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大人気声優、魔族令嬢に転生する  作者: しょぼんスライム


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第一話 私が演じた悪役令嬢になりました

収録ブースの中で、瀬賀和 宇伊は、喉の奥に残った最後の息をゆっくり吐き出した。


「……それでも私は、私の名前を恥じないわ」


 マイクの向こうに、静寂が落ちる。


 防音ガラスの向こうでは、音響監督も、ディレクターも、誰もすぐには口を開かなかった。いつもなら、数秒もすれば「オーケーです」と声が飛んでくる。けれど今日は違った。


 宇伊自身も、今の台詞が終わったとは思えなかった。


 その声は、台本に書かれていたものではない。


 正確には、台本の最後の台詞を読み終えたあと、宇伊が勝手に付け加えた一言だった。


 乙女ゲーム『聖花のエデン』。その中で宇伊が演じる魔族令嬢、アヴリリス・ディア・アイデゴディアの断罪シーン。


 王立学院の大広間。大勢の貴族が見守る中、アヴリリスは聖女候補への数々の嫌がらせを告発される。王太子は婚約破棄を宣言し、聖騎士は彼女から目をそらし、魔術師は冷たく沈黙する。


 最後に、アヴリリスは衛兵に連れていかれる。


 ゲームでは、それだけだった。


 反省も、弁明も、涙もない。悪役は悪役らしく、最後まで高慢な顔を崩さない。プレイヤーにとっては、主人公の幸福を邪魔する存在が消える、ひとつの区切りに過ぎなかった。


 でも宇伊は、どうしても納得できなかった。


 アヴリリスは、本当に何も感じていなかったのだろうか。


 誰にも愛されず、誰にも理解されず、ただ「悪役」という役目だけを与えられた少女が、最後まで心の底から誇り高くいられたのだろうか。


 だから、宇伊は演じた。


 崩れそうになる心を、声だけで必死に支えながら。


 ――私は、私の名前を恥じない。


 それはアヴリリスに与えられた台詞ではなかった。


 宇伊が、彼女に与えたかった言葉だった。


「……瀬賀和さん」


 インカムから、音響監督の声がした。


「はい」


「今の最後の一言、台本にはありませんよね」


「すみません。やっぱり余計でしたか?」


「いや」


 少し間があった。


「採用します」


 宇伊は目を見開いた。


「本当ですか?」


「ええ。アヴリリスが初めて、自分で言った言葉に聞こえました」


 胸の奥が、かすかに熱くなった。


 宇伊はマイクの前で、小さく息を吐く。


 声優になって十年。アニメもゲームも、数え切れないほどの役を演じてきた。その中でも、アヴリリスは特別だった。


 決して人気の高いキャラクターではない。むしろ、ゲームのファンからは嫌われていた。主人公に嫌味を言い、陰で妨害し、最後には華々しく断罪される。典型的な悪役令嬢だ。


 けれど宇伊には、彼女が悪人には思えなかった。


 正確には、悪人であろうと努力しているように感じた。


 誰かに弱みを見せないために、誰かに捨てられないために、高慢で冷酷な人物を演じている。そんなふうに聞こえた。


「瀬賀和さん、今日はこれで終了です。お疲れさまでした」


「お疲れさまでした」


