【第二球】3
【3】
「お勤め、ご苦労さまでーす♪」
練習後のバイトを終えた家路、団地の前でストーカーが待っていた。
風呂上りなのか、髪色と同じ黄色いスウェット姿だ。
「ハナミズは暇――冷たっ!」
と、中島の頬にキンキンのコーラが当たる。
「昨日のお詫びよ。好きなんでしょ、コーラ」
ありがたく小さな幸せを受け取る。「もう、風呂入って寝たいんだが」
ため息交じりの少年を察し、水木はニヤリと笑った。
「ねぇ、舞さんと会話したくない?」
ピューッと、疲れが北区の果てまで飛んでいく。
「ぜひ!」
――水木家二階 リビング――
「天パ君が新しいコーチだそうで。姫と晴太君をよろしくお願いします」
「い、いえ。不束者ではありますが、精一杯頑張らせて頂きます!」
薄手のロングカーディガンを羽織る舞は軽く腰を上げ、ジュースで酔っ払うおじさんのせいで疲れ果てた少年を、その天使の微笑みで歓迎した。
水木家は竹中家、つまり舞と姫を加えた五人で暮らしている。
夫を亡くした後、水木母が憔悴してしまい、心配した子供二人が一緒に住んでもらおうと竹中家に提案した。こうして不思議な二世帯住まいとなった。
「あ、中島コーチ。こんばんはっ!」
こいつ、なんて羨ましい環境で暮らしてやがる……ッ!
一人暮らしの孤独感を抱える彼にとって、アニメ(学園モノ)が救いだ。
律儀に立って挨拶する晴太がひどくうらやましく、まるで主人公のような立ち位置の彼を、どん底に落としてやりたい衝動に駆られる高校生に、隣の少女もまた頭を下げた。
「中島さん、こんばんは」きゃわ☆
パッチリとした目、プニっとした白い頬、サラリとした黒髪に、人見知りのよそよそしい態度が加わると、何かが悪化していくのが男だ。
光り輝く宝石に見惚れる彼を、容赦なく華は連れていく。
「――ちょ、ボケっとしない! 三階よ」
「イヤだ! 俺、ここがいい!」
「もう寝たいんでしょ? とっとと終わらせて解放してあげるから」
「うわあああん……。鬼、ハナミズの鬼ィ~!」
泣きながら連れて行かれる彼を観て、苦笑する舞は子供たちに尋ねた。
「……天パ君って、大丈夫そう?」
二人は顔を見合わせ、「たぶん、ヤバい」と答えた。
「うわぁ、女子の部屋じゃねぇ……」
三階にある華の部屋に通された中島は目を細めた。
ドアを開けると、マッチョなプロレスラーのポスターが彼を出迎えた。
金髪で、派手な赤と白のコスチュームで、右拳を高々に掲げている。
「とりあえず、その辺に座って」と言われ、彼はひとまず正座した。
内装はオシャレな雑貨や色合いもなく、生活に必要な家具、ベッドとミニテーブルに、ノート類で散らかる学習机、その上にディベート大会で受賞したであろう、トロフィーや盾が飾られていた。
女の子は白とピンクの可愛い部屋という妄想はどこ吹く風で、ただの男子高校生の部屋のようだった。
机の椅子に座る華は、肉球の指示棒でカレンダーを差す。練習日や試合、学校の行事が書かれ、日付の下に『遅』とも記されている。
それが遅刻を表すものだと勘づいた中島に、華は切り出した。
「実は、今週の土曜日に練習試合があるの。相手は神谷ブレイカーズ」
「重大発表だな。――って、三日後じゃん!」
「続いて、金曜日は休み。つまり、明日は試合前練習ね」
華は完全に言い忘れていたので、申し訳なさで胸一杯だった。しかし、思いのほか彼は冷静で、こんなことを言った。
「試合で秘策の練習もありだな」
「秘策ってお昼に話したアレよね? 練習試合でやる気?」
「いや、完璧にはやらない。どうせ、その相手も大会に出るんだろう?」
「ご明察♪」と下手なウインク。「ま、作戦は全て任せるわ。今日は今後のスケジュール、その商店街大会について教えたくて呼んだのよ」
「やけに素直だな。なんかヤバいもんでも食ったのか?」
