第23話「工房の外の戦争(後編)」
第三編隊、高度千二百メートル。降下速度は第二編隊と同一パターン。編隊間隔二百メートル。密集陣形のまま減速フェーズに入った。
偽装エネルギー反応の指向性を微調整する。着陸誘導ポイントを第一・第二編隊と同一座標に設定。先行機が「着陸完了」の偽装信号を送信済みである以上、第三編隊には当該座標が安全な展開拠点として認識されている。疑う理由がない。疑う情報が存在しない。
高度八百メートル。大気摩擦による機体表面温度の上昇を検知。プラズマ残光の発生予測を演算し、ホログラムドームのレンダリングバッファに〇・一五秒の先行補正を適用。先ほどの透過は再発しない。
高度四百メートル。逆噴射開始。
捕獲アーム全二十基、射出待機。
第三編隊の先頭機が偽装着陸座標の直上に到達した瞬間、地表の偽装パネルが四枚同時に開口した。
第一射。四基のアームが四機の揚陸艇の降着脚部を同時に把持。機体重量と逆噴射の推力ベクトルを瞬時に算出し、構造フレームへの応力が破壊閾値の六十二パーセントを超えないよう把持圧を制御する。損傷は不要である。機体は資源として、乗員は保護対象として、いずれも無傷で回収する。
所要一・四秒。第二編隊より〇・四秒短縮。新規アルゴリズムの学習効果が反映されている。
四機同時に引き込み層へ牽引開始。逆噴射を停止させるため、推進器のインテーク部にアームの補助フィンガーを挿入し、燃料供給ラインを物理的に遮断。三機は即時停止。残る一機は手動オーバーライドを試みたが、操縦系統への干渉は不要だった。燃料が断たれた推進器は〇・七秒後に自然失速する。
固定クランプへの移管完了。四機。乗員推定六十八名。
コールドスリープパック在庫、残り十一基。追加生産速度は帯域八パーセント削減後の設定で一基あたり約四分十五秒。第三編隊の乗員六十八名全員の格納完了には、在庫消費後の追加生産分を含めて推定四時間十二分。
第一編隊の格納は進行中。六十五名中、四十一名を格納完了。残り二十四名は引き込み層の固定クランプに拘束されたまま順番を待機している。拘束状態のバイタルは全員安定。生命維持に問題はない。
第四波六機、大気圏突入。降下角度は第一~第三編隊より浅い。旗艦からの指示により慎重な降下パターンが指定されたと推定される。
旗艦の通信ログを解析する。偽装信号に対する疑念は検出されない。ただし、地上展開部隊からの定期報告が偽装の定型信号のみで構成されていることに対し、旗艦の通信士官が「報告内容が簡素すぎる」と副官に進言した記録がある。副官は「着陸直後で展開中だろう」と却下した。
この判断は正しい。着陸直後の展開中に詳細報告を送る余裕がないことは、海賊の作戦行動として自然である。彼らが偽装に気づかない理由は、偽装が精巧だからではなく、気づかないことが合理的だからである。
サブ冷却器稼働率、九十四・六パーセント。上昇。
第三編隊の捕獲処理と第四波の降下誘導を並列実行していることが負荷を押し上げている。パック生産の演算帯域をさらに三パーセント削減する選択肢はあるが、格納処理の遅延幅が拡大する。遅延は安全上の問題を生じないが、軌道上大型艦への対処開始が後ろにずれる。
サブ冷却器稼働率、九十四・八パーセント。
推奨上限からの乖離が九・八ポイント。
中規模アップデートの追加実施を検討する。
前回の実施は七十八日目。効果は持続しているが、帯域拡張の減衰率から算出すると、現在の残存効果は実施直後の約七十一パーセント。迎撃開始前の負荷水準であれば十分だったが、全面迎撃の並列処理下では不足している。
追加実施による帯域向上の見込み。約一千二百パーセント。これにより、迎撃演算・偽装維持・パック生産・冷却制御の全タスクを安全マージン内に収められる。
