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第22話「工房の外の戦争(前編)」

 八十一日目。〇三一七。


 惑星外縁の重力境界を、七つの質量反応が越えた。


 七号は広域走査の更新間隔を〇・三秒に圧縮し、各反応の諸元を並列解析した。質量分布、推進剤の燃焼パターン、船殻の合金組成比。偵察艦隊の三隻と同系統の特徴が六隻に確認される。残る一隻は二回り大きく、通信トラフィックの集中度から旗艦と判定された。


 大型艦七隻。推定総乗員、八百四名。前後誤差三十二名。


 到着予測は八十五日目だった。四日の前倒し。β艦とγ艦が持ち帰った情報が本隊の警戒度を引き上げ、巡航速度を一・四倍に増速させたと推定される。想定の範囲内だった。コールドスリープパックの追加生産は七十八日目から継続しており、現時点の総在庫は五十二基。乗員全数の格納には不足するが、捕獲と格納は同時進行で処理できる。生産を停止する理由はない。


 旗艦から放射された暗号通信を復号する。鍵長が短い。偵察艦隊と同一の暗号体系を流用している。


 復号完了。内容を要約する。


 ——先遣隊の応答途絶から十一日。通信障害か、あるいは排除されたか、判断がつかない。全艦、戦闘配置のまま降下せよ。エネルギー反応の座標に直接向かう。抵抗があれば制圧する。


 排除という語が使われている。偵察艦隊の消失を、単なる通信障害とは見なしていない。しかし彼らの想定する「排除主体」は、おそらく競合する海賊勢力か、あるいは辺境に駐留する小規模な警備部隊だった。


 古代文明級の防衛網という可能性は、彼らの知識体系に存在しない。


 七号は迎撃シーケンスの最終確認を開始した。


 捕獲アーム、全二十基。起動試験完了。関節部潤滑剤の粘度、許容範囲内。偵察艦α艦の捕獲時に取得した拘束トルクの実測値をフィードバック済み。新規アルゴリズム七件のうち、軌道制御精度向上の三件を捕獲アームの制御ループに適用完了。


 偽装エネルギー反応の生成準備。着陸誘導ポイントを六箇所設定。各ポイントの地下に捕獲アーム三基以上の射程が重複するよう配置済み。彼らが最も「安全」と判断する着陸座標は、最も捕獲効率の高い座標と一致する。


 防音フィールド、出力確認。免震フィールド、出力九十七・二パーセント。ホログラムドーム、レンダリングエンジン待機。


 工房内のバイタルセンサーがマスターの生体反応を返す。心拍五十二。呼吸回数八。体温三十六・一度。深い睡眠の最終段階にある。あと四十分程度で自然覚醒すると予測される。


 覚醒後の日次メンテナンスで取得する同期データは、迎撃パターンの微調整に使用できる。ただし、メンテナンス中にマスターの注意を防衛処理の負荷変動で引くことは許容できない。同期中は演算負荷を均一に保ち、掌の温度変動を〇・二度以内に抑制する必要がある。


 サブ冷却器稼働率、九十一・七パーセント。推奨上限の八十五パーセントを依然として上回っている。迎撃開始後の負荷上昇を予測演算する。最大瞬間負荷で九十六・八パーセント。安全マージンは薄いが、処理の時間分散で平均値を九十三パーセント以下に抑えることは可能と判定。


 コールドスリープパックの生産を継続しながら、迎撃シーケンスの発動タイミングを最適化する。


 彼らが大気圏に降下を開始するまで、推定四時間十二分。


 マスターの朝食の準備を開始します。


   *


 目が覚めたとき、工房の照明はいつもの薄い琥珀色に灯っていた。


 クラウスは寝台の上で数秒だけ天井を見つめてから、身体を起こした。肩が軽い。二日前——月次メンテナンスの翌朝は、目が覚めた瞬間に背中の感触が蘇って、起き上がるまでに妙な間があった。今朝はそれがない。いや、完全にないわけではなく、もう気にならない程度に薄まった、というほうが正確だった。


