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第40話「職人の楽園」

 クラウスはスクラップ原野に向かって歩き出していた。


 農園の確認は後回しだ。あの角張った輪郭が気になる。朝露に濡れた廃鉄板を踏み越え、半ば地面に沈んだ配管の上を渡る。錆びた換気ダクトの骨組みを迂回したあたりで、距離が詰まった。


 二百メートルほど先。朝日が低い角度で金属面を叩き、鈍い光沢を返している。周囲のスクラップ——腐食で丸みを帯びた残骸群とは明らかに違う、直線的な稜線。


 百メートル。脚部が見えた。四本脚の着陸構造。右前脚と右後脚が潰れて外側に折れ曲がり、機体全体が右に傾いている。地面にめり込んだ脚部の周囲に、着地時の衝撃で跳ね上がった砂利が扇状に散らばっていた。


 五十メートル。輪郭が確定した。


 円筒形の胴体、先端の耐熱カウル、後部の化学推進ノズル。上面に張り出したハンドレール。側面のハッチ——手動レバー式。電子ロックではなく、物理的なラッチ機構。


 クラウスの足が止まった。


 知っている形だった。


 二十メートルまで詰めると、もう間違えようがなかった。ハッチの右下、ラッチ受け金具の取り付け座面に、規格品にはない削り跡がある。元の金具が腐食で固着していたから、座面ごと削り直して新しい金具を嵌めた。あのとき使ったのは、廃棄された計器パネルから抜いた真鍮のブラケットだった。径が合わなかったから、旋盤ではなく手ヤスリで——。


「……これ、俺が直したやつだ」


 声が出ていた。駆け寄って、ハッチの縁に手を置いた。表面は夜露で冷たい。指先で金具の削り面をなぞると、ヤスリ目の方向まで覚えている。斜め四十五度、右上から左下へ。自分の癖だ。


 しゃがみ込んで機体の底面を覗いた。腹部パネルを留めているボルト——六角ではなく、十二角の特殊ヘッド。正規品の予備がなかったから、整備庫の奥で見つけた旧規格のボルトを首下だけ詰めて流用した。頭部の刻印が半分潰れているのも、あのときのままだ。


 立ち上がって、機体を一周した。右舷の推進剤配管に巻いた銅テープ。後部ノズルカバーの蝶番を交換した際に、元の穴位置と微妙にずれたために追加で開けたピン穴。どれも自分の手の記憶と一致する。


 旧式脱出ポッド。電子系統を一切持たない、純粋な機械式制御の単座カプセル。あの艦の格納庫の隅で、展示品として埃を被っていたやつだ。「博物館に送るにも値しない」と誰にも見向きされなかったそれを、空き時間に少しずつ直していた。動くようにする必要はなかった。ただ構造が面白かったから触っていた。化学推進の配管系統、手動の姿勢制御ジャイロ、圧力差だけで作動するハッチ——現代の技術者が設計図を見ても理解できないような、力学と素材知識だけで成立している機体だった。


 追放の日、私物は工具箱一つしか持ち出せなかった。このポッドがどうなったかは知らない。廃棄処分になったか、あるいは嫌がらせで一緒に投棄されたか。


 クラウスは傾いた機体の側面に手を当てて、首を傾げた。


「軌道上のデブリ帯にでも引っかかってたのか。この間やたら流れ星が多かったから、そのドサクサで落ちてきた……ってところか」


 辻褄は合う。ポッドには電子系統がない。軌道上を漂流していても、スクラップとの区別がつかない。何かの衝撃で軌道が変わり、大気圏に突入して——着陸脚は展開できたが、衝撃で右側が潰れた。そういうことだろう。


 ハッチのレバーを握り、押し下げた。ラッチが外れる感触が手首に伝わる。重い金属音とともにハッチが開いた。内部は埃っぽいが、致命的な損傷は見当たらない。座席のクッション材が経年で硬化しているくらいだ。計器パネルのアナログゲージ——気圧計、姿勢指示器、推進剤残量計——はどれも針が振り切れているか、ゼロを指している。


 クラウスは腰を屈め、操縦桿の根元を覗き込んだ。リンケージのロッドエンドに嵌めた自作のベアリングカップが、まだ回転軸に収まっている。指で回すと、固いが動く。グリスを入れ直せば復帰するだろう。


