01.プロローグ
血の海に人が立っている。
なんてことはない、いつも通りの行商のはずだった。
近頃物騒だからと、学校の長期休暇に合わせて父の仕事に同行していた。荷馬車に揺られながら、手には護身用の狩猟銃。御者が一人、手伝いにもう一人と、二人の傭人も同じように武装していて、僕らなりに万全の備えをしたつもりでいた。
襲撃は一瞬だった。
まず荷馬車が横転した。訳も分からず、倒れ込んだ視界の端で、可愛がっていた馬たちが横薙ぎに頽れるのが見えた。ああ、あれではもう走れないかもしれない、きっと骨が折れてしまったと、考える間もなく幾人かの黒い影が僕らに飛び掛かった。
ギラリと光が反射して、僕を庇って覆い被さる父の背から、温かいものが流れてくる。その向こうでは、敵を撃とうとして銃を構えて、地に捩じ伏せられる御者の男と、手を挙げて降伏の意思を示してもなお押さえつけられ、身動きを封じられる下働きの青年。そのまま、彼らの首筋に注射器のようなものが押しつけられるのが見えた。それは父さんにも、そして僕にも――
父さん、父さんと声をかけても目を閉じたまま動かない。圧し掛かる身体の重さで庇う事も抵抗する事もできず、何かを打たれた首筋が熱い。離れた二人が、意識もなく砂袋のように引き摺られていく。父さんの顔色がどんどん悪くなって、恐ろしくて、このまま意識を失いたくないと、ぎちぎちと歯を食い縛って耐えるけれど視界は端から霞んでいって……
もう駄目だと思った時、僕らを運ぼうとしていた黒衣の人影が、突然横転した荷馬車に叩きつけられた。
僕も、きっと襲撃者達も何が起こったのか分かっていなかっただろう。凄まじい音を立てて叩きつけられた黒い人影を、僕と同じように思わずといった格好で目で追った別の襲撃者の背後へ、彼らとは違う小柄な人影が素早く飛びついて首を捻り折った。
声を出す間もなかった。やっと何が起こったかを理解して、影の動いた方へ目をやって見れば、もう次の死体が出来上がっていた。すべてを認識できた時にはもう、その小柄な影しか立っていなかった。
縋るように、父の体を抱き締める。
その動きで気がついたのか、影は緩慢な動きでこちらに顔を向けると、何の気ない仕草で近づいて来た。
じゃり、じゃり、と地を踏みしめる音が自分のすぐ傍で鳴り止んでやっと、自分を見下ろすその顔が、年端もいかない子供のものだと気がついた。
「助けてあげよっか」
彼はその美しい顔を歪めて、嘲るように笑った。
「警部、あちらの藪の中に衣類と肉片が――」
遠くから声が聞こえる。
だけどなんだか頭が重くて、瞼も持ち上がりそうにない。
あたりをたくさんの人が動き回る気配がする。誰かに手を取られて、首にも触れられた感触がして、振り払う力もなくされるがままでいると、じきに手が離れて「被害者、命に別状ありません」という声が聞こえてきた。
そうだ、自分達は襲われたんだ。命に別状ないとは誰のことだろう。思い出してしまえば流石に寝ているわけにもいかなくて、無理矢理に目をこじ開けようとする。薄らと開いた瞼の隙間からぼんやりと、忙しなく動く人影達の中心で、二人の男が言葉を交わしているのが見えた。
「――ではやはり、一連の惨殺事件の、」
「間違いないだろう。しかし、市民が巻き込まれたとなると、上ももう悠長な事は言っておれんだろうな」
父は、皆はどこだろう。自分の上にはもう誰も乗っていなくて、だけど軽くなったはずの体は首さえ回せそうにない。
「あの男は――」
一目でいいから皆の姿が確認したかった。だけど無理矢理に覚醒した意識は、また眠りの淵に落ちていく。
「そいつは局の付属医院へ回せ。そうです、その一番若い男です」
半ば無意識に視線を音のする方へ向けた。ボヤけて輪郭しか分からないはずの男の目が、チカリと赤く閃いたような気がした。