 ブースを出ると、隣の席にいた若手スタッフが声をかけてきた。


「瀬賀和さん、今のアヴリリス、すごくよかったです」


「ありがとう」


「最後の台詞、鳥肌が立ちました。あれ、アヴリリスは絶対に本当は――」


 スタッフはそこで言葉を止めた。


「すみません。まだ配信前なのに、余計なことを」


「ううん。そう思ってくれたなら、アヴリリスも少しは報われるかも」


 宇伊は笑った。


 報われる。


 その言葉が、なぜか耳に残った。


 帰宅したのは、日付が変わる少し前だった。


 玄関の明かりをつけ、靴を脱ぐ。誰もいない部屋は静かで、収録の余韻だけがまだ身体に残っている。宇伊は冷蔵庫から水を取り出し、ソファに座った。


 スマートフォンには、仕事の連絡と、明日の予定が並んでいる。


 朝から雑誌の取材。午後はアニメの収録。そのあと、また別のゲームのボイス収録。


 忙しいことは嫌いではなかった。声を使う仕事が好きだった。誰かの人生を借りて、数時間だけ別の人間になる。それは宇伊にとって、何度繰り返しても飽きない魔法だった。


 ただ、今日は少しだけ疲れていた。


 ソファから立ち上がり、寝室へ向かう。


 ベッドの脇には、『聖花のエデン』の設定資料集が置いてあった。表紙には、聖花を手にした主人公と、その背後に立つ攻略対象たち。そして、画面の端でこちらを睨むアヴリリスが描かれている。


 宇伊は資料集を手に取り、アヴリリスのページを開いた。


 銀白の髪。紅い瞳。黒いドレス。胸元には、薔薇を模した魔族の紋章。


 設定欄には、簡潔な言葉が並んでいた。


 ――アイデゴディア公爵家の令嬢。

 ――王太子の婚約者。

 ――魔族の血を引く高慢な少女。

 ――主人公の最大の障害。


 それだけだった。


「雑だなあ……」


 宇伊はページを見つめたまま呟いた。


「こんなに綺麗なのに、好きな食べ物も、苦手なものも書いてない」


 もちろん、設定資料に全てを書く必要がないことは分かっている。脇役であるアヴリリスの内面が深く描かれないのも、ゲームの構成上は仕方がない。


 それでも、少し寂しかった。


「アヴリリス。あなた、本当は何が好きだったの?」


 返事があるはずもない。


 宇伊は資料集を閉じ、ベッドに横になった。


 枕に頭を預けると、急に眠気が押し寄せてくる。明日の朝は早い。今夜はもう、余計なことを考えずに眠ったほうがいい。


 目を閉じる。


 最後に思い浮かんだのは、収録中のアヴリリスの顔だった。


 ――それでも私は、私の名前を恥じないわ。


 その声が、遠くで何度も響いた。


 * * *


 目を覚ますと、天井が違っていた。


 最初に感じたのは、妙に柔らかい布の感触だった。肌に触れるシーツが滑らかすぎる。枕が大きく、身体を沈めるベッドは自宅のものよりはるかに広い。


 それから、匂いが違った。


 自分の部屋なら、洗剤と木製家具の匂いがする。けれど今いる場所には、甘い花の香りと、冷たい石のような匂いが混じっていた。


 アヴリリスはゆっくり目を開けた。


 見知らぬ天蓋が視界に入る。


 白い布が四隅から垂れ下がり、天蓋の中央には黒い薔薇の彫刻がある。壁には金色の額縁に入った肖像画。窓には厚い紫色のカーテン。ベッドの脇には、見たことのない形の燭台が置かれていた。