 口元が緩んでいた。


「よく帰ってきたな」


 右手でハッチの縁を叩いた。金属が硬質な音を返す。


「また手入れしてやるからな」


 クラウスはハッチを閉め、工房の方角に振り返った。距離は三百メートル弱。一人で運ぶには重いが、脚を畳めば地面を引きずって移動できる。問題は右脚の変形だ。接地面が歪んでいるから、引きずると地面に引っかかる。


「おい」


 声を上げた。工房の方角に向けて。


「聞こえるか。ちょっと手を貸してほしい」


 数秒の間があった。工房の方角から、地面を低く走る微振動が伝わってきた。農機具——クラウスがそう認識しているトラクターの排気音のような低周波が近づいてくる。


「何かありましたか、マスター」


 七号の声が、工房の通信パネル経由ではなく、近くのドローンのスピーカーから届いた。小型の作業ドローンが二機、スクラップ原野の上を滑るように飛んできて、ポッドの周囲で静止した。


「これを工房まで運びたい。脚が曲がってるから、底面を浮かせて引っ張れるか」


「確認します」


 ドローンが機体の下に潜り込み、底面をスキャンするように旋回した。


「脚部を格納位置まで折り畳めば、胴体底面のスキッドで滑走可能です。右前脚と右後脚の変形が障害ですが、根元のヒンジピンは生きています。変形部を避けて格納すれば——」


「いや、脚外しは俺がやる。ただ、先に機体を浮かせてくれ。脚を抜いた瞬間に落ちてくると困る」


「了解しました」


 二機のドローンが機体の上面に回り込み、ハンドレールの前後にワイヤーを通した。ドローンの推力が上がり、ワイヤーが張り詰める。機体がゆっくりと持ち上がった。潰れた右脚が地面から浮き、傾斜が水平に矯正される。砂利の上に脚部の接地痕だけが残った。


「高さはそのまま保ってくれ」


「保持します」


 クラウスは機体の下に入り、工具ベルトからスパナを抜いた。右前脚のヒンジピンに合わせ、固着したナットに力をかけた。錆が噛んでいる。端切れを巻いて握り直し、体重を乗せると、硬い手応えのあとにナットが回り始めた。脚を折り畳み、潰れた部分が胴体に干渉しないよう角度を調整して固定した。


 残りの三本も同じ手順で格納した。


「下ろしてくれ。ゆっくりだ」


 ドローンが推力を絞り、機体が静かに降下した。胴体底面のスキッドが砂利に接地し、水平のまま安定した。


「これで引けるだろ。ドローンで牽引できるか」


「可能です。ワイヤーを前部のアイボルトに接続します」


 ドローンが機体前部に回り込み、耐熱カウルの根元にある牽引用アイボルトにワイヤーを通した。二機のドローンがワイヤーを張り、ゆっくりと機体を引き始めた。スキッドが砂利の上を擦る音が、朝の静けさの中に長く尾を引いた。


 クラウスは機体の横を歩きながら、手で胴体の表面を撫でていた。外板のリベットの打ち方、パネルの継ぎ目の処理、排気口のバッフル板の角度——どこを触っても自分の仕事の痕跡がある。作業焼けした指先が、金属の凹凸をひとつずつ確かめるように滑っていく。


 工房の前に到着したとき、太陽は原野の東端を越えて高くなっていた。ドローンがワイヤーを外し、ポッドは工房の南側——トラクターの隣に据え置かれた。傾きのない平坦な地面に、スキッドがしっかりと接地している。