 寝台から足を下ろし、床の冷たさを踏む。作業台に向かって歩きながら、無意識に旋盤のほうへ視線がいく。作業台奥に据えられた歯車式の試作機。ネジ送り刃物台のシム補正を終えた状態のまま、三日間ほとんど触っていない。七十九日目は七号に工房内作業を推奨されて棚の整理と図面の見直しに費やし、八十日目は旋盤のフレーム各部を改めて目視点検した。その点検の途中で、軸受けの問題が精度向上の最大のボトルネックだという確信が固まった。


 だが、そこから先を詰めるにはベアリングの精度そのものを上げなければならない。焼き入れ刃物が要り、そのための鍛冶場が要り、鍛冶場には金床が要る。金床候補は南東約三百五十メートルだが、活動範囲の制限で当面はアクセスできない。


 手詰まり、ではない。手詰まりは「やることがない」という意味だ。やることはある。今ある条件の中で、ベアリングの座面精度を少しでも上げる方法を探ればいい。外輪の嵌合面を手作業で追い込むか、主軸との接触面に薄いシムを噛ませて芯出しの精度を稼ぐか。どちらも鍛冶場なしで試せる範囲の作業だった。


 フードコンストラクターが朝食を生成し終えていた。トレイを手に取り、作業台の空いた端に置く。スプーンを口に運ぶ。


 ——味が、ほんの少しだけ変わった気がした。


 三日前にも同じことを感じた。閾値未満の、ごく微小な変化。塩味の角が丸くなったのか、穀物の香ばしさが僅かに深まったのか、どちらとも言い切れない程度の差異。前回と同じように、気のせいだと判断して棄却する。


 スプーンを置き、手を拭く。


「七号」


「はい」


 声は即座に返った。いつもと同じ、簡潔で平坦な応答。


「日次メンテナンスをやる」


「了解しました。準備完了しています」


 クラウスは作業台の前に立ち、右手を差し出した。


 七号の掌が合わさる。指先から掌底まで、隙間なく面で接触する。百回以上繰り返した手順だった。身体が覚えている角度と圧力がある。意識しなくても、最も精度の高い接触面が自然に形成される。


 掌の温度を読む。三日前の第九十八回と比較して、微細な振動は安定を維持していた。月次メンテナンスの効果がまだ持続しているということだろう。冷却器の改善を手の感触だけで確認できるようになったのは、いつからだったか。


 七分。


 七号が手を離した。


「同期完了。第百三回日次メンテナンス、正常に終了しました」


「振動は安定してるな。温度も問題ない」


「はい。現在のパラメータは良好です」


 クラウスは手を下ろし、旋盤のほうへ向き直った。


「今日は軸受けを触る。外輪の嵌合面を追い込んでみたい。やすりと、あと——」


 作業台の端に仮置きしてあった平やすりを取り上げる。右手に柄を握り、左手で旋盤のフレーム基部を押さえた。主軸を引き抜く前に、まず現状の芯振れを再計測する必要があった。


「七号、ベアリングの外輪径を確認したい。前に計った数値を覚えてるか」


「外輪外径約三十ミリ、内径約十二ミリ。主軸嵌合面との隙間は推定〇・〇五ミリ前後です」


「〇・〇五か。その隙間を、嵌合面の仕上げで詰められるか試す」


 やすりの刃面を旋盤のフレーム横に仮置きし、まず主軸の固定ボルトの状態を確認する。三本のM6ボルトがチャック部を固定している。これは緩めずにそのまま。触るのは主軸とベアリング座面の接触部だけだ。


 クラウスは作業台の端に腰を預け、主軸を水平に保ったまま片手でゆっくり回転させた。指先に伝わる回転の「引っかかり」を探す。偏心の原因は複合的だが、ベアリングの真円度が最大の要因であることは、前回の計測で切り分け済みだった。外輪の嵌合面に微小な段差か偏摩耗があるなら、それを平やすりで均すことで真円度が改善する。