「それ、私のセリフ。あんたはウッシーズの救世主だもの。優勝させるためには人肌も二肌も脱ぐわ」
「ハナミズの裸なんて、誰も見たきゃないって」
「誰が見せるか!」と、机のプリントを渡す。
今後の練習日程と《大会のお知らせ》だ。練習は火水木、練習試合は今週土曜日と来週日曜日の二試合で、再来週の土曜日に大会がある。
大会は四チームによるトーナメント方式で、対戦相手は当日のくじ引きで決まるらしい。「――参加チーム、少ねぇな」
「毎年七チームだったんだけど、他は新球に集中したいって。ほら、六月から全国予選も始まるし。でも、うちにとっては朗報よ。二回勝てば優勝だもん」
「ま、ありがたい話か……作戦もやりやすいし。でも――」
口から疑問が漏れた。「優勝したらハナミズはどうするんだ?」
「どうするって?」
「このまま監督を続けるのかって話。ディベート部に戻らないのか?」
とたんに鼻をツンと立てる。
「ディベート部って、どうしてあんたが知っているのよ」
「いや、白川先生に聞いたんだよ。正しくは、話してきたけども……」
「あんの、アホ教師!」と、壁のスクラップ写真を睨んだ。
そこにはダブルピースで映る白川がいた。去年の文化祭の写真だ。
「ま、あんたには関係ない話よ」
「関係ないけど、全国で賞を取ったレベルだろ? もったいないじゃん」
その瞬間、ビシッと人差し指を向けた。
「それ、私のセリフだから!」
まるで犯人はお前だと言わんばかりの勢いに、少年は言葉を失くす。
「ああ、たしかに。俺に言う資格はない。あの契約とも関係ないし」
背中が丸くなる彼をよそに、少女は椅子にふんぞり返る。
「あそこに、私の居場所はないのよ」
その目はポスターに向けられた。荒々しい、《ビクトリースタイル!》という黒字が少女の気持ちを代弁するよう、中島の心に飛び込んできた。
だけども、その気持ちを言葉にできなかった。水木華を知らないから。
ディベートをするきっかけも、辞めたきっかけもわからない。
それを聞くべきなのかさえも、彼はわからなかった。
ただ、彼女も孤独を選んだということを、潤んだ瞳から知った――。
チ、チ、チ……秒針が時を刻む。沈黙が続いていく。
「一〇時半か……」中島がいった。
「疲れてるものね。もう帰っていいわよ」
「ああ……そうする」
中島がドアを開けると、「あ!」と思い出す。
「言い忘れる前に言っとくけど、学童野球のピッチャーは変化球禁止、一日七回まで。だから、大会までにもう一人必要なんだけど、どうしましょう?」
「それ、早く言えよ……」
控え投手について話し終えると、時刻は十一時を過ぎていた。
愛しの親子に別れを告げて一階に下りると、用事から戻った水木幸子が厨房で翌日の仕込みをしていた。
幸子は夫が旅立った後、水木家を支える大黒柱となった。以前から店を手伝っていたため、その二の腕は逞しいものの、人懐っこいおっとりした笑顔から、《青羽の母》と若い世代に呼ばれている。
「あら、来ていたのね。いつもありがとう」
「あ、はい。お邪魔していました。でも、もう帰ります」
「お疲れ様。――そうそう、天パ君。うちの牛丼に飽きてない?」
「あ、いえ。いつも美味しくいただいています!」
彼は毎朝牛丼弁当をもらい、昼休みに食べている。幸子とはあまりしゃべる機会はなく、タダで弁当を食べている手前、申し訳なく思っていた。
「なら、よかったわ。でも、チームが面倒ならいつでもやめていいからね」
「い、いえ。弁当のお礼に、大会まで精一杯やらせてもらいます!」
「そう……。じゃあ、頑張って!」
力強いエールを受け取った彼は、真意を理解するにはまだ幼かった。
厨房、一人となった母は嘆く。
「あの子ったら、また迷惑を……」
涼しげな厨房に響く、野菜を刻む音がやけに大きくなった。