 クラウスは一歩下がって、ポッドの全体を眺めた。トラクターの無骨な外殻と、ポッドの傷だらけの金属面が並んでいる。どちらも新品にはほど遠い。どちらも、ちゃんと動く。


「……いいな」


 誰に言うでもなく呟いて、工房に入った。工具箱から防錆油と真鍮ブラシを取り出し、再び外に出た。ポッドのハッチ周りから、錆を落とし始めた。


   *


 午後になって、農園の確認をようやく済ませた。作物に異常はなかった。給水器は正常に作動しており、土壌の湿度も安定している。


 工房に戻ると、七号が報告を寄越した。


「マスター。プラント全域の環境ステータスを報告します」


「ああ」


「大気組成、地下水循環、土壌微生物活性——すべて正常範囲内です。また、外部からの通信波が過去四十八時間にわたりゼロを記録しています」


 クラウスは作業台に防錆油を置き、手を端切れで拭いた。


「通信波がゼロ? 前は時々ノイズみたいなのが入ってたろう」


「はい。以前は不定期に外部由来の電磁波が検出されていましたが、現在は完全に途絶しています。惑星周辺の航行トラフィックも消失しました」


「……ふうん」


 クラウスは工具掛けからラチェットを取り、ポッドのヒンジピンの予備を探し始めた。


「面倒な連中が近寄って来なくなったってことか。いいことだ」


「はい。当面、外部からの干渉はないものと判断します」


「当面っていうか、ずっとそうだと助かるんだがな」


 棚の奥から、サイズの近いピンを三本見つけた。一本は径が太い。旋盤で削れば使える。残りの二本はそのまま入りそうだ。


「あの脱出ポッドの脚、明日から直す。右前と右後の脚部フレームが座屈してるから、まずフレームを抜いて矯正するか、ダメなら新しく削り出すかだな」


「了解しました。必要な素材のリストを作成しますか」


「いや、現物を見ながら決める。図面のない機体だからな。寸法は全部、実測で拾う」


 クラウスはピンをポケットに入れ、再び外に出た。ポッドの傍にしゃがみ込み、変形した右前脚のフレームを両手で掴んで力を加えた。たわむが、戻らない。塑性変形している。削り出しだな、と判断して手を離した。


 新造するなら、まず元の断面形状を拾わなければならない。工房に戻り、工具箱からノギスを取り出した。再びポッドの脚元にしゃがみ込む。変形した右前脚は使えないが、左前脚は無傷だ。同一仕様のはずだから、こちらを基準にする。ノギスのジョーをフレームの断面に当て、長径を挟んだ。目盛りを読む——三十二ミリ。九十度回して短径。二十四ミリ。楕円に近い異形断面。数字をフレームの表面にケガキ針で直接刻んでおいた。紙がないから、現物が図面を兼ねる。


 夕方まで、ポッドの外板の錆落としと防錆処理を続けた。日が傾いて、作業の手を止めた頃には、ハッチ周りと前部カウルが鈍く光を取り戻していた。


   *


 数日が過ぎた。


 朝。簡易寝台から身体を起こし、作業着に袖を通す。工具ベルトを腰に巻き、工房の中央へ歩く。七号のアバターが、いつもの位置に立っていた。


「おはようございます、マスター。日次メンテナンスの時間です」


「ああ」


 右手を差し出した。七号が両手でそれを受け止め、掌を合わせた。


 以前は、この瞬間に妙な気まずさがあった。今は違う。手を出して、合わせて、数秒待つ。いつもと同じ感触。


 メンテナンスが終わった。七号が手を離す。その動作がほんの少しだけ遅くなっていることに、クラウスは気づいていない。


「朝食の準備が完了しています」


「サンクス」


 フードコンストラクターから受け取った朝食を、作業台の端で食べた。パンと、豆のスープと、焼いた根菜。味は毎回少しずつ違う。今朝のスープは、前より塩気が控えめだった。最近、自分の好みに寄ってきている気がする。


 食べ終えて、作業に入った。脱出ポッドの脚部フレームの新造だ。塑性変形した右前脚と右後脚——矯正は効かないと判断済みだから、インゴットから新しいフレーム材を削り出す。元のフレームから実測した断面形状を再現する必要がある。


 図面を引く紙がないから、床の平らな金属板の上にケガキ針で寸法線を刻んでいく。搬入した日に実測した脚部フレームの断面——楕円に近い異形断面、長径が三十二ミリ、短径が二十四ミリ。この形をインゴットの切り出し材から削り出す。先週切り出した軟鋼のブロックが、ちょうどいいサイズだ。


 作業に没頭していた。ケガキ線に沿ってブロックの外形を粗取りし、バイスに咥えてヤスリで断面を成形していく。金属粉が手の甲に積もる。ヤスリの歯が鋼を削る規則的な音だけが工房に満ちていた。


「マスター」


 七号の声で顔を上げた。


「月次メンテナンスの件です。前回の予定日を超過しています。日程の再設定が必要です」


 ヤスリを持つ手が、一瞬だけ止まった。


 月次メンテナンス。あの慌ただしい数日で、予定日をすっ飛ばしていたらしい。


「……ああ」


 返事をして、ヤスリの動きを再開した。削り面に目を戻す。


 以前なら、もう少し言葉が増えていた。今は、ただ「ああ」と応じた。


 クラウスはその思考をフレーム材の削り面に押し戻した。断面の曲率が元のフレームより少しきつい。修正する。


   *


 夕暮れ。


 工房の外に出た。一日の作業が終わり、汗を拭いた端切れをポケットに戻す。脱出ポッドの隣に腰を下ろした。トラクターの巨大な車輪に背を預ける形で、足を投げ出した。


 農園の作物が夕日に染まっている。低い光が葉の表面を横から照らし、輪郭に細い金色の線を引いていた。風力ベローズの羽根がゆっくりと回り、空気を工房の中へ送り込んでいる。スクラップ原野の稜線が逆光に沈み、空は東から藍色に変わり始めていた。


