続 疑惑四、を検証したい
人目がないことを慎重に確認し、ジーンはスカートのポケットに手を入れた。
小さな手帳を開くと、小さな筆記具を動かす。
一、ユーリオ・リトナにはファンクラブがある。その規模は、一説にリトナの半数が加入しているともいう。
二、ユーリオ・リトナに対して男性陣からは弱冠のやっかみがある。
三、ユーリオ・リトナは、過去に孤児の引き取りのせいで異性と破綻している。そしてそれはリトナの街では広く知られており、同情的な見方が大半を占めているらしい。
そこまで書き付けて、ジーンはふうと息をついた。
「これでよし、と。さ、戻ろ」
神殿に戻れば人目もある。大事な情報を忘れないうちに書き留めて正解だったと思った…しかし、これは他方では失敗だった。
もとの店先から少し歩いただけのつもりが、もとの道に戻れなくなったのだ。
最初のうち、ジーンは大して不安に思わなかった。下町の道が入り組んでいるのは知っているし、一時だが似たような場所で暮らしていたこともある。
「まだ日はあるし。そのうち大きな通りに出るか、もし無理なら人に聞けばいいし」
それだけ呟いて、ぶらぶらと歩き続けた。
しかし、ジーンの思うよりも、この街の道は入り組んでいた。そして、漁師たちの夜は早かった。歩けど歩けど、民家の連なる路地に人は通らず、そのままやがて空の端が夜色に染まり始めた。
夕日が建物の陰に落ちてしまえば、路地は暗闇に包まれる。土地勘のないジーンが自力で帰ることはかなり難しくなるだろう。
夜風が吹き抜ける。
軽く汗をかいた背筋が、ひやりとした。
「見つけた」
ジーンは声に飛び上がった。振り向くと路地のかどに人影があった。
「…ユーリオ様」
亜麻色の髪が、夕日に照らされている。その顔は逆光で見えないが、何故かジーンにはユーリオだとはっきり分かった。
なんとなくばつが悪くて動くのをためらった彼女に、ユーリオの方が動いた。
ずんずん近づくと、彼はジーンの手首をやや乱暴につかんだ。
「帰るよ」
ジーンに否はない。
ただ、居心地悪く思って、小走りについていく。
街灯のない路地。目の前の背中は薄くしか見えない。
永遠に彷徨っていくかと思えた路地が唐突に大通りにぶつかった。
すると、ジーンの手が解放される。なんとなくそこを反対の手でさすりながら、歩き続ける。
乱暴につかまれたと思ったわりに、痛みはなかった。それよりは、肌に残った熱の記憶をごまかしたという方が近いかもしれない。
「なんで一人で街に行こうなんて思ったの?」
ユーリオは前を向いたまま行った。
「少し散歩に」
「へえ」
ユーリオの声はさらに低くなっている。
これはもうアレだ、とジーンはため息をついた。居心地の悪さは自責の念のせいでなく、ユーリオが不機嫌なのだと思わざるをえない。
頼んではいないが、探させたのも助かったのも事実。ジーンの手を握るユーリオの手のひらは汗ばんでいたし、髪は今もかなり乱れている。借りをつくっておくのは嫌なので、ここは白状することにした。
「…まあ、仕事の一環でもあるわ」
「ふーん」
相変わらずこちらを見ないままだが、地を這っていた声がわずかに土から離れたかと思えた。
「貴方のファンクラブの方と会ったわ」
「あぁ…」
無言でまた空気が重くなるよりはと、事実を口にすると、どこか疲れたような声が返ってきた。それが不快そうではなかったので、ジーンは言葉を重ねる。
「愛されてるのね」
「あー…で、何か分かったの?」
これには答えるわけにいかない。
「調査中ですので、お話できません」
「へえぇ?」
「これからまだ、誰が密告したのかも調べなければいけないし、そのためには周辺情報も収集しないと。全部終わるまで、適当なことは言えません」
今度は反応が返ってこなかったので、ジーンはそっとユーリオを伺った。答えられないと言ったから、また気を悪くしたのだろうか。
顔を覗いたが、あいにく暗くて表情は分からなかった。せっかく空気を軽くしようとしたのに、失敗してしまったようだ。ジーンは諦めて前を向くことにした。
そこから数十数えたくらいだろうか。坂の上に建物の影が見えた。
その向こうの海上の空には、まだわずかに残光がある。淡い夜色にわずかに橙を溶かしこんだ空に、尖った塔が浮かび上がる。
ジーンは、それが神殿だと気づいた。わずか一晩過ごしただけの建物だが懐かしさすらこみ上げる。
「やった、帰って…」
「それって、つまり俺のこと信じてるってこと?」
思わず上げた歓声を遮って、ユーリオが言った。
「は?」
ジーンは不躾にも聞き返してしまった。
「今、なんて?」
「だから、俺のこと信じてるってことだよねって言った」
「え。なんでそうなるの?私はただ調査中だって言ったんだけど」
「だって、査察の中身は知らないけど、俺を完全にクロだと思ってるなら、『誰が密告したのか』とか言わないしそもそも通報者を探さなくていいんじゃないの?」
にこにこと笑うユーリオの顔が正面から見える。藍色の目が楽しげに光る。
確かに、と納得しかけてしまいつつ、ジーンはぐっとあごをそらした。
「密告というのは、たんにこっそりと告発したという意味でしょう。通報者側も調べているのは、何事も両面から調べるのが、正しい査察というものだからです」
「まあ、そういうことでもいいよ、取りあえず」
取りあえずってなんだと、聞きたかったが、ジーンはやめておいた。なんとなくやぶ蛇になりそうな気がして。