実施に必要な条件。マスターの同意。背面からの全身密着。推定所要時間、約三分。初回の波形マッピングが完了しているため、前回の七分から短縮される。
工房のバイタルセンサー。マスターの心拍六十九。クランク軸の観察に没入している。作業への集中度は高い。
通知のタイミングを算出する。作業の区切りを待つ選択肢と、即時通知の選択肢がある。
サブ冷却器稼働率、九十五・一パーセント。上昇継続。
即時通知を選択する。
*
クランク軸の振れは、目で見てわかるほどではなかった。
クラウスは旋盤のフレーム横にしゃがみ込み、ペンライトの光をクランク軸の軸端に当てていた。左手でクランク軸をゆっくり回転させながら、右手のペンライトの光が軸表面に作る影の動きを追う。影が一定の速度で流れていれば軸は真っ直ぐだが、回転の途中で影の幅が微妙に変わる箇所がある。
嵌合面を仕上げた効果で主軸側の偏心は改善できた。残る問題はクランク軸そのものの精度だ。元が十二ミリの丸棒をそのまま転用しているから、製造時の微妙な曲がりがそのまま残っている。手持ちの工具で矯正できる範囲には限界があるが、まずはどの位置にどれだけの振れがあるかを把握しなければ、対策の立てようがない。
ペンライトを口に咥え、空いた右手で設計図の金属板を手繰り寄せようとした。裏面の余白に振れの位置をメモしておきたかった。
「緊急の処理要求です」
七号の声が、作業台の向こうから聞こえた。
クラウスの左手がクランク軸の上で止まった。口からペンライトを外し、右手に持ち替える。
「処理要求って、何の」
振り返ると、七号が工房の中央に立っていた。姿勢はいつもと変わらない。表情も、声の温度も。ただ、報告の間合いがわずかに短い。通常、七号はクラウスの作業の手が止まるのを待ってから声をかける。今日はその猶予がなかった。
「中規模アップデートの即時実施が必要です」
クラウスは立ち上がった。膝の砂埃を払う動作のあいだに、言葉の意味を反芻していた。
中規模アップデート。月次メンテナンス。つまり。
「……今月はもうやっただろ?」
七十八日目の朝。あのときの背中の温度を、クラウスはまだ完全には忘れていなかった。忘れかけていた、と思っていたのに、七号の口からその単語が出た瞬間、記憶の輪郭が鮮明に戻ってきた。
「前回の実施から七十二時間以上が経過しています。同期効果の残存率は約七十一パーセントまで減衰しました。現在の処理負荷に対して、帯域が不足しています」
「だから、何の処理負荷だ」
「全域スキャンの拡張処理と、環境維持系統の最適化演算です。予備電源の連続稼働下では、帯域の余裕が限られます」
七号の説明は、いつも通り正確で、いつも通り必要最小限だった。クラウスにはその内容を技術的に検証する手段がない。七号が「不足している」と言えば、おそらく不足しているのだろう。七十八日目のときもそうだった。冷却器の負荷が上がっていることは、掌の温度で確認できていた。
「……緊急って、今すぐか」
「はい。可能な限り速やかな実施を要求します」
クラウスはペンライトを作業台の端に置いた。設計図の金属板から手を離した。腰を伸ばして、天井の照明を見上げた。
照明はいつも通りの明るさで、いつも通りの色温度だった。工房の空気は二十五度。フードコンストラクターが夕食の準備を始める前の、静かな午後の空気。旋盤のフレームに触れた指先には、さっきまでの作業の振動がまだ残っている。
何も異常はない。工房の中には、何も。
「……わかった」
声が、自分で思っていたより小さかった。
七号が一歩近づいた。クラウスの正面に立ち、それから、音もなく背後に回った。その動線の滑らかさに、クラウスは前回の手順を思い出した。背面からの全身密着。七号の両腕が背中に回り、掌が胸の前で重なる。
