第三十五話 勇者様の恋人になりました
エリアスは、傍らに置いた革袋から鯨油の入った小瓶を取り出した。
あらかじめ用意してあった小皿にその油を垂らし、乾いた糸をそれに浸す。さらに革袋から金属製の小型の板を出し、それを地面に平らに置いた。
板の表面には火属性の月系魔法を発動させる魔法陣が刻まれている。これも魔法道具の一種なのだ。
油の浸みこんだ糸を手に取り、それを板の上に乗せると、魔法陣が赤く輝きを放って板から湧き出るように焚き火が灯された。
「よし、上手く点いた!」
我ながら手慣れたものである。
自分の手際の良さに一人で満足しながら、エリアスはゆらゆらと板の上で揺れる炎を見つめ、物思いにふけったように黙り込んだ。
思い出すのは、たったさっきアキに触れたときのことである。
彼女の華奢な体を抱きしめて、好きだと伝えて、そのあと彼女の唇に――。
「あの、エリアス?」
「うわあ!? ――は、はい!」
さきほど彼女と触れ合った柔らかい感触を思い出していた矢先に、背中側から本人に声をかけられ、エリアスは耳まで真っ赤になりながら振り返る。
あのあと彼女には、物陰で体を拭いて濡れた服を絞ってくるようにお願いしたので、それを済ませて戻ってきたと思うのだが――声をかけてきた彼女の姿を目に入れるなり、エリアスは手に持っていた小瓶を思わず地面に落下させた。ころころと瓶が床を転がるのも構わず、自分に歩み寄ってくる彼女に目を奪われる。
「アキ、その格好、は……」
かろうじてそれだけがぽつりと口をついて出る。
アキは、大きめの布をぐるりと体に巻きつけ、その下から覗く両足は素肌をさらしている。服が濡れていたから着られなかったのだろうか。彼女の両手には、綺麗に畳まれたスーツが抱えられている。
自分にはない丸みを帯びた体つきに、エリアスは息を呑んだまま硬直した。
――今の自分には、非常に刺激が強すぎると思うのだが……!
そんなエリアスの心中に気づいているのかいないのか、アキはひたひたと素足で歩み寄り、申し訳なさそうに頭を下げた。
「お、お見苦しくてすみません……。ちょっと、濡れた服に袖を通してみたんだけど、やっぱり冷たくて……」
アキは、どこかそわそわした様子で頬を赤らめて視線をさまよわせている。
エリアスもまたアキの顔がまともに見られず、転がってしまった小瓶を拾うふりをして何となく顔をそらしてみた。
どうしても、さきほどアキと想いを伝えあった瞬間が頭をよぎってしまい、恥ずかしくて彼女の顔が見られないのだ。
なにせ、今まで大切な仲間という間柄だった彼女が、好きだと気持ちを伝えたあの瞬間から自分にとって特別な人に変わった――その不思議でどこかくすぐったい感覚に、どうしたらいいのかわからずに戸惑いを感じてしまう。
その場にたたずんだままのアキをちらと盗み見ると、彼女の女性らしい体躯が目に飛び込んでくる。やましい理由は抜きにして、素直に綺麗だと思った。あまりにも魅力的だから、自分以外には見せてほしくないと思ってしまうほどに。
その衝動のままに、エリアスは座った体勢のまま少し腰を浮かせると、所在なさげにしているアキの手首をつかんで自分のほうへ引き寄せた。
「わっ!? エリアス、どうし――……」
「そ、そういう格好は……」
膝をついて自分のほうに倒れ込んできたアキを強く抱きしめて、エリアスは勇気を振り絞って彼女の耳元でつぶやく。
「……そういう格好は、俺以外の前で、しないでください……」
――恥ずかしい……!