 アヴリリスは、しばらく動けなかった。


 夢だと思った。


 昨夜、『聖花のエデン』の資料を見たから、その影響でゲームの夢を見ているのだろう。そう考えれば、何も不思議ではない。


 けれど、指先に伝わるシーツの質感はあまりに現実的だった。


 遠くで鳥の声がする。


 窓の向こうから、風に揺れる木々の音が聞こえる。


 アヴリリスは上半身を起こした。


 長い髪が肩から滑り落ちた。


 銀色だった。


「……え?」


 自分の髪を一房つまむ。白に近い銀。照明のせいではない。指先に絡む感触も、見慣れた自分の髪とは違っていた。


 アヴリリスはベッドから降りた。


 裸足の足が、冷たい床に触れる。そこに置かれていた鏡の前まで歩く。


 鏡は自分の背丈よりも高く、黒い蔓のような装飾が縁を覆っていた。


 映った少女を見て、アヴリリスは息を止めた。


 銀白の髪。

 透けるような白い肌。

 紅い瞳。

 細い首元。

 黒い寝間着の胸元に浮かぶ、薔薇の形をした魔紋。


 その顔を、アヴリリスは知っていた。


 毎日のように見ていた。


 何十時間も演じてきた。


 ゲームの画面で、主人公を睨みつけていた少女。


「……アヴリリス?」


 声が、自分のものではなかった。


 高く、澄んでいて、それなのにどこか冷たい。聞き慣れた声だった。アヴリリス自身が何度も録音し、何度も調整し、何度も演じた声。


 アヴリリスの声。


「え、ちょっと待って」


 鏡に近づく。


 少女も同じように近づいてくる。


 頬に触れる。鏡の中の少女も頬に触れる。


 耳を引っ張る。痛い。


 頬をつねる。痛い。


「夢じゃない……?」


 その瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。


 知らない記憶が、波のように押し寄せる。


 広い屋敷。

 冷たい父親の声。

 ほとんど笑わない母親。

 幼い自分を遠巻きに見る使用人たち。

 魔族の子どもだと囁く貴族たち。

 王太子との婚約を告げられた日の、誰にも祝われなかった誕生日。


 そして、ひとつの名前。


 アヴリリス・ディア・アイデゴディア。


 これは役柄の設定ではない。


 自分自身の名前として、胸の奥に浮かび上がった。


 アヴリリスはよろめき、鏡台に手をついた。


「私……転生したの?」


 口にした瞬間、扉の向こうで足音が止まった。


「お嬢様。お目覚めでしょうか?」


 若い女性の声だった。


 アヴリリスは反射的に姿勢を正した。


 声優としての習慣だった。収録中に誰かが入ってくると、役の状態を整える。アヴリリスなら、背筋を伸ばし、顎をわずかに引き、相手を見下ろすような目を作る。


 けれど今は、そんなことをしている場合ではない。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、薄茶色の髪を後ろでまとめた少女だった。年齢はアヴリリスより少し下に見える。両手で白いドレスを抱え、こちらを見るなり深く頭を下げた。


