肆 私のために争わないで
鳥の鳴き声があまりにも長閑で、これまでのこと全てが夢だったのだと錯覚した。
しかし、寝具の肌触りは自分の部屋のそれではなく、ぱりっと固くておまけに白い。
やはり、帰れてはいなかった。落胆の溜息が零れ落ち、朝の空気にすんなり溶ける。
朝陽の眩さに目を細めながら、私はゆっくりと起き上がった。部屋の中は相変わらず簡素だけれども、真っ暗だった昨夜とは打って変わって本来の色を取り戻したので、幾分かは人が生きている気配を感じ取れるようになっている。
アンティーク調の家具は赤みを帯びたブラウンで猫足。透き通ったガラスペンは中心を薄青やピンク、様々な色が渦を巻くように彩っている。教科書も重厚感があるとはいえ、それぞれ違う色で塗り分けられていて部屋の雰囲気にぴたりと調和している。幾何学模様のラグもふかふかとして柔らかで、裸足で歩きたい魅力がある。現実の自室とは似ても似つかない、なかなかにファンタジックな部屋だ。
本棚から一冊、教科書を引き出してみた。タイトルは「風魔法・応用」。使える自信は皆無だとしても、興味はある。
酸素濃度を変える方法――掌に大気を感じ、風の波動を酸素と混ぜ合わせる。掌を対象となる空間に向け、混ぜ合わせた波動を開放する。濃度は指の動きに呼応する。他の気体、気温の操作も同様。また、水属性保有者の場合は、空気中の水分を操ることも可能。
教科書を読みながら掌を広げ、意識を集中させてみる。ほんのりと温かさを感じるけれども、これは私の体温だろう。大気を感じ取るなど到底無理そうだ。そもそも風の波動を混ぜ合わせるとはどういうことか。波動の開放とは何か。
生まれ持った波動を利用して魔法を使う。そう書いた記憶はある。しかし具体的に波動とやらをどのように感じるのかまでは考えていなかった。この世界の住人たちは、感覚的に波動を感じ、魔法を使うのだろうか。息をするように、自然に。私とは違って。
早々に波動は諦め、外に出てみた。もしすぐに帰れるとしたら、この景色はこれで見納めなのだ。最後にもう一度だけでも、私が生み出したこの世界を、目に焼き付けておきたい気がした。
開いていた適当な扉から外に出ると、石畳の広場に続いていた。四人掛けのベンチが隅にいくつか設けられている。それ以外には何もない、殺風景なところだ。
「お前、こんなとこで何やってんだ」
不意に後ろから声をかけられ、思わず硬直した。振り返ると、昨日共に壇上に上がったイケメンが立っていた。
フウカを「お前」と呼び、誰もいない早朝に魔法の練習をしに来る、俺様系の意外な努力家。火属性代表のイケメン、シャーマ・イグニスだ。
「珍しいな、この時間だと誰とも会ったことなかったのに。お前も練習か?」
生意気そうな青い瞳に見つめられ、胸が高鳴る。さすがは私好みに作られたイケメン。眼福である。
「そうじゃないんですけど」
けど、何なのだろう。何から話せばいいのか。順序立てて話すのが難しい。
ここに来たのはこの世界をもう一度見たかったからで、しかしそんなことを話したところで何にもならずややこしいことになるだけだ。別の世界から来たとか魔法が使えないとかの話をするにしても唐突過ぎて困らせてしまうだけだろう。
思考はまとまらず、ぐるぐると堂々巡りを始める。うまく言葉を継ぐことができない。シャーマは怪訝そうな表情をしていて、それが更に堂々巡りに拍車をかける。
何か言わなければ何か言わなければと、回らない頭を回していると、突然きゅるきゅると腹の虫が鳴いた。
そういえば昨日の昼頃から何も食べていなかったことを思い出す。最後に食べたのは遅めの朝食、焼き鮭と卵焼きだ。かっと熱くなった顔を逸らす。この世界に来てから何回赤面しているのだ、私は。
シャーマは何だよ腹減ってたのか、と笑い、大きな紙袋を見せるように持ち上げた。
「食うか?」
そう言ってシャーマはベンチの端に腰掛けたので、私も礼を言ってそれに続いた。
紙袋の中身は、バゲットサンドだった。新鮮な野菜とローストビーフが挟まれた、贅沢な朝食。一人では食べきれないほどの量がある。