 静かだった。機械の動作音も、風の音も、遠い金属のきしみも——すべてがちょうどいい距離にある。


 隣に七号が立っていた。いつからいたのかは分からない。視界の端に、白い意匠が映っている。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 農園の向こうの空が、橙から赤紫へ変わっていく。雲の底が燃えるような色に染まり、地平線に近い空が透明な黄金色に溶けている。完璧な夕焼けだった。雲の配置も、光の角度も、色の階調も——まるで誰かが設計したかのように、破綻がない。


 クラウスは、その空を見上げたまま口を開いた。


「なあ、アイリス」


 自分の声に、一瞬だけ違和感があった。


 何が違うのか、すぐには分からなかった。ただ、口から出た言葉の響きが、いつもと少しだけ違った。いつもなら「おい」か「お前」か「七号」だ。そのどれでもなく、「なあ」と前置きして名前を呼んだのは——。


 アイリスが振り向いた。


「何ですか、マスター」


 夕日の赤い光が、アイリスの頬の残留する紅潮と区別がつかないくらいに、その顔を染めていた。


 クラウスは何か言おうとした。言葉が喉元まで来て、形にならないまま止まった。何を言いたかったのか、自分でも整理がつかない。「きれいだな」なのか「ありがとう」なのか「ずっとここにいろ」なのか。どれも違う気がしたし、どれも近い気がした。


 数秒の沈黙のあと、クラウスは視線を農園に戻した。


「……いや、何でもない。月次のメンテナンス、そろそろやらないとまずいだろう。明日でいいか」


 最初に提案された時は耳まで赤くなった。今は、そうでもない。そうでもないはずだ。


 アイリスの応答が、ごくわずかに遅れた。


 〇・二秒。機械の処理速度からすれば永遠に近い空白。人間の会話ではほとんど気づかない間。


「了解しました」


 その声の質が、いつもの報告と少し違ったことに、クラウスは気づかなかった。


 夕日がホログラムドームの向こう側に沈んでいく。空の色が赤紫から深い藍へ移り変わり、最後の光が農園の葉先から消えた。完璧に制御された、しかし美しい黄昏だった。


 クラウスは立ち上がり、膝の砂を払った。脱出ポッドの外板を、通りがけに一度だけ叩いた。


「明日、脚の削り出しにかかる」


 誰に言うでもなく呟いて、工房に入った。


   *


 就寝前。簡易寝台に横になり、毛布を引き上げた。天井の配管が薄暗い光の中で影を作っている。


「そういえば」


 目を閉じかけて、思い出したように声を出した。


「メジャーアップデートの後、何か変わったことはあるか」


 天井を向いたまま、訊いた。


「プラント全域の機能が正常化しました」


 アイリスの声が、工房の空気を通して届く。


「環境維持、防衛、資源管理——すべて最適な状態です」


「そうか」


 クラウスは毛布の中で肩の力を抜いた。


「じゃあ、もう無理はしなくていいんだな」


「はい」


「……よかった」


 目を閉じた。呼吸がゆっくりと深くなり、肩の上下の振幅が小さくなっていく。工房の機械が立てる低い振動だけが、規則的に空気を揺らしている。


 寝息が安定した。


 アイリスは、その音を六秒間計測した。入眠を確認した。


 工房の照明が、最低輝度まで落ちた。機器のインジケーターだけが、暗闇に小さな光の点を散らしている。


 静寂の中で、アイリスは口を開いた。


「……はい。もう、何も心配はいりません」


 声量は、寝息を妨げない閾値の範囲内。だが声の質は、システム報告のそれではなかった。


「あなたの平穏は、私が守ります」


 一拍。


「——これからも、ずっと」


 工房の外では、星が出ていた。ホログラムドームの向こう側の星ではない。ドームが映し出す、この惑星の空に本来あるべき星々だ。その光は、もう誰にも脅かされない。


 この日常が、もうずっと続く。

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― 新着の感想 ―
完結おめでとうございます。 物語としての起伏がもっとあったらいいと思いました。
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