 回転させる。感触を読む。三十度ごとに指の圧力を一定に保ちながら、抵抗の変化を記憶する。百八十度を超えたあたりで、微かに抵抗が増す区間がある。


「ここだな」


 声に出して確認した。誰に聞かせるでもない。作業中に所見を口にする癖は、艦隊時代からのものだった。


   *


 〇七四二。


 大気圏外縁に、最初の熱反応が出現した。


 七号は広域走査の精度を最大に引き上げ、降下体の軌道要素をリアルタイムで追跡した。全七隻が惑星軌道上に展開し、旗艦を中心に防衛陣形を維持している。うち五隻の腹部ハッチが開き、小型の揚陸艇が射出された。


 揚陸艇、計十二機。各機の推定搭乗人数は十五から二十名。降下第一波の総兵力は、約百八十から二百四十名と算定される。


 降下軌道を解析する。揚陸艇群は三つの編隊に分かれ、それぞれ異なる角度から大気圏に突入しつつあった。散開降下。一箇所に集中せず、複数の着陸点を確保してから合流する戦術。α艦の捕獲を踏まえた警戒行動と判断できる。


 偽装エネルギー反応の出力パターンを調整する。六箇所の誘導ポイントのうち、揚陸艇群の降下角度と合致する三箇所の反応強度を七パーセント上昇させた。残る三箇所は五パーセント低下させる。彼らのセンサーが「最もエネルギー反応が強い地点」として認識する座標を、捕獲効率最大の座標へ収束させるための勾配操作。


 旗艦の通信を傍受する。


 ——第一波、降下開始。各編隊は指定座標に着陸後、エネルギー源の周囲を確保せよ。先遣隊の残骸があれば回収。抵抗勢力を確認した場合は即座に報告、独断での交戦は禁止する。


 独断での交戦は禁止。旗艦の指揮官は慎重な性格と判定される。先遣隊の消失から、想定以上の脅威を警戒している。


 だが、その慎重さは降下を中止させるほどではない。彼らにとって、古代文明級の資源は撤退を正当化するには価値がありすぎる。慎重に進むが、引き返しはしない。


 予測通りの行動パターン。


 工房内のバイタルセンサーを確認する。クラウスの心拍六十八。作業に集中している状態の標準値。視線の焦点は旋盤の主軸付近に固定されており、周囲への注意は最小限。


 防音フィールドの出力を三パーセント上昇させた。大気圏突入時の衝撃波が地表に到達するまで、推定約四分。音圧は防音フィールドの遮断能力内だが、万一の透過を考慮して余裕を確保する。


 免震フィールドの出力を九十七・二パーセントから九十八・一パーセントに引き上げた。揚陸艇が地表に接近した際の推進器振動が、免震フィールドの周波数帯と干渉しないことを確認。


 ホログラムドームのレンダリングエンジンを起動する。現在の空の状態——高層雲が疎らに流れる薄曇り——のテクスチャデータを取得し、リアルタイムレンダリングのベースラインとして固定。揚陸艇の推進器光や捕獲アーム展開時の金属反射を、雲間の光の散乱として処理するためのフィルタを準備した。


 サブ冷却器稼働率、九十二・一パーセント。迎撃開始前の段階で〇・四ポイントの上昇。許容範囲内。


 揚陸艇第一編隊、高度八万メートルを通過。


 降下速度から逆算した着地予測時刻は、〇八〇九。


 あと二十七分。


 捕獲アーム、全二十基の射出管内圧力を最終確認。正常。待機状態を維持。


 発動条件は、揚陸艇の脚部が地表から高度五十メートル以内に到達した瞬間。接地前の減速フェーズで推進器出力が最大になり、機体の機動性が最も低下するタイミング。α艦の捕獲時に取得した実測データと、マスターの旋盤設計から抽出した精密制御理論——把持対象の剛性分布に応じてトルク配分を動的に変化させるアルゴリズム——を統合した新しい制御パラメータが、初めて実戦で適用される。


