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第三十四話 世界にひとりぼっち

 ――アキ。


 ――アキ……!


 誰かが、何度も何度も繰り返し自分の名前を呼びかける声がする。


 そういえば、自分はどうしたんだっけ。


 たしか、魔物の攻撃を受けたあとに足を踏み外して――……。


「アキ、大丈夫か!? 頼む、目を開けてくれ……!」


 誰かに一際強く体を揺すられて、アキはぼんやりとしていた意識を取り戻した。途端、至近距離にエリアスの整った緑色の瞳が迫り、アキは驚いて頬を染める。


「わ、エリアス!? 一体どうし――……わっ!」


「アキ! 良かった、気がついた……!」


 アキにみなまで言わせず、エリアスは地面に仰向けに寝かされている彼女に腕を伸ばして、救い上げるように抱きしめた。


 アキはわけがわからずされるがままになりながら、頬に当たる彼の素肌を感じてぎくりと固まる。無駄な筋肉をそぎ落とした彼の胸板は、硬くてたくましくて、まさに男の人のそれなのだけれど――……。


「き、きゃああああっ! どうして何も着てないんですか、エリアスっ!」


 エリアスの上半身素っ裸の状態に、アキは悲鳴をあげて反射的に彼の胸元を突き飛ばした。


 とっさに受け身をとれなかったエリアスは、よろけて地面に座り込みつつ、きょとんとしながら自分の上半身を見下ろした。そうして、自分の状態をはっと思い出したように冷や汗を垂らす。


「え? あっ……」


 どう事情を説明したものかとエリアスがまごついていると、アキは顔を真っ赤にしたままわなわなと震え、反射的に片手を振り上げる。


「……エリアスの……エリアスのっ……」


「アキ!? ちょっと待って、誤解っ……」


 おろおろと後ずさりし始めるエリアスに、アキは振り上げた手の平を思いっきり彼の右頬に振り下ろした。


「エリアスの変態――――っ!」


「痛ぁっ!?」


 場内に響き渡る小気味のいい音を立てて、アキの会心の平手打ちがエリアスの頬に炸裂する。


 エリアスは驚いて涙目になりつつ、打たれた頬を押さえながら首を振った。


「ち、違うんだよアキ! 本当にいろいろ誤解があって……!」


「何がですかっ! 言い訳なんて聞きたくありません!」


「だから違う、言い訳とかじゃなくて……! アキ、ちょっと自分の格好を見てもらってもいい?」


「……格好?」


 エリアスに言われるままに自分の服装を見下ろすと、身にまとっている衣服が水分をはらんで重く濡れている。


 あれ、どこか水の中にでも落ちたのかな……。


 はたと固まるアキの様子をうかがいながら、エリアスがおずおずと説明を始める。


「……ええと、アキが足を踏み外して側溝に落下したあと、君を助けようと思って、俺も後を追って飛び込んだんだ。それで、落ちた先がこの地下水路で、ちょうど水の中に落っこちたものだから二人ともびしょ濡れになってしまって……。で、アキの服に勝手に触れるわけにはいかないから、俺だけ上着を脱いで体温が下がらないようにしていたんだ」


 だからなにかやましい理由があったわけじゃなく、とエリアスが必死に弁解する。


 なるほど、自分は落下している最中に気を失ってしまって、どうしてエリアスと二人で地下水路にいるのかわからなかったのだが、エリアスは自分を助けるために身をていして側溝に飛び込んでくれたらしい。


 とすると、さきほどの自分のエリアスに対する仕打ちは、恩を仇で返すようなものだったのではないだろうか。


 アキは自分の失態に気づくと、必死に頭を地面に伏せて平謝りする。


「エリアス、ごめんなさい! 私、完全に誤解してました……!」


「い、いや、大丈夫。俺も、こんな格好のままいきなり君を抱きしめるとか、女性に対して、その、失礼なことを……」


 エリアスも正座をしたかと思うと、アキに倣って深々と頭を下げた。


 アキは慌てて顔の前で両手を振る。


「え、え、いや、エリアスが謝ることはなに一つなくて! むしろ悪いのは全面的に私ですからっ……!」


「い、いやいや、俺のほうこそ!」


 何をやっているんだ、と自分たちに突っ込みたくなるほど、お互いにぺこぺこと頭を下げる。


 似た者同士の行動にアキが小さくふきだしたとき、エリアスがこちらの全身を凝視してから、慌てて目をそらした。


「エリアス? どうしたの?」


「……い、いや、さっきからアキの服がその……水で濡れて、透け……」


「え?」


 エリアスが非常に言いにくそうに口ごもりながら、正座の体勢で顔を伏せる。


 よくよく見れば、彼の耳元がやや赤い気がする。


(服が、透けてる……?)


 まさか、とアキはがばりと自分の格好を見下ろした。


 たしかに、水で濡れたブラウスが体に密着していて、その下から下着が透けて見えて――……!


(―――――っ!)