自分で言っておいてなんなのだが、あまりの恥ずかしさに声が震えてしまう。
けれど、大好きな彼女には、自分以外の男の前でそういった女性的な格好をしてほしくないと思ったのだ。
(だって、アキは俺の、俺のもの、なんだから)
今まで、勇者として周囲のものに愛情や執着を持つことをしてこなかったせいか、自分の独占欲に戸惑いを覚える。どうしたらいいのかわからないのだ。
自分の気持ちを押し通して、彼女の自由を束縛するようなことになって彼女を困らせたり傷つけるようなことはしたくない。要は、彼女に嫌われたくないのだ。
けれど、彼女には自分だけを見ていてほしいし、自分だけのものであってほしいとも思う。
(……これってわがままなのかな)
初めて経験する感情だけに、どうコントロールしたらいいのかわからない。人を好きになるって、こんなに強い気持ちを抱くものだったのか。
抱きしめたままのアキから、どくどくと速い鼓動が聞こえてくる。彼女も自分も、お互いを異性として意識し、緊張しているのだろう。
エリアスの言葉を黙って聞いていたアキは、そろりと上目遣いにエリアスを見上げ、小さくうなずいた。
「ご、ごめんね、エリアス。わかった……――」
エリアスは、言いかけた彼女に顔を寄せて、その小さな唇をやや強引に自分のそれでふさぐ。
驚いて目を瞬くアキの肩口に、エリアスはぽすんとその頭を乗せた。
「……アキ、ごめん。俺、君のことが好きすぎて、どうしたらいいのかわからない、かもしれない……」
自分の正直な気持ちを吐露する。
彼女を独占したい、けれど愛情を押しつけすぎて彼女に嫌われたくはない。では、どこまで彼女に自分だけを見ていてほしいとお願いしていいものなのか――。
恋愛初心者の自分には答えが出なくて、戸惑ったようにアキを見つめると、彼女がそんな自分を見て楽しそうに笑いだした。
「え、どうして笑うの、アキ?」
自分は笑われるようなことを聞いたのだろうか。何か間違えたのだろうか。
困惑してきょとんとしているエリアスに、さらに可笑しそうに笑ったアキが腕を伸ばし、まるで子どもをあやすように頭をなでる。
「エリアス、私も一緒なんです。私もずっとエリアスのことが好きだったから、いざこうして両想いになったら、緊張してどうしたらいいのかわからなくて……。エリアスは勇者様で、この世界の英雄で、みんながうらやむようなすごい人だから、私なんかじゃ絶対手が届かないって思ってたんです。それが、今はこんなに近くにいてくれるんだから、嬉しくて!」
そう言うと、アキは甘えるようにエリアスの頬に自分の頬を当てて幸せそうにほほ笑む。
楽しげな様子のアキに、エリアスも優しく目を細めて笑い返した。
「そっか。――アキ、好きだよ」
「う、う、うん……! というか、エリアスがかっこよすぎて、エリアスが私の彼……彼氏だということが、未だに信じられないというかっ……」
アキは、エリアスの綺麗な顔をまじまじと見てから、照れた様子で視線をそらす。
エリアスは、そんなアキを覗き込んで、ふっとほほ笑んだ。
「それは俺も、同じだよ」
自分だって、ずっと想いを寄せていたアキと相思相愛になって、彼女が自分の恋人になってくれたなんて夢のようなのだ。――自分はずっと、一人で生きていくものだと思っていたのだから。
目の前で揺れる炎を横目に見ながら、アキが気恥ずかしそうに身をよじる。
エリアスは、彼女の背中に回していた腕を緩めて、灯されている火をアキと同じように見つめた。
こうして彼女と両想いになれたことは嬉しいけれど、それと同時に不安もまた募っていた。取り返しがつかなくなる前に、彼女に相談しておいたほうがいいかもしれない。これで彼女に、嫌われることになったとしても――。
エリアスは表情を引き締めると、アキの背中に軽く額を当てて、視線を落としながらつぶやく。
「……けれどアキ、俺、不安なんだ。本当に俺が君の恋人でいいのかな。俺はその……女神に造り出された命で、本当に人間といえるのかわからない存在だ。それに、勇者と魔王の戦いの結末によっては、この命がどうなるのかも……わからないんだ。それに、君と俺は生きる世界が違う。そんなことを考えていたら、俺が君を幸せにできるのか、どんどん不安に……」
アキのことは誰よりも好きだけれど、彼女と自分との間には乗り越えなければならないことが多すぎて、自分と一緒にいることで彼女を苦しめることになるのではないかと不安になるのだ。
将来、ずっと二人で一緒にいられるのかどうか、不確定なことが多すぎるのだから。
しばらく黙り込んでいたアキは、おもむろにエリアスから体を離し、両手でエリアスの頬を挟むように叩いた。
ばちん、と乾いた音が洞窟内に響き、エリアスは突然のアキの行動に目を白黒させる。