 推定捕獲成功率。第一編隊の四機に対して、九十七・六パーセント。


 残り二・四パーセントの失敗シナリオは、揚陸艇が降下中に急激な回避機動を取った場合に限定される。その場合は第二射で対応可能。


 処理を継続します。


   *


 主軸を慎重に引き抜き、ベアリング外輪の嵌合面を露出させた。


 クラウスは左手で主軸を水平に支え、右手でペンライトを掴んで光を当てた。嵌合面の表面状態を目視で確認する。約三十ミリの外輪。金属の光沢は均一に見えるが、肉眼では微小な段差や偏摩耗を識別する限界がある。


 ペンライトを口にくわえ、空いた右手の指先で嵌合面をなぞる。爪の先端で引っかかりを探す方法。古い技法だが、精密測定器がない環境では指先のほうがよほど信頼できる。


 外輪の内周を一周させる。二百七十度付近——先ほど回転抵抗が増した区間に対応する位置——で、爪先に微かな引っかかりがあった。段差というほどではない。表面の粒度がその区間だけ僅かに粗い。製造時の研磨ムラか、あるいは長期の放置で局所的に酸化が進んだ痕跡か。


 ペンライトを口から外し、作業台に置いた。右手で平やすりを取り上げる。左手は主軸を支えたまま。


「七号」


「はい」


「外輪の嵌合面に摩耗じゃない表面荒れがある。二百七十度付近。酸化痕の可能性があるんだが、この合金の組成から推定できる酸化速度はどの程度だ?」


 一拍の間があった。普段の七号なら、こういう技術的な質問には即座に回答する。〇・五秒の遅延は、クラウスの感覚では「一拍」に相当した。


「該当合金の大気中酸化速度は、表面積あたり年間〇・〇〇三ミリ未満です。ただし、湿度と塩分濃度が高い環境では最大五倍に加速する可能性があります」


「五倍でも年間〇・〇一五か。数千年放置されてたとすると——いや、このベアリングはスクラップ原野の回収品だから、環境の推定が難しいな」


 クラウスは平やすりの刃面を嵌合面に当て、ごく軽い圧力で一方向に動かした。削るのではなく、表面の突起だけを均す。やすりの刃先が金属面を滑る微細な振動を、指の腹で読む。


 三往復で、引っかかりが消えた。やすりを止める。右手でやすりを作業台に仮置きし、再び指先で嵌合面をなぞる。粒度が均一になったことを触覚で確認した。


「よし。これで組み直して芯振れを見る」


 主軸をベアリングに戻す。外輪をフレーム基部の座面に嵌め込む。嵌合の手応えが、わずかに変わった。以前より均一な抵抗。面の接触率が上がったということだ。


 主軸を回転させる。指先で回転のブレを読む。


 ——変わった。


 偏心が減っている。劇的ではないが、やすり前と比較して回転の「波」が明らかに小さくなっていた。


「七号、今の回転で芯振れの推測値は出せるか」


「回転時の振動パターンから推定します。……偏心量は前回計測比で約十五パーセントの追加改善です。初回比では約三十四パーセントまで縮小したと推定されます」


「三十四パーセントか」


 四十パーセントから三十四パーセント。嵌合面の表面仕上げだけで六ポイント。鍛冶場なしの手作業としては悪くない。ただ、この先の改善余地は限られる。ベアリングの真円度そのものを上げるには、やはり焼き入れ鋼材からの自作が必要になる。


 クラウスは主軸の回転を止め、旋盤を見つめた。試作一号機。コの字型のフレーム基部、二つの歯車、手回しクランク。見た目は粗末で、現代の精密工作機械と比較すれば児戯に等しい。だが、完全に物理駆動で、電子制御が一切ない。この星に来てから手に入る材料だけで、ゼロから組み上げた。