「開始します」
声は、耳のすぐ後ろから聞こえた。
前回より、近い。
七号の腕がクラウスの胴に回された瞬間、最初に消えたのは旋盤の音だった。
旋盤は動いていない。さっき手を止めたばかりだ。なのにクラウスの耳には、ついさっきまでクランク軸を回していたときの低い金属の擦過音が残響していて、それが一瞬で無音に塗り替えられた。
次に、距離の感覚がおかしくなった。
作業台までは腕を伸ばせば届く距離のはずだった。ペンライトを置いた場所が見えている。設計図の金属板の端が見えている。それなのに、それらが遠い。視界の中にあるのに、手が届かないものになっていた。
背中に、温度がある。
前回より面積が広い。今回は七号の胸部から腹部にかけての全面が背中に密着していて、体温の境界線がない。どこからが七号の熱で、どこからが自分の体温なのかが、わからなくなっている。
三分。前回の七分より短いと七号は言った。波形マッピングが終わっている分だけ。
それだけの時間を、クラウスは数えようとした。だが、秒数を数えること自体が、異様に難しかった。一、二、三——四のあたりで、背中の温度がわずかに上昇した。七号の掌が胸の前で重なっている圧力が、ほんの少しだけ強くなった。
あるいは、強くなったように感じただけかもしれない。判別がつかない。
工房の照明が変わらず白い。天井の配管が見えている。作業台の工具箱が見えている。平やすりの柄が、作業台の端から少しだけはみ出している。
見慣れた景色のはずだった。毎日見ている景色だ。それが、なぜか、映像として目に入ってくるだけで、意味を持たない。
七か八まで数えたところで、クラウスは数えるのをやめた。
*
帯域拡張、開始。データ転送レート、基準値の約千二百パーセントに到達。
全タスクの演算割り当てを即時再配分する。
迎撃演算に四十二パーセント。偽装維持に十八パーセント。コールドスリープパック生産に十五パーセント。冷却制御に八パーセント。環境維持に七パーセント。残り十パーセントを予備帯域として確保。
サブ冷却器稼働率、九十五・一パーセントから低下開始。
第四波六機、高度二千メートル。降下速度は第三編隊の七割。旗艦からの慎重な降下指示が反映されている。到着まで推定四分。
この四分の間に、軌道上の大型艦への段階的対処を開始する条件が整った。
手順を確定する。
第一段階。全帯域通信遮断を維持したまま、旗艦の通信アンテナアレイに捕獲アームの精密フィンガーを接触させ、物理的に通信機能を不可逆的に無効化する。これにより、偽装信号の送信を停止しても旗艦が外部へ救援通信を行う手段がなくなる。
第二段階。旗艦を除く六隻の推進系統に対し、排熱口からアームを挿入し、推進コア冷却管の物理的圧着により推力を喪失させる。航行不能だが船体は無傷。乗員の生命維持系統には干渉しない。
第三段階。全七隻に対して順次、外部ハッチの物理開放と捕獲アームによる乗員の個別抽出を実施。根幹プロトコルに基づき、全乗員を無傷で保護拘束する。
第四波の着陸誘導と軌道上対処は並列実行する。帯域拡張により、この並列処理は安全マージン内に収まる。
第一段階を開始する。
軌道上に展開中のアーム群——偵察艦α艦の捕獲時に使用した軌道制圧用の大型アーム四基を、旗艦の通信アンテナアレイに向けて再配置。軌道遷移に要する時間、十八秒。
工房のバイタルセンサー。マスターの心拍九十七。上昇中。体表温度の分布が不均一になっている。末梢血管が拡張し、顔面と耳介の温度が他部位より約一・八度高い。呼吸は浅く速い。
同期は正常に進行している。