「おはようございます、お嬢様」


 彼女の顔を見て、アヴリリスはまた息を呑んだ。


 知っている。


 ゲームの設定資料集に載っていた、アヴリリス付きの侍女。立ち絵は一枚だけ。名前はセシル・ローズベル。序盤のイベントで、アヴリリスに紅茶を運ぶ役として登場する。


 ゲームでは、名前が表示されたことすらなかったはずだ。


「……セシル?」


 少女が顔を上げる。


「はい。どうかなさいましたか?」


 名前を呼んだだけなのに、彼女の瞳に驚きが浮かんだ。アヴリリスは、使用人の名前を呼ぶことなどほとんどなかったらしい。


 アヴリリスは慌てて口元を押さえた。


「いえ……なんでもないわ」


 自分で言って、違和感に背筋が凍る。


 自然にアヴリリスの声が出た。


 しかも、発声だけではない。声の高さ、語尾の落とし方、相手との距離感。十年間演じ続けた結果、身体のほうが役柄を理解している。


 セシルは、アヴリリスの顔をじっと見つめた。


「本当に、なんでもございませんか?」


「……ええ」


 答えてから、アヴリリスは気づいた。


 自分が今、アヴリリスとして振る舞っている。


 夢ではない。


 ここは、あのゲームの世界だ。


「本日のご予定を申し上げます」


 セシルは手にした紙を開いた。


「午前は家庭教師による帝国史の授業。昼食後は、旦那様とのお茶会がございます。夕刻には王宮より使者が参ります」


「王宮?」


 思わず声が裏返りそうになった。


「はい。来月から始まる王立学院の入学について、殿下からのお言葉をお持ちになるとのことです」


 来月。


 王立学院。


 聖女候補。


 アヴリリスの頭の中で、ゲームのオープニング映像が再生された。


 花びらが舞う王立学院。光に包まれて現れる主人公、ミレイア・フローレンス。彼女の隣に立つ第一王子ルシアン。少し離れた場所には聖騎士カイと宮廷魔術師ノア。


 そして、画面の端から現れるアヴリリス。


 主人公を見下ろし、こう言う。


 ――あなたのような平民が、殿下のお側に立つなんて。身の程を知りなさい。


 この台詞から、アヴリリスの破滅が始まる。


 ゲーム開始は、学院の入学式。


 そこから一年半後。アヴリリスは十八歳の誕生日に断罪される。


 アヴリリスは鏡の中の紅い瞳を見つめた。


「……あと、一年半」


 何もしなければ、私は断罪される。


 いや、正確には、アヴリリスが断罪される。


 爵位を剥奪されるルートもある。国外へ追放されるルートもある。魔力を封じられ、王都の地下牢に送られるルートも存在する。


 どのルートでも、幸せな結末はない。


 アヴリリスはこぶしを握った。


 怖い。


 当然だった。自分は昨日まで日本にいた。声優として働き、好きなものを食べ、スマートフォンを眺め、ベッドで眠った。それが一夜にして、見知らぬ世界の、破滅する少女になっている。


 けれど、恐怖と同時に、別の感情も湧いていた。


 アヴリリスを、もう一度死なせたくない。


 自分が演じた少女を、物語の都合だけで消費したくない。


「お嬢様……?」


 セシルの声で、アヴリリスは我に返った。


「ご気分が優れないのでしたら、医師をお呼びします」


「大丈夫よ」


 今度は、きちんとアヴリリスらしい声で答えた。


 それから、鏡に向かって微笑む。


 アヴリリスの微笑みは、上品で、冷たく、隙がない。


 アヴリリスが何度も練習した表情だ。


「私は、アヴリリス・ディア・アイデゴディア」


 自分に言い聞かせるように、ゆっくり告げる。


「破滅予定の悪役令嬢。けれど――」


 紅い瞳が、鏡の中で揺れた。


「台本どおりの破滅なんて、私は演じない」


 セシルは、黙って彼女を見ていた。


 アヴリリスは気づかなかった。


 鏡台のそばに置かれた黒い薔薇の蕾が、彼女の声に反応して、ほんの少しだけ開いたことに。


 そして、その蕾の中心から、かすかな声が漏れたことにも。


 ――本当に?


