔紋が淡く輝いた。
黒い結晶が、内側からひび割れる。
ノアが目を見開く。
「やはり……」
「何?」
「あなたの声は、共鳴器を起動させる」
ひび割れた結晶から、赤い光があふれた。
それは部屋の天井へ昇り、細い花びらの形に変わる。
花びらの中心に、見知らぬ紋章が浮かび上がった。
そして、どこからともなく少女の声が響いた。
――アヴリリス。
アヴリリスは息を止めた。
その声は、自分の声に似ていた。
けれど、違う。
もっと幼く、もっと寂しい。
――今度は、私を置いていかないで。
光が弾けた。
書斎の窓の外で、夜空に赤い花が咲く。
王都のどこからでも見えるほど、大きな魔力の花だった。
その日から、王国中で「魔族の令嬢が古代魔法を目覚めさせた」という噂が広がり始める。
ゲームにはなかった事件。
台本にはなかった声。
アヴリリスは、震える指で自分の胸元を押さえた。
「……あなたは、誰なの?」
返事はなかった。
ただ、割れた黒い結晶の中に、一枚の紙片が残っていた。
そこには、見覚えのない文字でこう書かれている。
――第一イベントを変更します。
アヴリリスは、紙片を握りしめた。
来月、王立学院の入学式がある。
本来なら、ミレイアと出会い、彼女を傷つけ、破滅への道を歩み始める日だ。
しかし、もう未来は決められていない。
誰かが、ゲームのシナリオを書き換えようとしている。
そしてその中心にいるのは、アヴリリス自身だった。
「面白いわ」
アヴリリスは、初めて心から笑った。
高慢でも、冷酷でもない。
転生前の宇伊が演じた声ではなく、アヴリリス・ディア・アイデゴディア自身の笑いだった。
「だったら、私も台本を書き換える」
窓の外で、赤い魔力の花が静かに散っていく。
その花びらの向こうで、王立学院への入学式まで、あと三十日。
第一イベントは、もう始まっていた。