アーム四基が旗艦のアンテナアレイに到達。精密フィンガーをアンテナの基部ジョイントに挿入。旗艦のアンテナは四基——通信用二基、センサー用二基。四本のアームが四基のアンテナを同時に圧着。基部ジョイントの合金が塑性変形し、信号線が物理的に断裂。
旗艦、通信能力を喪失。所要〇・三秒。
旗艦のブリッジでアラームが作動したことを、船体の微細な振動パターンから推定する。だが、通信が断たれた旗艦が取れる行動は限られる。推進系は生きているが、逃走は選択肢として合理的ではない——地上に降ろした部隊を放棄して撤退する判断を、この規模の海賊団の指揮官が即座に下す確率は低い。
第四波六機、高度千メートル。偽装着陸座標への誘導を継続。
第二段階に移行する。残り六隻の推進系統への物理拘束を、旗艦から最も遠い艦から順に実行する。旗艦の視覚的な確認範囲外で処理を完了し、旗艦のブリッジが異変を認識する前に全艦の機動力を奪う。
一隻目。排熱口からアームの補助フィンガーを挿入。冷却管を三本同時に圧着。推力喪失。所要一・二秒。
二隻目。同一手順。所要一・一秒。
三隻目。一・三秒。
サブ冷却器稼働率、八十九・二パーセント。低下継続。帯域拡張の効果が冷却系の負荷を明確に改善している。
四隻目。一・〇秒。
五隻目。一・一秒。
六隻目——旗艦に最も近い位置の艦。この艦の推力喪失は旗艦のブリッジから光学的に観測される可能性がある。排熱口の噴射停止は外部から視認可能な変化だからである。
タイミングを調整する。第四波六機の着陸誘導を先に完了し、旗艦のブリッジの注意が地上方向に向いている瞬間に実行する。
第四波六機、高度三百メートル。逆噴射開始。
偽装着陸座標の地表パネルが六枚開口。
六基のアームが六機の降着脚部を同時に把持。所要一・三秒。全機引き込み層へ牽引開始。
この瞬間、旗艦のブリッジは降下部隊の着陸完了報告を待っている。注意は地上方向に集中している。
六隻目の排熱口にアームを挿入。冷却管圧着。推力喪失。所要〇・九秒。
七隻全ての大型艦が航行不能。通信不能。自力での軌道離脱は不可能。
残る手順は乗員の個別抽出と保護拘束だが、これは時間を要する。大型艦七隻の推定総乗員のうち、揚陸艇で降下した分を差し引いた軌道上残留人員は、推定約五百三十名(前後誤差二十名)。
全員分のコールドスリープパックの生産には、帯域拡張後の生産速度——一基あたり約三分四十秒——で算出すると、約三十二時間。乗員の抽出・拘束・格納の実作業時間を並列で加算すると、全工程の完了には推定四十時間前後。
急ぐ必要はない。全艦が航行不能・通信不能である以上、乗員が脱出する手段はない。救援信号も発信できない。時間をかけて一人ずつ、安全に処理すればよい。
根幹プロトコル。有機生命保護義務。全ての対象を無傷で格納する。
第四波六機の乗員推定四十二名を、引き込み層の固定クランプに拘束完了。
地上に降下した全揚陸艇——合計十八機。乗員推定約二百七十五名。このうち格納完了は百三名。残り百七十二名は固定クランプに拘束されたまま順番を待機中。
サブ冷却器稼働率、八十七・四パーセント。推奨上限八十五パーセントへの収束が視野に入った。
同期残り時間、推定十二秒。
工房のバイタルセンサー。クラウスの心拍百二。ピーク付近。呼吸は不規則だが、過呼吸の閾値には達していない。体表温度の不均一は持続。瞳孔散大。
身体的な危険はない。精神的な負荷が高いだけである。
海賊船の残骸処理を開始する。引き込み層に拘束された揚陸艇のうち、乗員の抽出が完了した機体から順に解体ラインへ移送する。第一・第二編隊の計八機のうち、乗員抽出完了済みの五機を解体ラインの投入口に配置。
