いつか帰郷する日
春の気配が少しずつ混じり始めたとはいえ、山形県天童市の夜はまだ底冷えがする。石油ストーブの微かな燃焼音が、静かな居間に単調なリズムを刻んでいた。
春から千葉県内の大学へ進学することが決まっている千佳は、すでに一人暮らし用のアパートの契約も済ませ、引っ越しに向けた荷造りも大詰めを迎えていた。卒業を間近に控えたある晩のことだ。夕食の箸を置き、温かいほうじ茶の湯気を眺めながら、千佳は何気なく将来の話を口にした。
千佳の中には、漠然とした人生設計があった。大学を出たら、この住み慣れた天童へ戻ってきてもいいと思っているのだ。進学で一度は外に出るものの、最終的な居場所はここなのだと疑っていなかった。
「せっかく天童に生まれたんだし、大学を出たら戻ってきて家でも建てようかな。お父さんとお母さんも見なきゃいけないし」
それは、親を安心させようとする千佳なりの親愛の情であり、本当に軽い気持ちからの発言だった。地元に家を建てて親のそばで暮らす。それは地方の長女としてごく自然な選択だと思っていた。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、父の晴行と母の夏恵の反応がぴたりと止まった。
和やかだった食卓の空気が、ふっと途切れる。晴行は手元の湯呑みを見つめたまま、しばらく深い沈黙に沈んだ。ストーブの音だけがやけに大きく聞こえる。
やがて、晴行はゆっくりと顔を上げ、まっすぐに千佳の目を見据えて告げた。
「千佳。大切な話がある」
いつもより一段低い、ひどく真剣な響きだった。そこで初めて、千佳は両親が何か重大な話を抱えていたのだと悟った。
「お前は、卒業したら戻ってくるな」
その言葉の響きに、千佳は息を呑んだ。意味が分からない。親を気遣ったはずの言葉が、なぜそんな拒絶で返されるのか。混乱して言葉を失う娘に対し、晴行はまず、自分が天童という町を嫌っているわけではないことを明確にした。
「俺はこの町で幸せだった。仕事もあった。お前もここで育てられた。天童が悪い町だから出ろと言ってるんじゃない」
「じゃあ、なんで?」
「俺たちを理由に、お前の人生を狭くするな」
晴行の強い言葉のあとに、夏恵も静かに続ける。彼女の目は優しく、けれど芯のある光を帯びていた。
「お父さんはね、千佳に天童を捨てろって言ってるんじゃないの。千佳が選べる場所を、天童だけにするなって言ってるの」
それでも、千佳にはまだ納得ができなかった。地元を離れて都会の隅で小さなアパートに住み続けるより、地元に戻ったほうが豊かに暮らせるのではないかという思いがある。
「でも、地方なら広い家を建てられるじゃん。庭付きの家とか、都会より安いんでしょ?」
少しむきになって反論した千佳に対し、晴行は静かに首を振った。
「地方なら安い、って言うけどな。どこと比べてる?」
「東京とか」
「東京じゃない。お前がこれから住むところと比べろ」
晴行は、千佳が春から暮らす千葉県松戸市常盤平双葉町と、現在暮らしている天童市東本町を例に挙げた。どちらも駅や生活施設から大きく離れていない、利便性の高い住宅地である。
「天童市東本町が坪当たり約十八万。お前の住む常盤平双葉町も約十八万だ。もちろん時期や土地の条件で多少は変わるが、地方だから土地が安いとは言えないだろ」
ほとんど同じ坪単価の数字を突きつけられ、千佳は少し戸惑った。だが、すぐに別の考えが浮かぶ。
「でも、もっと郊外なら安いでしょ」
千佳の反論を、晴行は否定しなかった。
「安いところはある。主要駅から車で二、三十分離れたところまで行けばな。ロードサイドの住宅地とか、県庁所在地でも中心から離れた場所とかなら安くなる。だが、安くなった理由を考えろ」
晴行の言葉は、ただ数字を比較するだけでなく、その土地での日々の暮らしそのものを想像させていく。安い土地ほど、必然的に生活圏から離れる。駅、スーパー、病院、学校、職場までの距離が伸び、日々の移動における車への依存度が格段に高くなるのだ。
「土地だけ見て決めるな。駅から何分、スーパーまで何分、病院まで何分。車なしでどこまで行けるか。家を建てたあと、毎日どう暮らすかまで含めて比較しろ」
