第5話:深淵の数式=生活の知恵
ゼクスによる魔法講義が始まって数日。
村の広場では、カイルとリナがゼクスの展開する複雑な魔導数式を前に、目を白黒させていた。
「いいですか、魔法とは、体内の魔力粒子を大気中のエーテルと同期させ、この幾何学的な数式によって現象を固定する『精密作業』なのです。……さあ、この初歩的な火球の術式、展開しなさい」
ゼクスが空中に描いたのは、常人なら一生かかっても理解できないほど緻密な術式だった。
彼にとっては「初歩」でも、人間にとっては国家宮廷魔導師レベルの難易度である。
((……フム。やはり人間には早すぎたか。だが、これを苦労して習得させる過程で、ミラ様を惑わすこのアルドという男の底を見せて……))
ゼクスが内心でそんな計算をしていた時、傍らで数式を眺めていたアルドが、小さく「ああ……」と呟いた。
((……ん? これ、もしかしていつも水汲みの時にやってる、魔力の『流れ』を整える感覚に近いかな? それを、少し指先に集めて……よっ))
アルドは特に気負うこともなく、数式に触れることすらなく、ただ指先を軽く振った。
その瞬間、ゼクスの描いた術式が共鳴し、太陽と見紛うほどの巨大な火球が虚空に出現した。それも、ただ大きいだけではない。
一切の熱を外に漏らさない、究極に安定した超高密度のエネルギー体だった。
「……なっ!?」
ゼクスの眼鏡が、驚愕でずり落ちる。
((馬鹿な! 私の術式を一切無視して、根源的な魔力操作だけで現象を上書きしたというのか!? 構成維持のための演算(計算)はどうした!? 数式の固定は!? まさか、無意識に全自動で行っているとでも!?))
「あ、すみません。ゼクスさんが丁寧に数式を描いてくれたから、イメージが湧きやすくて。……出来ちゃいました」
アルドは申し訳なさそうに笑い、指先を消すと、火球は一瞬で塵一つ残さず霧散した。
「アルド殿……。今のは一体、どのような理屈で? 貴方の魔力制御、私の理論を数万工程は飛び越えていましたが……!」
ゼクスが詰め寄る。
あまりの異常事態に、冷静な軍師の仮面が剥がれ落ち、声が震えている。
アルドは少し困ったように頭を掻いた。
「いや、本当にたまたまですよ。いつも家でやってる『水汲みの時の魔力の回し方』とか『草むしりの時の呼吸』に似ていたので、それを応用しただけなんです。やっぱり、ゼクスさんの教え方が上手だったからですね。ありがとうございます」
アルドは本気でそう思っていた。
ゼクスの描いた数式という「図解」があったから、自分の感覚を言葉(現象)にしやすかったのだと。
((……水汲み? 草むしり? 私が一生をかけて組み上げた至高の魔導理論が……そんな日常雑務と同列だと……!?))
ゼクスは膝を突き、その場に崩れ落ちそうになった。
目の前の男は、魔法という神秘を、呼吸をするのと同じ「生活」の次元で扱っている。
「……は、はは……。僕の教え方が、上手い……? ……フフ、あはははは!」
ついにゼクスの精神が限界を迎え、口調が崩れる。
アルドは「あれ、ゼクスさん、急に笑い出してどうしたんだろう?」と首を傾げたが、ミラの視線だけは、アルドの背中にさらに熱い熱を帯びていた。
「流石はアルド様。見事な魔法でしたわ」
「え? ……あ、はい、ありがとうございます、ミラさん」
魔王軍最高の知性が、純朴な青年の「日常」の前に完膚なきまでに敗北した瞬間。
カイルとリナは「やっぱりお兄さんは凄いんだ!」と目を輝かせ、より一層修行に打ち込む決意を固めるのだった。
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