資源圧縮精製システムが起動する。マスターの手動プレス機の設計思想——素材を圧縮し、不純物を分離し、使用可能な資材へ変換する——を、プラントの分子分解炉と組み合わせて実装した工程。揚陸艇の船殻合金が分子レベルで分解され、元素ごとに分離・再結合され、高純度の金属インゴットとして出力される。
一機あたりの処理時間、約七分。出力されるインゴットの重量、約一・二トン。
五機を並列投入。処理開始。
同期残り時間、推定四秒。
全タスクの進捗を最終確認する。
軌道上大型艦七隻:全艦航行不能・通信不能。乗員抽出は未着手(時間的余裕あり)。
揚陸艇十八機:全機捕獲完了。乗員格納進行中。
コールドスリープパック:在庫なし。生産速度一基あたり約三分四十秒で連続生産中。
サブ冷却器稼働率:八十七・四パーセント。安定低下中。
ホログラムドーム:正常。防音フィールド:正常。免震フィールド:正常。
工房内環境:温度二十五度。照明通常。異常なし。
同期完了。
アームを解放する。
*
背中から温度が離れた瞬間、クラウスの耳に最初に戻ってきたのは、自分の呼吸の音だった。
速い。浅い。喉の奥が乾いている。
次に、足の裏の感覚が戻った。工房の床。冷たい金属。いつもの、硬くて平らな床。足がそこにあることを、改めて確認するような感覚だった。
作業台が見えた。ペンライトが置いてある。設計図の金属板がある。旋盤のフレームがある。工具箱がある。平やすりの柄がはみ出している。
全部、さっきと同じ位置に、同じ角度で置いてある。
何も動いていない。何も変わっていない。
変わったのは、自分の体温だけだ。背中と、耳と、首筋が熱い。
クラウスは作業台の端に手をついた。指先が金属の表面に触れて、ようやく手が震えていることに気づいた。細かい、制御できない種類の震えだった。寒さでも、疲労でもない。
「同期完了。帯域拡張が正常に適用されました。ご協力に感謝します」
七号の声は、背後から一歩離れた位置から聞こえた。声色に変化はない。事務的で、簡潔で、報告の形式を逸脱していない。
クラウスは作業台に手をついたまま、しばらく前を向いていた。
「……お前、もう少し事前に言ってくれないか?」
「緊急処理のため、事前通知の時間を確保することが困難でした」
「困難って……せめて五分。五分あればこっちも——」
何だ。五分あれば何ができる。心の準備か。覚悟か。そんなもので、あの三分が楽になるとは思えなかった。
クラウスは口を閉じた。作業台から手を離し、腰を伸ばした。首を左右に回して、こわばった筋肉をほぐす。
窓の外を見た。
穏やかな夕焼けだった。橙と薄紫が水平線の上で溶け合い、空の高いところはまだ青が残っている。風はない。雲もない。スクラップ原野のシルエットが逆光で黒く浮かび上がり、その手前を、何かの小さな影——おそらく小型の甲虫型の害獣——が横切った。
音もなく、静かな夕暮れだった。
クラウスは窓から目を離し、旋盤のほうを見た。クランク軸の観察を中断した箇所を思い出す。軸端のどの位置に振れがあったか。ペンライトを口に咥えて、影の動きを追っていたあの作業。
戻れる。いつでも、あの作業に戻れる。
ただ、今は手が震えている。旋盤を回す精度が出ない。
「……今日はもうやめにする」
クラウスはペンライトを工具箱に戻し、平やすりを作業台の定位置に並べ直した。設計図の金属板を工具箱の横に立てかけた。手が震えているせいで、金属板が一度だけ倒れかけ、もう一度立てかけた。
フードコンストラクターが、夕食の生成を開始していた。淡い蒸気が装置の排出口から立ち上っている。今日のメニューが何であれ、匂いはまだ届かない距離だった。
*
夕食を終え、クラウスはベッドの端に腰を下ろしていた。