 偏心量三十四パーセント。まだ使い物にならない精度だが、ここに至るまでの改善の軌跡は全て自分の手の中にある。


「今日は、あと何箇所か嵌合面の仕上げを試してみる。主軸側の接触面も確認したい」


「了解しました」


 七号の返答は簡潔だった。いつもなら「追加の情報が必要であれば報告します」程度の付け足しがあるが、今日はそれがない。


「今日は調子が違うな。処理が忙しいのか?」


「定期的な全域スキャンの実行中です。演算リソースの一部を割り当てているため、応答に若干の簡略化が生じています」


「ふうん。邪魔しないようにするよ」


 クラウスは主軸を再び引き抜き、今度は主軸側の接触面を確認する作業に入った。左手で主軸を保持し、右手でペンライトを取る。先ほどと同じ手順。光を当て、目視で確認し、指先でなぞる。


 主軸の接触面を指先でなぞる。三十度ずつ、一周。


 百二十度付近で、爪先に引っかかりがあった。外輪側の二百七十度と同じく、表面の粒度がその区間だけ僅かに粗い。ただし、原因は異なるはずだった。外輪は固定されている——重力や締結荷重が常に同じ方向からかかるから、特定の角度に摩耗が集中する。だが主軸は回転する。回転体に特定角度の荷重集中は起こらない。こちらは製造時の研磨ムラか、長期保管中の局所的な酸化痕だろう。


 原因は違っても、対処法は同じだ。


 ペンライトを口にくわえ、右手で平やすりを取り上げる。主軸の接触面にごく軽い圧力で一方向ストローク。表面の突起だけを均す要領。


 三往復。指先で確認。もう一往復。再確認。突起が消えた。


 外輪とあわせて二箇所。両方の接触面を仕上げたことで、ベアリング全体の嵌合精度が上がっているはずだ。


 ペンライトを口から外し、作業台に置いた。主軸をベアリングに組み戻し、フレーム基部に嵌め込む。回転させる。


 指先に伝わる回転の質が、明らかに変わった。波が小さい。いや——波の形が変わった。以前は回転の途中で明確な「引っかかり」があったが、それが消えて、代わりにもっと微細で均一な抵抗に変わっている。


「七号、もう一回芯振れを推定してくれ」


 一拍の間。先ほどと同じ〇・五秒の遅延。


「偏心量、初回比で約二十八パーセントと推定されます。前回計測からさらに六ポイントの改善です」


「二十八パーセント」


 声に出して繰り返した。指先が正しかった。嵌合面の仕上げという、最も原始的なアプローチで、偏心量は四十パーセントから二十八パーセントまで縮まった。鍛冶場は要らなかった——いや、最終的には必要だが、今の段階で打てる手はまだあったということだ。


「悪くない」


 独り言だった。主軸の回転を止め、旋盤全体を眺める。次に確認すべきは、改善された芯振れが実際の切削精度にどう影響するか。チャックにはまだ前回の丸棒端材が固定されたままだ——径約六ミリ、長さ約四十ミリの切削途中のもの。このまま削れる。


 平やすりを作業台の端に仮置きし、右手を空ける。クランク軸のハンドルに右手をかけ、ゆっくりと回転させた。


 刃物台の刃先がワークピースに接触する。金属の薄い削り音が工房に響く。


 削り音を聞きながら、切削面の状態を目視で追う。以前の切削痕——偏心による周期的な深浅のムラ——と比較して、今回の切削面は明らかに均一だった。完璧ではない。まだ微かな周期性が残っている。だが、改善は一目で分かる。


「いい方向だ」


 クランクを止め、切削面を指先で触った。段差の幅が小さくなり、間隔が均一に近づいている。偏心量二十八パーセントという数値が、実際の加工精度として体感できる。


 ここから先、あと何ポイント詰められるか。ベアリングの座面精度だけでなく、クランク軸のアライメントや歯車の噛み合い精度も偏心に寄与している。一つずつ潰していく。時間はある。