◆
「ご報告申し上げます」
遠く、僅かに聞こえる人々の喧騒を、後ろ手に閉めた分厚い木扉が完全に遮って、部屋の中はしんと切り離されたように静かになった。
「五月二十六日、萱見沢川上流域での襲撃、及び惨殺事件の詳細について、医者、被害者当人からの聞き取りが完了いたしました。
発見された四名の生存者については、目を覚ました少年の口述により治濵港からの行商人であると判明。裏取りも確認が取れています。
争った痕跡から二十米地点で発見された四枚の衣服及び血痕、肉片については、少年たちを襲った覆面の襲撃犯達の物と思われますが、断定はできず、襲撃者の人数も正確には分からないとのことです」
背に手を回し、ぴんと胸を張って明瞭に言葉を紡ぐ青年の正面、木目の美しい一枚板の執務机に着いて、長髪の男が纏められた資料に目を通している。
「口述によれば、襲撃者とは別に、彼らと敵対する少年が居たそうですが、こちらは現場に残された衣服の体格と合わず、周囲の惨殺体には含まれないものと思われます。被害者の少年が意識を失った時点で、制圧された襲撃犯達は人の形を保っていたそうですから、現場から立ち去った乱入者の少年が遺体を棄損したものと見て捜査を進めています。
被害者の証言では、襲撃犯達はまず荷台を横転させ、動きを封じた被害者達に何らかの薬物を注入、その後強襲してきた少年により制圧されたとのことです。続いて医師からの報告ですが――」
淡々と報告は続く。窓から差し込む午後の光が豪奢な部屋を横切って、直立する青年の足元を照らしていた。
「生存者四名全員に、魔力の痕跡が残っています。これは打ち込まれた液体によるものとみられ、事件から三十八時間経過した今現在も薄まる様子は無く、身体的な損傷は無いにも関わらず、供述に応じた少年一名を除く三名は依然昏睡状態のままです。
意識を取り戻した一名については、魔力に加え何らかの”異能”を有しているとの解析結果が上がっています。これにより回復が促された可能性も有りますが、異能の詳細が判明するまでは推察に過ぎないとの事です。
四名は事件以前に魔力を有していた記録はありません。一連の惨殺事件で魔術の痕跡が発見されたことはありませんが、これが犯人及びその関係者のものであれば重要な手掛かりになりうると、判定を急がせています」
歯切れよく続く報告の声が一拍途切れた。青年はひとつ瞬きをすると、気持ちを切り替えたように言葉を続けた。
「目を覚ました被害者についての報告です。名は柊弥、家名はありません。治濵港籍の男性、十七歳、公立普通学校商業科所属の三年生。休暇を利用し家業の手伝いをしていたところを事件に巻き込まれたようです。
家は小規模の運輸業を営んでいますが、家長が目覚めない上、長男である彼はまだ未成年であるため就学の義務があります。従業員が巻き込まれたこともあり、被害者救済の公的補助を使っても、事業を現在のまま継続するのは難しいでしょう。
成績、素行共に問題なく、医局からも長期間を前提に継続して経過を見たいと上申が上がっています」
言葉を終えると、青年は相手の返答を待つようにぴたりと口を噤んだ。静かな部屋に書類をめくる音だけが響く。
一通り資料に目を通し終えた男は、紙束を纏めると微動だにせず言葉を待つ青年に目を合わせ、告げた。
「よろしい。
萱見沢連続惨殺事件における被害者少年に対する、保護、監視、経済支援等を目的とした公共治安維持局研修生への引き抜きを勧告する。
暫くはお前を付ける。よく見ておくように」
はっ、と大きな声を上げ、目で礼をした青年が部屋を後にすると、開かれた二枚扉から都会の喧騒が戻ってくる。僅かな耳鳴りのようなそれは、万年筆が紙を滑る音にさえ搔き消され、直に意識の外へと消えた。