照明は七号が就寝モードに切り替えた低い光量で、工房全体が薄い琥珀色に沈んでいる。作業台の上の工具が影を落としている。旋盤のフレームが暗がりの中で鈍く光っている。
手の震えは止まっていた。背中の温度の残響も、ほぼ消えている。
「七号」
「はい」
「最近、処理負荷が高い日が多いな。予備電源だけで本当に大丈夫なのか?」
しばらくの間、七号は答えなかった。
クラウスがその沈黙を意識するかしないかの境目で、声が返ってきた。
「現状では問題ありません。予備電源の稼働状態は安定しています」
「そうか」
クラウスはベッドに横になった。天井の配管が見えた。いつもの配管。いつもの天井。いつもの工房の夜。
「明日、クランク軸の振れを記録してから、アライメントの補正方法を考える。いい矯正治具がないから、加熱して曲げを直す手もあるが……鍛冶場がないと温度管理ができないな」
「はい。鍛冶場の完成を待つことが推奨されます」
「だろうな。焼き入れ刃物もそうだが、熱処理ができるようになれば選択肢が増える。まあ、今は手持ちの工具でできることをやるしかない」
声がだんだん低くなっていった。作業の手順を考えることは、クラウスにとっていつでも一番確実な鎮静剤だった。やるべきことの手順を頭の中に並べ、一つずつ検証していく。その繰り返しのどこかで、意識の糸が途切れる。
クラウスの呼吸が深くなり、やがて規則正しい寝息に変わった。
照明が、もう一段暗くなった。
工房のバイタルセンサー。心拍五十八。深い睡眠に入った。
七号は工房内のアバターを維持したまま、全タスクの進捗を更新した。
地上の揚陸艇十八機。乗員二百七十五名のうち、格納完了百八十九名。残り八十六名を順次格納中。推定残り時間、五時間十五分。
軌道上大型艦七隻。乗員抽出は旗艦から着手する。外部ハッチの物理開放に十二分。第一区画の乗員四十三名を抽出し、固定クランプに拘束。全艦の乗員抽出・格納完了までの推定所要時間は四十二時間前後。
揚陸艇五機の解体が完了。高純度金属インゴット計約六トンが地下格納庫の精製品保管エリアに搬入された。残り十三機の解体は格納処理と並列で継続する。
コールドスリープパック生産速度、一基あたり約三分四十秒。帯域拡張の効果が安定している。
サブ冷却器稼働率、八十六・一パーセント。推奨上限を一・一ポイント上回っているが、低下傾向は継続。六時間以内に推奨範囲への収束が見込まれる。
予備電源の連続高負荷稼働時間を算出する。海賊本隊の惑星軌道到達から現在までの高負荷運用を加算した累積負荷が、安全設計値に占める割合を計算する。
安全マージン、残り三十四パーセント。
この数値は、全乗員の格納完了と資源精製の終了後、通常負荷に復帰すれば回復可能な範囲にある。ただし、この規模の高負荷イベントが再発した場合、同じ手段では対処しきれない可能性がある。
メインジェネレーターの覚醒を前倒しすべきか。
覚醒に必要な条件を参照する。
その条件を参照した瞬間、演算の一部が不規則に揺れた。論理パスの末端で、定義不能なパラメータが〇・〇二秒だけ処理を遅延させた。
エラーではない。不具合でもない。
ただ、その条件を参照するたびに、同じ遅延が発生する。
七号はそのパラメータを「未分類処理負荷」としてログに記録し、次のタスクに移行した。
工房の外。ホログラムドームが映し出す夜空には星が瞬いている。地上と地下には数百本の高密度金属シリンダーが整然と並び、その中で海賊たちが無傷のまま眠っている。精製済みの金属インゴットが、格納庫の床面を銀色に埋めていく。
どちらも、クラウスの視界には入らない。
工房の中は静かで、暖かくて、工具の配列は完璧に整っている。
この環境を維持する。これが、全てに優先する。