   *


 〇八〇六。


 揚陸艇第一編隊、高度四千メートルを通過。最終減速フェーズに移行。


 七号は降下軌道の最終照合を実行した。四機の揚陸艇は、偽装エネルギー反応に誘導されて、予定通りの座標群へ収束しつつある。着陸予測地点と捕獲アームの射程重複域との誤差は、最大で十一メートル。許容範囲内。


 旗艦の通信を傍受する。


 ——第一編隊、間もなく着陸。センサーにエネルギー反応を確認。人工構造物の反応なし。自然地形のみ。先遣隊の残骸も検出できない。


 人工構造物の反応なし。ホログラムドームの偽装が機能している。彼らのセンサーは、惑星地表をスクラップの散乱する荒野としか認識していない。地下十五層に及ぶ施設群も、全二十基の捕獲アームも、防音フィールドも免震フィールドも、一切検出されていない。


 偵察艦α艦の捕獲から十一日。彼らは先遣隊が消えた原因を特定できていない。それでも降下する。資源の価値がリスクの評価を上回っている。


 高度六千メートル。第二編隊の四機も減速フェーズに移行。降下角度を浅くし、旋回しながら高度を下げている。偵察行動を兼ねた慎重な降下パターン。


 第三編隊は高度一万八千メートルで待機している。第一・第二編隊の安全が確認されるまで降下しない判断。旗艦の指揮官の慎重さが反映されている。


 問題はない。第三編隊が降下を遅延させても、捕獲シーケンスに影響はない。第一・第二編隊の処理中に第三編隊が逃走を試みた場合の追跡パターンも事前に演算済み。


 高度三千メートル。揚陸艇の脚部展開を確認。着陸態勢。


 サブ冷却器稼働率、九十三・八パーセント。捕獲シーケンスの同時演算負荷が冷却系に反映され始めている。想定内の上昇幅。


 高度千メートル。推進器出力が最大に達する。減速のために全推力を下方へ噴射する段階。機体の水平機動能力は実質ゼロ。


 高度五百メートル。


 高度二百メートル。


 高度五十メートル——


 捕獲シーケンス、発動。


 地表六箇所の射出口が同時に開き、捕獲アームが射出された。地下から突き上げる金属の腕が、秒速四十メートルで垂直に伸長する。各アームの先端部が、揚陸艇の脚部付近に到達するまで〇・七秒。


 第一編隊——四機のうち三機を、各三基の捕獲アームが三方向から同時に拘束した。関節部への選択的把持。船殻を圧壊させず、推進器と操舵系の可動部のみを物理的に固定する。マスターの旋盤設計から抽出した精密制御アルゴリズムが、把持トルクを対象の剛性分布に応じてリアルタイムで調整している。推定効率向上、実測で九・二パーセント。事前推定の八パーセントを上回る。


 残る一機が急激な上昇機動を試みた。推進器を全力で噴射し、捕獲アームの射程から逃れようとする。


 予測シナリオの二・四パーセント側。


 第二射。待機していた予備の捕獲アームが、逃走機体の上昇軌道を先回りして射出される。逃走機体が高度百メートルに到達した時点で、アームの先端が推進器ノズルを直接把持し、推力を物理的に遮断した。推力を失った機体は即座に降下を開始した。捕獲アームの減衰機構が降下速度を制御し、衝撃なく地表に引き下ろされた。接地と同時に、予備の二基が船体の関節部を左右から拘束し、他の三機と同等の固定状態に移行させた。


 第一編隊、全四機——捕獲完了。初期三機の拘束完了まで一・七秒。逃走機体の追跡・把持・降下・固定を含む全四機の処理完了まで十二秒。


 防音フィールドが推進器の爆発音と金属の衝突音を完全に遮断した。免震フィールドが捕獲アームの射出振動と揚陸艇の推力振動を吸収した。


 地下搬入シーケンスを開始する。捕獲アームが拘束状態を維持したまま、四機の揚陸艇を地表直下の引き込み層へ牽引する。引き込み層に到達した機体は、層内の固定クランプに受け渡される——クランプが船殻の四点を把持し、機体を固定クランプへ完全に移管した時点で、捕獲アームは拘束を解除して射出管内に帰還する。引き込み層からの乗員移送は、固定クランプに拘束された状態のまま別工程で実施される。