 アキは両手でスーツのジャケットを手繰り寄せ、ブラウスを覆った。


 仮にも好意を持っている男性に、自分のあられもない姿を見られるなんていたたまれない。


 アキは半ば混乱したまま、またもや思いきり片手を振り上げた。


「い、いやあああっ! エリアスのばかっ、変態ぃいいいいいっ!」


「え、ちょ、アキ、待っ……!」


 エリアスがアキの攻撃を防ごうとしたものの間に合わず、反動をつけたアキの平手は、エリアスの頬を全速力で打ちつける。


 再度洞内に響き渡る乾いた音と、エリアスの言葉のない悲鳴。


 アキは真っ赤な顔でぶるぶる震えながら、両手で自分の体を覆った。


「もう、もうっ、見なかったことにしてください……! こんな、恥ずかしいっ……!」


 真っ赤な顏のまま、じんわり涙をにじませるアキに、エリアスは叩かれた頬を押さえながらもやわらかくほほ笑む。


「いや、恥ずかしいことなんてなにもないじゃないか。とても綺麗だよ、アキ」


「だ、だからっ……!」


 どうしてそう、エリアスは不意打ちで直球な言葉をかけてくるのか。おそらくすべて無意識なところが、女性たちの誤解に誤解を招いていくのだろう。


 アキが動悸する心臓を抑えるために息を吐いていると、おもむろにエリアスが大きな布を取り出し、それをアキの顔面に押しつけた。


「わっ、――ぷっ! なに、エリアス?」


「それ、アキが起きたら渡そうと思ってて。そのまま濡れた服を着ていると風邪を引いてしまうから、その布で体を拭いてきたほうがいいと思うんだ。絶対見ないって約束するから、可能なら少し服を脱いで水分を絞ったほうがいいよ」


 渡された布からアキが目だけを覗かせると、エリアスがおだやかにほほ笑む。


 アキは布を手繰り寄せて、小さくうなずいた。


 自分は取り乱してばかりなのに、エリアスはいつもこちらを気にかけてくれている。


 思い返せば、魔物に不意打ちされたときに助けてくれたのも、側溝に落下したときに助けてくれたのも、そのあと気を失っている自分に声をかけてくれたのも彼だった。


(エリアスは、いつだって近くにいて、私のことを助けてくれる……)


 それなのに自分ときたら、変な誤解をしてエリアスに酷いことをしてしまった。


(――謝らなきゃ)


 アキはごくりと唾を呑み込むと、前のめりに身を乗り出して、座り込んだまま荷物を整理しているエリアスの腕をつかんだ。


「ありがとう、エリアス。あの、さっきは叩いてごめんなさい」


 勇者様の頬に平手打ちを入れるなんて、結構とんでもないことをやってしまったのかもしれない。


 もごもごと謝れば、エリアスは身を寄せたアキの頭をよしよしとなでながらほほ笑んだ。


「ああ、それはもう大丈夫だよ。俺もぶしつけに見て悪かったから。いまだに頬がひりひりするけれどね」


「だから、ごめんなさいってば。エリアス、意地悪ですね!」


 わざとむっとしてみせると、エリアスはくっくっと楽しそうに笑った。さっきの平手のお返しとばかりに、からかわれているのかもしれない。


 エリアスはふとアキを見つめると、その背中に腕を回してそっと抱き寄せた。


「――君が無事でよかった。君が魔物に襲われて足を踏み外したときは、本当に、どうしようかと思ったんだ。君を失うんじゃないかって、とても、怖かった……」


「エリアス……」


 耳元でささやかれる彼の声に、アキはただ静かに耳を傾ける。


 いま自分たちのいる地下水路は、遺跡というよりは地下洞窟のような雰囲気で、暗がりと湿気で肌寒いのだけれど、こうして二人で寄り添っているだけで、体も心もあたたかく感じられた。




 黙って自分の話を聞いてくれるアキをやさしく抱きしめながら、エリアスは自分の心の内を吐露するように、とつとつと言葉を続けていた。


「……アキ、俺は勇者だから、あまり、人や物に……執着するべきじゃないんだ。俺が守るのは世界であって、特定の大切な誰かではないから。大切な人を作ると、もし、世界とその人どちらかしか救えないときがきたとしたら、きっと勇者として世界を優先しないといけないから。だから、ずっと一人で生きて、戦って行こうと思っていたんだ。――けれど……」


 エリアスは、アキの背中に回した腕に力を込める。


 言うべきではないのかもしれない。伝えるべきではないのかもしれない。


 けれど、こうして彼女に触れていると、彼女が好きだという気持ちがあふれてくるのだ。彼女を失ったら怖いと、どうしたいいのかわからないと恐れるほどに。


 エリアスは、アキの額に自分のそれを当て、掠れるようにつぶやく。


「――けれど俺は……、君のことが……」


 勇者がこんなにも孤独なものだなんて、思わなかった。


 皆から英雄として愛される勇者。


 けれど、本当に心を通わせるただひとりの人がいるわけではないのだ。


 それは結局、誰からも愛されていないのと一緒なのではないだろうか。


 人を愛することもなければ、人に愛されることもない。


 だったら自分は、なにを守るために戦っているのだろう。


 世界のため……なのだろうか。


 だったら、世界は自分のことを愛してくれるのか。


(――勇者は、どこまでも孤独なんだ……)