「い、痛っ!? アキ、いきなりなにす――」
「あのね、エリアス!」
アキは、すがるようにエリアスを見上げる。
「先のことを考えることももちろん大事ですけど、そればっかりやってると、今大切にしなきゃいけないものを見逃して、失くしちゃう気がするんです。私はエリアスが好きで、エリアスも私を好きになってくれて、お互い一緒にいたいと思ってる。だから、今はその気持ちをなによりも大事にして、あなたの傍にいたいって思うんです。それでなにか問題が起きたときは、二人で乗り越えていけばいいんです! 私たち、お互いに一番のパートナーなんですから!」
ねっ、とアキが両手の拳を握って元気に笑いかける。
エリアスはぽかんとした表情で彼女を見返してから、そのとおりだと伝えるように、頬を緩めて深くうなずいた。
(アキはいつも、情けない俺を助けてくれる……)
彼女には、いつも励まされ、勇気をもらえるのだ。
彼女が傍にいてくれれば、きっと自分は道を踏み外さずに勇者として戦い続けていけるのだと思う。誰にも負けないくらい、強くいられるのだと思う。
(――俺、この世界でアキと出会えてよかった)
自分にないものを持っている相手が、『勇者の片腕』に選ばれるのだろうか。
アキがいてくれるからこそ、自分はこの世界で『勇者』としての使命を務められるのではないだろうか。
きっと女神は、お互いを必要としているパートナーを、異世界から選んでくれるのかもしれない――。
アキはすっくと立ち上がると、エリアスに背を向けて彼の両膝の間に座り込み、彼の胸を背もたれにして寄りかかる。
「ふふふ、あったかい」
満足そうに笑うアキに、エリアスは後ろから腕を伸ばしてアキの前で組みつつ、彼女の肩口に頭を乗せた。
「楽しそうだねえ、アキ」
「うん! 幸せだなあって思って。――それでエリアス、私たちって次はどうすればいいのかな。私が落ちたせいで、ルートを外れちゃってますよね」
アキはしょんぼりとうなだれながら、肩にあるエリアスの整った横顔を見る。
エリアスは軽く首を振ってから、手近にあった袋からミーナから預かっていた地図の複製を取り出した。それを前に回して、アキにも見えるように彼女を腕の間に挟んだ体勢で広げる。
「そうでもないよ。さっきミーナたちといた一本道がおそらくここだから、真っ直ぐに落下したと考えると現在地はこの辺りだと思うんだ。だから、深く考えずに北に進めばいいと思う。ミーナとルイスも、俺たちを捜してくれているというよりは、俺たちを信頼して先に進んでいると思うんだよね。だから、目的地を目指して進んで行けば、途中でミーナたちと合流できるんじゃないかな」
彼らのことだから、こちらを追って側溝の下へ降りる道を捜したり、来た道を戻ったりといったまどろっこしいことはしていないだろう。おそらく、目的地での合流を目指してがんがん先を攻略していると思う。
ミーナもルイスも決まったパーティを組まずにソロでやってきたと言っていたから、今回のようにパーティメンバーが逸れても、単独で先に進む行動を取るはずだ。
淀みなく指示を出すエリアスに、アキはふむふむとうなずく。
「そっか。つまり、ミーナたちは正規ルートで目的地へ向かっているはずだから、私たちは地下から目的地へ向かう、ってことですね」
「そういうこと。パーティは分断されちゃったけれど、俺たちもミーナたちも充分にレベルが高いから、このまま先に進んでもさほど問題ないと思うんだ。だから、俺たちもなるべく魔物との戦闘を避けて力を温存しながら目的地を目指そう」
こうしている間にもミーナたちは奥地へ足を進めているはずだから、こちらもあまり長居するわけにはいかない。行き違ってしまっては元も子もない。
「――よし、じゃあそろそろ出発しようか。アキ、体は温まった?」
後ろからエリアスが心配げに問いかけると、アキはにこやかにうなずいて元気よく立ち上がった。
「はい! 心も体もあったまったっていうか――あの、エリアス、これからもよろしくお願いします!」
アキに倣って立ち上がったエリアスを真正面に見て、アキは顔を赤くしながら頭を下げる。なんだか、こうまじまじと向かい合うと、お互いに恋人同士になったのだ――という実感が改めてわいてくる。
(アキは俺の恋人で、俺はアキの恋人――)
それは当たり前のことなのだが、どうにもくすぐったくて仕方ない。
エリアスはうつむき加減のアキの頬に片手の伸ばすと、そっと上を向かせる。
「こちらこそ、これからもよろしくね」
――必ず、俺が君を幸せにするから。
目を閉じるアキの唇に、エリアスは優しく口付けを落とす。
これからの、二人の幸せな未来を信じて。