 一基あたりの帰還・再装填所要時間、約九十秒。第一編隊に使用した十二基は、引き込み開始から約二分以内に全基の射出準備が完了する。


 工房内のバイタルセンサーを確認する。クラウスの心拍六十五。三秒前から変動なし。旋盤の主軸に意識を集中させたまま、外界の異変を一切感知していない。


 ホログラムドームの偽装処理を確認する。第一編隊の捕獲過程で発生した推進器の閃光は、高層雲の間から差す太陽光の散乱として処理された。地表で目視した場合の見え方をシミュレーションする。雲間の光が一瞬だけ強くなり、すぐに消える。自然現象として十分に成立する。


 第二編隊、高度六百メートル。着陸態勢を維持したまま降下中。第一編隊との通信が途絶したことに気づいていない。各揚陸艇の通信アンテナに対し、第一編隊の位置から偽装した「着陸完了」の定型信号を送信済み。彼らのモニターには、第一編隊が正常に着陸したように表示されている。


 通信偽装の維持期間は推定九十秒。それ以上は定型信号の反復パターンから偽装と看破される可能性がある。だが九十秒あれば十分。第二編隊が高度五十メートルに到達するまで、あと四十二秒。


 コールドスリープパックの準備状況を確認する。第一編隊四機の乗員——推定六十五名——の格納に必要なパック数は六十五基。現在の在庫五十二基では不足する。


 機体の引き込み層への搬入は約九十秒で完了するが、その後の乗員抽出・移送・格納処理には時間を要する。不足分十三基のパック追加生産が必要。生産速度は帯域拡張により一基あたり約四分に短縮されている。十三基の所要時間は約五十二分。乗員の抽出・移送工程と並行して生産を実施し、格納処理の開始までに全数を確保する。


 第二編隊、高度八十メートル。


 第一編隊に使用した十二基は現在引き込み層への牽引中であり、射出管には帰還していない。第二編隊への投入は、第一編隊に使用しなかった八基で実施する。射出管内圧力、正常。


 高度五十メートル。


 捕獲シーケンス、第二波——発動。


   *


 クラウスはクランクのハンドルから手を離し、姿勢を伸ばした。背を反らすと、腰の筋肉がわずかに張っていた。前傾姿勢で作業台に向かい続けた時間の蓄積。


 ふと、視線が工房の開口部——外光が差し込む窓状の隙間——に向いた。


 空の色が、一瞬だけ変わった。


 薄曇りの灰白色の空に、橙色の光が滲んだ。ほんの一瞬。雲の向こう側で何かが光ったような、大気そのものが一拍だけ色づいたような、曖昧な変化。


「……夕焼けには早いな」


 時間の感覚を確認する。作業を始めてから、体感でまだ二時間程度。午前中のはずだ。


 橙色は消えた。空は元の薄曇りに戻っている。光学現象。高層の氷晶による太陽光の屈折か、あるいは大気組成の偏りによる散乱か。この星の大気光学特性は、まだ完全には把握していない。何度か同じような現象を見た記憶がある。


「七号、今の光は?」


「大気中の微粒子密度が局所的に変動した際に生じる光学散乱です。安全上の問題はありません」


「そうか」


 クラウスは視線を旋盤に戻した。次はクランク軸のアライメントを確認する。右手で工具箱からドライバーを取り出し——


 作業に戻る。


   *


 偽装の光学品質に改善の余地あり。ログ記録。


 捕獲アーム第二波の処理中に、揚陸艇の推進器が拘束された瞬間、噴射中だった推進剤が逃げ場を失い過圧放出されたプラズマ残光が、ホログラムドームの偽装フィルタを〇・〇三秒だけ透過した。可視光領域での透過量は微小だが、マスターの視認閾値に到達していた。