「旅の前最後の朝食だからってこんだけ持たされたんだよ、食いきれねえっての」
ぼやきながら器用に半分に分けて、手渡してくれた。彼は王の息子なので、使用人が用意してくれたのだろう。
一口かじると、上質な肉の旨みが口内に広がった。半日以上ぶりの食事だけれども、たくさんの新鮮野菜とさらりとした玉ねぎソースのおかげで胃にもたれそうな感じはしない。とことん私に都合がいい世界である。
「俺さ、毎日ここで朝練やってんだよ。昼間は人集まってうぜえから」
そんなことは知っている。なんせ私は作者だ。生みの親だ。
それに、この見目の麗しさと実力があれば、ギャラリーができてしまうのも無理はない。ソリッドな質感の金髪には赤いメッシュが入り、目は深い青。全体的にほっそりとした体をしているものの、鍛え上げられた手足はしなやかに引き締まり、いわゆる細マッチョな体形をしている。火属性の実力もナンバーワンと申し分なく、おまけに王の息子である。こんなの目立って当たり前だ。設定は盛りに盛ってある。
「お前も練習してんのか?」
「まあ、そうですね」
曖昧に濁してバゲットサンドをかじる。天才主人公様なのでおそらく練習なんかしていないだろうとは思うのだけれど。
「まあって何だよ」
しかし、意外にもシャーマは噛みついてきた。青の眼光が鋭さを帯びる。
「つーかさっきからなんで敬語? いつも普通に話してんのにさ」
さっと血の気が引くのを感じた。そういえばフウカとシャーマはクラスメイトだ。畏まった話し方はしていなかったのかもしれない。
シャーマは眉間に皴を寄せて私を睨んでいる。もう本当のことを話す以外、選択肢は残っていないように思えた。
「あの、私、フウカだけど、フウカじゃないんです。別の世界から来て、なり代わっちゃった、みたいな」
精一杯言葉を選んで、途切れ途切れに話した。下手なことを言うと焼き尽くされそうだ。
「だから、魔法も使えなくて」
「何言ってんだよお前、この前の試験完璧だっただろ」
「こうなったのは昨日からなので、本当にわからないんです。部屋は真っ暗だし、明るくする魔法なんて知らないし、そもそも私がいた世界には魔法なんて存在しないし。だから、帰りたいんです。帰してほしいんです。この学校なら、そういう魔法が使える人がいないわけではないでしょう?」
一気に話して息をつくと、気まずい雰囲気のまま、私たちは沈黙した。シャーマの顔からは血の気が引き、青白くなっていく。
「嘘だろ? 部屋の灯りなんて小学生でもつけられるってのに」
シャーマの声は、私に負けず劣らず震えていた。
天才クラスメイトの弱体化、というよりは、なり代わりか。そう簡単に受け入れられるものではない。
「だから、一緒に行くことはできないんです。魔法が使えない私は、ただの足手まといです。私が元の世界に帰ったら、元のフウカが戻ってくるかもしれません」
「つまり、親父にかけあってほしいってことか」
シャーマはそう呟いたきり押し黙り、考え込んでしまった。
時間が気配を殺して淡々と流れていく。鳥の鳴き声だけが伸びやかに響き、気が遠くなっていくような感覚を覚える。
何か言うべきだろうか。しかし、何を。
確かに王なら私を戻すことができるかもしれない。なんせこの国の最高権力者で、今は一線を退いたものの、最強の魔法使いだったという設定付きなのだ。
しかし本人からそれを言われると、どうも肯定しづらい。あなたを利用しますと宣言するようでどことなく心苦しさがある。またそれだけでなく、彼と王の関係はそれほどよくなかったと記憶している。
そもそも私は王の力を借りようとまでは考えていなかった。各属性最強の生徒が五人もいれば、誰かしらが転移系の魔法を使えるだろう、と思っていた程度であった。
重く沈んだ雰囲気に、太陽の眩しさが苦しい。息が詰まる思いをしながら、互いに互いの言葉を待つ。永遠かと思えるほど長い時間、そうして私たちは沈黙していた。
下手に声をかけることができずぐるぐると考えていると、レタスを咀嚼するしゃこしゃこと小気味いい音が聞こえてきて、思わず隣に視線をやる。