 アヴリリスが振り返ったとき、部屋にはもう、何もなかった。


 * * *


 着替えを終えたアヴリリスは、セシルに案内されて屋敷の食堂へ向かった。


 長い廊下の壁には、見覚えのある肖像画が並んでいる。アイデゴディア公爵家の歴代当主。全員が黒い衣装をまとい、紅い瞳をしていた。


 屋敷の中には、ゲームでは描かれなかった場所がいくつもある。


 厨房から漂う焼きたてのパンの匂い。階段の踊り場に置かれた古い時計。廊下の隅で、アヴリリスに気づくと慌てて頭を下げる使用人。


 画面の中では数秒で通り過ぎていた場所に、誰かの生活がある。


 それが不思議だった。


 食堂に入ると、長いテーブルの向こうに男性が座っていた。


 黒髪に混じる銀。鋭い紅い瞳。重厚な黒い衣装。アヴリリスの父、グレゴリウス・ディア・アイデゴディアだった。


 アヴリリスは、彼の声も知っている。


 ゲームでは、アヴリリスを断罪するイベントの直前に一度だけ登場する。娘を助けようともせず、ただ「公爵家の名を汚した」と告げる人物だ。


「遅かったな」


 グレゴリウスは時計を見た。


「申し訳ございません、お父様」


 アヴリリスが席につくと、彼はわずかに眉を動かした。


「今日は随分と静かだ」


「いつも静かではありませんか?」


「そういう意味ではない」


 父親の視線が、娘の顔を探るように動く。


「王立学院への入学が決まった。来月から、殿下と同じ学舎で学ぶことになる」


 知っている。


 けれど、実際に聞くと胃が重くなった。


「聖女候補も入学する。お前には、分かっているな」


「……はい」


「王国中が彼女に注目するだろう。だが、王太子殿下の婚約者はお前だ。アイデゴディア公爵家の娘として、相応の振る舞いをしろ」


 ゲームのアヴリリスなら、ここで鼻で笑う。


 ――当然ですわ。あのような娘に、殿下を渡すつもりはありませんもの。


 アヴリリスは、その台詞を知っている。


 言えば、ゲームの流れに戻る。


 父親は満足するだろう。アヴリリスらしいと判断するだろう。けれど、その一言が学院での最初のイベントを発生させる。


 ミレイアの前で、王太子の婚約者として彼女を辱めるイベント。


 アヴリリスは、ナイフを置いた。


「お父様」


「なんだ」


「私は、聖女候補の方と争うつもりはありません」


 食堂の空気が凍った。


 グレゴリウスの目が細くなる。


「今、何と言った?」


「聖女候補の方と、争うつもりはないと申し上げました」


「お前は殿下の婚約者だぞ」


「承知しています」


「ならば、なぜそのような弱気なことを言う」


 アヴリリスは、返事を考えた。


 ゲームの台詞にはない。


 アヴリリスとしてなら、どう答えるべきか。


 いや、違う。


 もう、台詞を探してはいけない。


「王太子殿下のお気持ちは、殿下ご自身がお決めになることです」


 グレゴリウスの指が、テーブルの上で止まった。


「……お前らしくないな」


 その言葉に、胸の奥がざわついた。


 お前らしくない。


 誰かに役柄を決められ、その役柄から外れた瞬間に責められる。アヴリリスは、転生したその日に、それを思い知らされた。


 グレゴリウスは、低い声で続けた。


「忘れるな。魔族の血を持つお前が、王都で生きていけるのは、公爵家と殿下の婚約があるからだ」


 アヴリリスの身体が、わずかに震えた。


 アヴリリスの意思ではない。


 身体の奥から、恐怖が湧き上がってくる。


 父親に逆らってはいけない。


 魔族の血を見せてはいけない。


 捨てられてはいけない。


 幼い頃のアヴリリスが、何度も何度も自分に言い聞かせていた言葉だった。


 紅い瞳の奥に、黒い光が走る。


 胸元の魔紋が熱くなった。


「お嬢様!」


 セシルが叫ぶ。


 次の瞬間、アヴリリスの口から声が漏れた。


 それは言葉ではなかった。


 低く、震える音。音そのものが空気を揺らし、食堂の窓ガラスが一斉に鳴った。


 テーブルの上の燭台が、青白い炎を上げる。


 グレゴリウスが立ち上がった。


「その魔力は……」


 アヴリリスは喉を押さえた。


 声が止まらない。


 自分の中に、知らない何かがいる。冷たく、深く、暗いもの。けれどその底には、泣き声のような感情があった。


 怖い。


 助けて。


 誰か、私を見て。


 アヴリリスは必死に息を吸い込んだ。


 声優としての訓練が、身体を動かした。


 腹に息を落とす。喉を開く。音を無理に押さえ込まず、流れを変える。


「――静かに」


 アヴリリスは、できるだけ穏やかに言った。


 今度の声は、アヴリリスのものではなかった。


 アヴリリス自身の声だった。