 そこまで思いつめて、エリアスは頭を振った。


 そうだ、自分は、自分も周りも傷つけることがないよう、笑顔以外の感情は全て捨てようと決めて生きてきたのだ。


(だから、アキに気持ちを伝えるなんて、許されないこと――)


 エリアスは、そっとアキの体を離す。


「ご、ごめん、アキ。俺、言ってはいけないことを君に伝えようとして……いた。だから、今のは忘れてほし――……」


 いつものおだやかな笑顔を浮かべてエリアスが顏の前で手を振ると、おもむろにアキがむんずとその手をつかみ、身を乗り出して自分の唇をエリアスのそれに当てた。ふわりと香るアキの女性らしい甘い匂いと、初めて感じた唇の柔らかい感触に、エリアスは息をするのも忘れ、赤面したまま硬直する。


 アキもエリアスと同じくらい顔を真っ赤にしながら、それでも彼から視線をそらさずに真っ直ぐに見つめた。


「エリアス! あの、私っ……!」


 呆然としていたエリアスは、はっと我に返って姿勢を正す。


「は、はいっ!」


 思わず敬語で返すと、アキも勇気を振り絞った様子で両手の拳を握った。


「私もっ、あの、エリアスのことが、す、好きなんですっ!」


「――え?」


 すっとぼけたような声が出てしまう。


 ――アキも、俺のことが、好き……?


「エリアスは勇者様だから、きっと私なんかがあなたのことを好きになって、自分の気持ちを伝えたら、困らせるだけだって思ってたんです。エリアスは、優しいから……。だから、ずっとこの気持ちは言わないでおこう、そのぶん一番近くにいて支えていけたらって思っててっ……」


 言いながら、アキの瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちる。


「ご、ごめんなさい……! なんか、嬉し、嬉しくてっ……! ずっと伝えられないと思ってたから、もう私、これで充分――……」


 涙で濡れた顔で、えへへ、と気恥ずかしそうに笑うアキに、エリアスはたまらなくなって彼女の腕をつかんで勢いよく引き寄せる。


 ためらう、ためらうけれど……。


 今だけは、勇者ではなくただのエリアスという一人の男として、彼女に気持ちを伝えても、いいだろうか――。

 

 エリアスはアキへの想いが込み上げるままに、自分の胸元に埋まる彼女の耳元に口を寄せて、ささやくように伝えた。


「――俺も好きだよ」


 びくりと、アキが自分の腕の中で震えるのがわかる。


 エリアスは、あふれ出る思いを全身で伝えるように、彼女の体を強く抱きしめた。


「俺も、アキのことが好きだ。王城で励ましてもらった、あのときから、ずっと」


 ずっと彼女に憧れて、恋焦がれてきたのだ。


 アキと同じで、この想いは許されないことだと、相手を困らせてしまうだけだとわかっていながら。


 こうして自分の気持ちを彼女に伝えることも、本当は間違っているのかもしれない。取り返しのつかないことをしてしまっているのかもしれない。


 けれど、彼女と想いが通じ合ったことが嬉しくて、これ以上ないくらい幸せなのだ。


 生まれてきてよかった、生きてきてよかったと、初めて思えるほどに。


(俺、勇者として一人で戦い続けるために、自分の幸せなんて全部捨てようと思っていたのに……)


 それを建前に殻に閉じこもっていた自分を、彼女が救ってくれたのだ。『勇者の片腕』、まさにその名のとおりに。


 勇者は特別な人を作ってはいけない、本来、そんな決めごとはない。


 今までの自分は、己の力に自信がなく、大切な人を傷つけること、それによって自分が傷つくことを恐れていただけなのだ。


 だったら、彼女も世界も守れるくらい自分が強くなればいい。


 ――俺は、勇者なんだから。


「アキ、あの……」


 お互いの速い心臓の音が聴こえてしまうのではないかと思いながらも、二人はぴたりと寄り添う。


 言葉の先を促すように見上げてくるアキに、エリアスは飾らない表情で嬉しそうに笑いかけた。


「俺のことを、好きになってくれてありがとう。俺、君のおかげで、初めてこの世界でひとりぼっちじゃないんだって、思えたよ」


 ――誰よりも大好きな君が、俺を必要としてくれたから。


 エリアスは、そっとアキの手を取る。


「俺、君のこともこの世界のことも守れるくらい、立派な勇者になってみせるから。だから――俺の傍にいてください」


 アキは目を見開くと、大粒の涙をぽろぽろとあふれさせる。


「私も、この世界であなたに出会えてよかった……! エリアス、大好きです! ずっと、一緒にいてください」


「――うん」


 エリアスは、アキの涙を拭うように彼女の頬に手を添えると、少し首を傾いで顔を寄せる。


 お互いに目を閉じれば、そっと触れ合う唇から熱情が伝わるようで、あなたが好きだという気持ちが体の奥からあふれ出すようだった。


 唇を離して互いを見つめ、二人のおでこを当てて幸せそうに笑いあう。


 ――もう、自分は、ひとりじゃない。

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