35 羽化
手入れのされていない住宅の周囲は草木が生い茂り、半ば森に埋もれ始めていた。道はひび割れ穴が開き、枯れた雑草が伸びていた。
空からは相変わらず穏やかな日差しが注いでいる。時折飛んでくるクロオオバエを銃身で振り払いながら、目的地へ進む。
「あったぞ」
五百メートルほど進んだ場所に二階建ての鉄骨ビルがあった。入り口の看板は黒く変色し、何が書いてあるかわからなかったが、かつて公民館だったはずだ。
病気が発覚し始めたとき、収容しきれない病人をここに隔離して放置されたのだ。六十二人の〈蛹〉がいるという。
扉の鍵は調査隊によって破壊されていた。ガムテープの目張りを取り去り、ノブを引く。ぎいっと錆びた蝶番が音を立てた。
中は窓から光が漏れているものの、陰になった部分は何も見えない。
レポートによると、建物はすべて施錠されていて、室内には虫がいないのは確認されていた。ただ、何かの拍子で窓が割れて虫が進入していないとも限らない。私はヘッドランプを付け、銃を構えながら入っていった。
受付を通り抜け、階段を登る。二階に着いて会議室を確認し、一番手前にあるドアを開けた。
日差しが差し込む部屋に、大量の〈蛹〉が並んでいた。
すべてレベル五の段階で、顔、手足の特徴は消失している。褐色の表面は滑らかで光沢を放ち、葉巻型の楕円形をしていた。
多くは床に転がったままだが、布団の上に乗っているものもあった。壁に立てかけるようにして置いてあるのは、もたれかかっているうちに発病したのだろうか。
「早速始めましょう。サコタさんは公民館の入り口で、虫が来ないか見張ってくれ」
サコタは汚らわしいものでも見るような目で一瞥すると、何も言わず部屋から出て行った。
祐美恵はリュックを降ろし、白い防護服を取り出して着始めた。
「ぼさっとしてないで早くして。時間がないんだから」
「済まない」
慌てて私もリュックから防護服のセットを出した。最初にゴム手袋をはめ、ツナギの防護服を着る。ファスナーを閉め、フードとゴーグル、それに長靴も履いた。祐美恵はすでに着替え終えており、サーキュラー型の電動のこぎりをセットしていた。
「防護服は大丈夫?」
「ああ」
「あたしは準備できたから、始めるわよ」
祐美恵が一番近くにあった〈蛹〉に近づく。
「脊髄は一番下にあるのね」
「このくらいになると、他の組織はどろどろになっているから下に沈むんだ」
「わかったわ」
〈蛹〉にまたがる。電動のこぎりから無機質なモーター音が響き、丸鋸が回転し始めた。おもむろに刃を〈蛹〉の表面に当てる。バキバキと接触音が響き渡る。
「ちょっと待ってくれ」
祐美恵は怪訝な顔でのこぎりのスイッチを切った。「どうしたの」
「みんな……人間なんだ」かすれた声が出てくる。「〈蛹〉はこんな形をしていても、全員私たちと同じ人間だ。しかも、生物学上はまだ生きている。殻を切り、脊髄を取り出せば、死んでしまう」
蛹を見ているうち、押さえつけていた怯えが、大きく膨らんできた。
たとえ変わり果てた姿であっても、ここにいるは私と同じように普通の生活を営んできた人々だった。彼らを殺害し、体の一部を利用してもいいのだろうか。私たちに、そんな権利があるんだろうか。
「今更そんな話しないでよ。最初からわかってたでしょ」
あきれ顔で呟く。
「でも、〈蛹〉を見たとたん、急に怖くなっちゃって……」
彼女が勢いよく立ち上がり、私へ向かってきた。
怒りに震えた顔をしている。
「生物学上は知らないけどね、こいつらを利用しないと久斗も同じになっちゃうのよ。時間がないんだから、つべこべ言わずに早く始めてちょうだい」
再び〈蛹〉にまたがった祐美恵は、声を掛ける間も与えず、回転した刃を〈蛹〉の表面に押しつけた。
激しい音を立てながら刃が沈み、赤黒く、どろどろした体液が溢れ出てくる。
飛沫が顔にに飛び散る。
「見ればわかるでしょ。全然違う……。これは〈蛹〉よ……。人間であるはずがないわ」
〈蛹〉を見つめ、自分に言い聞かせるように呟いていた。
甲殻が四角形に切れた。のこぎりを置き、おもむろに手を突っ込み、中をまさぐった。二の腕まで入り込んでいく。
手を抜きだした。腕から指の先まで赤黒く汚れていた。体液がしたたり落ち、床を汚していく。
体液よりも更に黒く、濡れそぼったナマコのようなものを掴んでいた。
「とうとう手に入れたわ」
祐美恵は脊髄を見つめながら呟いた。怒りと喜び、そして狂気の入り交じった目が、ゴーグル越しにギラギラ輝いていた。
ああ……。
祐美恵は変わってしまった。
まるで幼虫から蛹を経て、蛾がグロテスクな羽を広げるように。
私は震え戦き、その姿を見つめるだけだった。
人間が一番怖いというオチであります。
お読みいただき、ありがとうございました。