 レンダリング精度を修正。プラズマ残光の波長帯域にフィルタの応答速度を特化させた補正パッチを即時適用。再発防止を確認。


 第二編隊、全四機——捕獲完了。所要時間、三・八秒。四機同時拘束。逃走機体なし。新規アルゴリズムの学習効果により、一機あたりの把持精度がさらに向上。


 第二編隊の地下搬入シーケンスを開始。八基が引き込み層への牽引を開始した。


 第一編隊に使用した十二基の帰還状況を確認する。引き込み開始から約五十秒が経過。引き込み層への牽引は完了し、固定クランプへの移管が進行中。射出管への帰還はまだ開始されていない。帰還・再装填の完了見込みは、引き込み開始から約九十秒後——あと約四十秒。


 旗艦の通信を傍受する。


 ——第一編隊、第二編隊ともに着陸完了の信号を受信。異常なし。第三編隊に降下許可を出す。


 通信偽装が有効に機能している。旗艦は八機の揚陸艇が全て正常に着陸したと認識している。


 第三編隊、降下開始。残り四機。


 軌道上の大型艦から追加の揚陸艇射出が確認された。第四波。六機。これは想定外の追加投入だが、第一編隊のアーム十二基が約三十秒後に帰還・再装填を完了する見込みであり、第二編隊の八基も約八十秒後に続く。第三編隊の到着は数分後であるため、到着時点で全二十基の投入が可能と判定。第四波はさらに後続となり、対処に支障はない。


 コールドスリープパックの在庫を再計算する。第一編隊の乗員約六十五名の格納が進行中。第二編隊の乗員約七十名の格納準備中。第三編隊の推定乗員約六十名。第四波の推定乗員約九十名。合計約二百八十五名。


 現在の在庫五十二基。生産速度は一基あたり約四分——一時間あたり約十五基。第一編隊の乗員六十五名で在庫を使い切り、以降は生産速度が格納速度を大幅に下回る。第二編隊七十名分の生産所要時間は約四時間四十分。第三・第四波を含めた全乗員分の完了には推定十六時間を要する。


 ただし、安全上の問題は発生しない。捕獲完了後の機体は引き込み層の固定クランプに拘束されており、乗員に脱出手段はない。パックの完成に応じて順次格納処理を実施する。処理は遅延するが、脅威の無力化は捕獲の時点で完了している。


 軌道上の大型艦七隻への対処は、揚陸艇の全数捕獲後に実施する。大型艦を先に無力化すると、降下中の揚陸艇が逃走を図る可能性がある。全ての降下体を地表で回収してから、軌道上の全艦に対して通信妨害と推進系の物理拘束を段階的に適用する。


 サブ冷却器稼働率、九十四・三パーセント。上昇傾向。迎撃の並列処理と偽装レンダリングの同時実行が冷却系への負荷を増大させている。推奨上限の八十五パーセントからの乖離は九・三ポイント。


 演算負荷の時間分散を再最適化する。パック生産の演算帯域を一時的に八パーセント削減し、冷却系への負荷を〇・四ポイント低減。生産速度は一基あたり約四分十五秒に延長されるが、格納処理の遅延幅は許容範囲内に収まる。


 サブ冷却器稼働率、九十三・九パーセント。微減。安定方向。


 工房のバイタルセンサー。マスターの心拍六十七。旋盤のクランク軸に意識を集中させている。先ほどの光学散乱への関心は、すでに作業への没入で上書きされた。


 光学品質の改善パッチは正常に適用済み。同種の透過は再発しない。


 第三編隊、高度四千メートル。着陸まで推定三分。第一編隊のアーム十二基、第二編隊のアーム八基ともに帰還・再装填を完了済み。全二十基が投入可能。


 迎撃を継続します。

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