「まあ、食えよ。腹減ってんだろ」
私の顔は一切見ずにそう呟いた。彼なりの優しさだろうか、言葉は乱暴でも声色は優しい。何を考えているのかはわからない。伏した深い青の目は不安そうにも悲しそうにも見える。
彼に話すのは間違いだったのかもしれない。とはいえ言ってしまったことは仕方がないので、倣って残りを口にした。
二人並んで黙々と食事を続ける。食べ始めても、気まずさは払拭されなかった。互いに一切目を合わせずに、少しずつ口に運び続けた。結論を先延ばしにするように、ゆっくりと。
「さっきの話だけどさ」
私が食べ終わるのを待って、シャーマが話し出した。
「言ってみるよ、親父に」
青い目はまっすぐ前を見据えている。声も、もう震えてはいない。
「え、本当ですか?」
「足手まといに来られても困るからな」
「いいんですか?」
「は?」
だってお父さんのこと、苦手なんですよね。
そう言いかけて踏みとどまった。私は別の世界の人間であるということしか明かしていない。この世界のことを知っていたら不自然だろう。
「いえ、ありがとうございます!」
私は無邪気にふるまうことにした。感じたことのない、どこか特殊な罪悪感を覚えながら。
「風代表、誰になるんだろうな、あいつが本当に戻ってくりゃいいけど」
「何の話だい?」
長閑な空気を一瞬で凍てつかせるような、ヒヤリとした声が鋭く響いた。
「ああ、お前か」
見ると、広場の入り口に水属性代表、オルヴァー・ラムールが立っていた。さすが水属性と言ったところか、水色がかった銀髪がさらりとなびき、目はガラスのように透き通って美しい。全体的に水や氷を思わせる容姿をしている。
「聞こえたんだが、ホワイトフォードが足手まといだと? 馬鹿なことを言うものだ」
オルヴァーはカツカツと靴音を鳴らしながら近づいてくる。冷めた表情は乏しく、どうにも読めない。しかし、声色は怒りを含んでいるように感じられる。
「なんかよくわかんねーけど、昨日なり代わっちまったらしい。部屋の灯りのつけ方もわからなかったんだとよ」
「記憶喪失の類ではないのか? こんなに距離があっても、魔力の強さを感じる。あの入り口にいてもだ。イグニスの力ではない。風属性特有の波動が伝わってくる。お前とて感じないわけではないだろう、イグニス」
耳を疑った。
私から、魔力を感じる?
この世界に来てから変わった感覚は特にない。ほとんどいつも通りだ。
「き、記憶喪失だとしても、今魔法が使えないんなら連れてけねえだろ! 危険だ!」
シャーマは完全に図星といった様子で噛みついた。どうやらシャーマも、魔力とやらを感じ取っていたらしい。だからこその反応、沈黙だったのかもしれない。俄かに信じがたいけれども、私にも魔力が宿っているようだ。それも、強力な魔力が。
「これだけの力があるのだから、私たちで教えればいいだけのこと」
オルヴァーは涼しい顔でさらりと答えた。澄んだガラスの目が鋭さを帯びて光る。
「それとも、庇護すべき女性の方が、王子である自分より強いのが不満なのか?」
「何だと?」
凍てついた空気に、一瞬で火が付いた。チリチリと焦げるようなにおいが立ち上る。それでもオルヴァーは動じず、鼻で笑って淡々と続ける。
「次期国王として、威厳も何もあったものではないからな」
「てめえ!」
シャーマが声を荒げたその瞬間、火柱が石畳を突き破って噴き出した。怒りの炎は完全に燃え上がり、炎の色が全身に映ってシャーマの全身が真っ赤になる。拳を強く強く握ると、炎がますます強くなる。魔法は手の動きに呼応しているようだ。
シャーマはオルヴァーを睨みつけながら、炎を段々と大きくしていく。こんなに派手で、危険な魔法を、人にぶつけるつもりなのだろうか、この男は。こんな火柱、火傷で済むわけがない。背筋が凍りつき、震えが足先から駆けあがってくる。
小説や漫画の世界では、中高生がこの程度の力を使うのは日常茶飯事、今日日どのような作品でも見受けられる。しかしそれはあくまで虚構だから見ていられるのだ。登場人物はどんな怪我をしても命を落とさない。大量出血していようが骨折していようが、すぐに次の動作に移すことができる。でも、生身の私たちは。