 青白い炎が消える。窓ガラスの震えも止まる。胸元の魔紋が、ゆっくりと黒く沈んでいった。


 食堂には、重い沈黙が残った。


 グレゴリウスは娘を見つめたまま、何も言わなかった。


 やがて、彼は椅子に座り直す。


「……部屋に戻れ」


「お父様」


「戻れと言った」


 アヴリリスは立ち上がった。


 膝が震えている。セシルに支えられながら食堂を出ると、扉が閉まる直前、父親の声が聞こえた。


「王宮の使者が来るまでに、あの力のことを調べる」


 嫌な予感がした。


 ゲームに、こんな場面はなかった。


 アヴリリスが魔力を暴走させるイベントも、父親が彼女の力を恐れる描写も存在しない。


 つまり、もう始まっている。


 アヴリリスが知っている『聖花のエデン』とは、別の物語が。


 部屋へ戻る途中、セシルは何度もアヴリリスの顔を見た。しかし、何かを尋ねようとはしなかった。


 扉を閉めると、アヴリリスはベッドの端に座り込んだ。


「お嬢様……」


「セシル」


「はい」


「私は、今までどんな人だった?」


 セシルはすぐには答えなかった。


 やがて、困ったように目を伏せる。


「……お答えしても、よろしいのでしょうか」


「ええ」


「気高い方でした」


「それは、褒めているの?」


「はい」


「本当に?」


 セシルは、少しだけ笑った。


「本当に、そう思っています」


 その笑顔は、ゲームの立ち絵にはなかった。


 アヴリリスは、胸の奥が痛くなるのを感じた。


 アヴリリスには、画面に映らない時間があった。台詞のない朝があり、イベントのない夜があり、名前を呼ばれることを待つ日々があった。


 自分は、その一部も知らなかった。


「セシル」


「はい」


「私、学院で……人を傷つけたりしていた?」


「まだ、ご入学前でございます」


「学院以外では?」


 セシルは再び黙った。


 その沈黙が答えだった。


 アヴリリスは目を閉じた。


 ゲームのアヴリリスは、主人公を何度も傷つける。けれど、この身体に残る記憶の断片には、別の光景もある。


 誰かに命じられて、使用人を叱ったこと。


 父親の前で、母親に冷たい言葉を投げたこと。


 助けてほしかったのに、助けてと言えず、周囲を遠ざけたこと。


 確かに、自分は被害者だけではない。


 アヴリリスは、鏡の前に立った。


 そこには、アヴリリスの顔がある。


「……簡単じゃないんだ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 ただ善人になれば、全てが解決するわけではない。アヴリリスの過去をなかったことにすることもできない。ゲームの知識を使って、上手に立ち回るだけでは足りない。


 この身体には、別の少女の人生がある。


 その人生を借りて、勝手に幸福になることなどできるのだろうか。


 ふと、鏡台の上に何かが置かれていることに気づいた。


 黒い薔薇の蕾だった。


 先ほどまでは、確かになかった。


 アヴリリスが近づくと、蕾の表面に淡い赤い光が浮かんだ。魔紋と同じ色だ。


 そして、耳元で声がした。


 ――私を、演じるの?


 アヴリリスは息を止めた。


「あなたは……誰?」


 鏡の中のアヴリリスが、ゆっくりと瞬きをする。


 けれど、アヴリリスの身体は動いていなかった。


 鏡の中の少女だけが、こちらを見つめていた。


 その紅い瞳には、アヴリリスが今まで演じたことのない表情が浮かんでいる。


 悲しみ。


 怒り。


 そして、諦めきれない願い。


 ――私の声で、話して。


 鏡の表面に、黒い亀裂が走った。


 アヴリリスは一歩後ずさる。


 亀裂は、薔薇の形に広がった。次の瞬間、部屋中の蝋燭が一斉に消える。


 暗闇の中で、扉が叩かれた。


「お嬢様。王宮からの使者が到着いたしました」


 セシルの声だった。


 アヴリリスは鏡を振り返る。


 そこには、いつもの自分が映っていた。


 銀白の髪。紅い瞳。冷たい顔。


 ただ、鏡の端に、赤い文字が浮かんでいる。


 ――第一イベントまで、残り三十日。


 アヴリリスは、唇を引き結んだ。


「……分かったわ」


 扉の向こうに届くよう、アヴリリスの声で答える。


「今、行きます」


 そして、小さく息を吸った。


 声を整えるためではない。


 自分の意志を、身体の奥まで届けるために。


「アヴリリス・ディア・アイデゴディア。ここから、人生をやり直します」


 扉を開く。


 その先に待っているのは、ゲームには存在しなかった王宮の使者と、台本にない未来だった。


 悪役令嬢の物語が、幕を開ける。

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