千佳は言葉に詰まった。確かに、土地の安さだけで不便な場所を選べば、日々の生活でその代償を払うことになる。だが、それでも食い下がる。
「でも、家そのものは地方の方が安いんじゃない?」
土地が同じ価格でも、建物を建てる費用は地方のほうが抑えられるはずだ。千佳のその問いに、建設資材メーカーで働いている晴行は、実感を込めて建物についての説明を始めた。
「家って、箱だけ買うんじゃないんだぞ」
建物本体の価格は、土地ほど単純に地域差が出るわけではない。資材費や人件費、施工条件などによって変動するため、地方だから建物が安いという図式は成り立たない。むしろ、天童のような積雪寒冷地では、住宅そのものに求められる仕様が増えるのだと晴行は語る。
「寒冷地なら分厚い断熱も必要だ。窓の仕様も違う。エアコンも給湯器も寒冷地仕様になる。配管だって、冬場の凍結を考えなきゃならない。雪が積もるなら屋根もカーポートも、積雪荷重を前提にした丈夫な構造にする必要がある」
次々と挙げられる専門的な設備の数々に、千佳は意外そうに聞いていた。それでも、それくらいなら大した差じゃないんじゃないかと甘く見積もろうとする千佳を見透かしたように、晴行は建築時の初期費用だけでなく、その後に続く現実的な維持費へと視野を広げさせた。
「建てて終わりじゃない」
その一言には、長く雪国で家を守ってきた者だけが持つ重みがあった。積雪による屋根や外壁の劣化。厳しい冷え込みによる凍結や、冬季の設備への負荷。雪による傷みが早ければ、修繕や塗装などの維持費にも大きく影響してくる。
「さらに毎冬の除雪がある。自分でやるなら毎朝の時間を削って雪かきをする。業者に頼めばその分の費用が飛んでいく。車を所有するなら、スタッドレスタイヤや冬用のワイパーなど、冬季の装備や管理も必要になる。土地が安いかどうかだけで家を買うな。建てる金、住む金、維持する金まで全部足して考えろ」
重くのしかかる現実的なコストの話に、千佳はここで初めて、地方なら家が安いという自分の中の常識そのものを疑い始めた。両親が守ってきたこの家も、そうした見えない苦労と費用のうえに成り立っているのだと思い知る。
さらに晴行は、家を建てるという行為について、もう一段深く話を広げた。
「それと、家を建てるなら災害も見ろ」
千佳は不思議そうに眉をひそめた。山形は比較的災害が少ないという勝手なイメージがあったからだ。
「天童だって地震はあるし、川もある。山形だから安全なんてことはない」
土地の価格や通勤時間といった目先の条件だけでなく、洪水、地震、土砂災害などのハザードマップをしっかりと確認し、その土地がどんな災害リスクを抱えているかを見極める必要があるのだと晴行は説く。
「家を買うってのは、住所を買うことだ。土地の値段だけ見て買うな。そこがどういう場所なのかを見ろ」
晴行が懸命に伝えようとしているのは、天童は危険だから出ていけということではない。どこに住むかを選べる立場にあるなら、土地そのものの条件を広い視野で比較しろということなのだ。
「天童だから安全。千葉だから危険。そんな単純な話じゃない。川の近くなのか、地盤はどうなのか、雪はどうなのか。場所ごとに違うんだ」
そして、晴行は真っ直ぐに千佳を見つめ返し、力強く告げた。
「住む場所を選べるってのは、こういうことだ」
その言葉が、千佳の胸の奥にすとんと落ちた。
「天童に住むか千葉に住むか、だけじゃない。天童のどこに住むか、千葉のどこに住むか。何を買って、何を我慢するか。そこまで全部、自分で選べるってことだ」
この段階にきても、千佳の心の中にはまだ、”でも私は天童に戻ってきてもいいと思う”という故郷への愛着が完全には消え去っていなかった。しかし、両親がこれほどまでに真剣な顔で問題にしているのが、天童が悪い町かどうかではないことが、彼女にも少しずつ分かり始めていた。
何も考えずに実家に戻り、ここに住むしかないと受け入れる人生と。
あらゆる可能性を比較した上で、ここに住むこともできると自ら選び取る人生。
晴行が、そして隣で静かに微笑む夏恵が、これから羽ばたこうとする娘に手渡そうとしているのはその違いだった。千佳は冷めかけたほうじ茶を一口飲み、両親が自分に開いてくれた選択肢という名の広い世界を、じっと見つめ直していた。