「そんなに簡単に挑発に乗るようでは、この国は滅ぶだろうな」
溜息交じりに呟くと、オルヴァーも火柱に向かって優雅な動作で左手をかざした。そして右手で私を引き寄せると、離れるなよ、と囁いて半径一メートルを凍らせた。転びかけて思わず上着の裾を掴み、どういうことですかと聞こうとした、次の瞬間。広場に大雨と言うには生ぬるいほどの滝のような雨が落ちてきた。
大水槽でもひっくり返したかのような大量の水で火柱は消えた。しかし水は引かずに溢れ続ける。私たち二人は足場ごと浮き上がったので、不安定ではあるものの無事だ。しかし、シャーマの姿は見えない。
「あの! シャーマは!」
オルヴァーにしがみつきながら叫ぶ。ごうごうと唸る流れに負けないように、大声で。
「この程度で死ぬ男ではない。死ぬようならそれまでだ。国王など務まるはずがない」
オルヴァーは表情一つ変えず、あっけらかんと言い放った。冷たい物言いに涙が滲む。
ここまで冷酷なキャラクターを生み出した自分に絶望する。人の心など持ち合わせていないかのような振る舞いに、どうしていいかわからない。
そして何より、シャーマが心配だ。強力な魔法が使えるとはいえ、私と変わらぬ人間である。感情がある。物も食べる。ただのキャラクターではない。血の通った人間だ。
それでもこの男に掴まっていなければ、私も濁流に飲み込まれる。助けに行くだけの勇気や実力は、私にはない。震えながら訴えかけるのが精一杯だ。
「やめてください! お願い!」
しかし私の声は、オルヴァーには届かない。すっかり無視を決め込んでいる。
水流が勢いを増し、氷上はだんだんとバランスが取れなくなってきた。気を抜けば今にも投げ出されてしまいそうだ。
足場の氷がぐらりと大きく揺れたその時、ふと、視界に赤メッシュの金髪が入り込んだ。この激流の中、溺れずどうにか凌いでいるらしい。しかし時折沈んでは顔を歪めて浮上する、それを繰り返している。目測では、互いに腕を全力で伸ばせば、届くかもしれない距離だ。
「掴まって!」
這い蹲って左手で足場の縁を掴み、右手を目一杯伸ばした。シャーマもそれに気付き、手を伸ばす。しかし互いの手は空を切って、なかなか触れることができない。気付いたオルヴァーが何か言うのも構わずに、限界まで身を乗り出して手を伸ばすと、やっと互いの指先が触れた。
柔らかくも冷え切った指を絡めとって一安心した、次の瞬間。
流れが一際強くなり、冷たく暗い水の中に引きずり込まれてしまった。
ミイラ取りがミイラになるとはまさにこのこと、我ながら無様だ。情けない。
息が続かず、体も冷え切り、動けない。伸ばした右手だけが凍り付いたまま、水面から顔を出している。
どうやら私はここで死ぬらしい。現実世界では行方不明のまま死亡か。異物は排除される運命だったのか。他人事のように、なぜか思考は冷静だ。
私も魔法が使えたとしたら、二人の魔法を簡単に抑え込むことができたのだろうか。もしそうだとしたら、こんなことには。
外気に触れている右手が熱い。体が冷たいため、なおさら熱いと感じるのだろうか。
乾いた熱い空気が、私の右手を温めていく。右手、腕、肘、肩。末端から順に温まるのを感じる。死に近づいて冷たさを感じなくなったのか、それとも。
体が浮いたのか、水位が下がったのか。いつの間にか私は水面から顔を出していた。ぼうっと虚ろな意識の中で、求めるままに息を吸う。よく晴れた夏の日のような、熱く乾いた空気が肺を満たしていく。
「フウカ!」
バシャバシャと音を立てて、シャーマが近付いてくる。走っているようだ。水位は相当下がったらしい。
「しっかりしろ! 大丈夫か!」
腕の中でぼんやりとしながら悲痛な声を聞く。大丈夫、と言いたいのに声が出ない。漏れるのは吐息だけだ。疲れのせいか瞼が重く、眠るように目を閉じた。
「おい、フウカ!」
「どうしたんですか?」
「丁度よかった、治癒を頼む!」
抱きかかえられる心地の良さに身を任せ、シャーマの無事に安堵しながら、そのまま意識を手放した。