第41話「簒奪者たちの宴」
◆ユウゼイ◆
宮子を退けたユウゼイは、隔壁を破り循環機構へと踏み込む。
そして虚数変位の影響を免れ、しかし機能停止している作業機械群を蹴散らしながら、縦坑に飛び込んだ。
辿り着いたのは早苗のいる基部構造体……ではなく、そこから少し上の階層。
和葉の最終観測地点だった。
早苗に先んじて和葉を押さえる腹づもりでいたのだ。
しかし――。
「こいつは……。和葉は触災に成り果てたか」
その階層の床面には巨大な穴が空いていた。
固体であるはずの構造材は、そこかしこで煮立った湯のごとく泡立ち、でき損ないの器官をその内より吐き出し続けている。
区画を隔てる壁すら触変に呑まれ、空間図は露ほども役に立たない。
けれどこれこそ、ユウゼイの見知った在るべき触災の姿だった。
取り込もうと蠢く真衣を踏み散らし、ユウゼイはその縦穴の淵に立つ。
絶壁は垂直からわずかに傾斜を描き、下層へと続いているようだった。虚数変位――空間そのものの真衣化により、ユウゼイの知覚を以ってしても、底の様子をうかがうことはできない。
全身の真衣が活性化し、残された神経系を蝕もうとしているのが分かる。
環京の基幹構造に蝕変が生じるのも時間の問題かと思われた。
――和葉さんが呼んでます。でも、ここじゃダメだから。
もしや……。
ユウゼイの脳裏で、早苗の残した言葉が明確な形を持ち始める。
早苗が和葉を求めたのではないとしたら。
求めているのは和葉だ。だとするならば。
そのとき。早苗とを繋ぐ最後の糸、調律が途絶えた。
ユウゼイの身体は思考より早く動く。
いかなる電波遮断を用いようと断つことのできない調律。それが解除された意味。
考えてしまえば動けなくなったに違いない。
腸管のように波打つ断崖へとユウゼイは足をかける。そして壁面を蹴りつけると、自由落下など比較にならない速度で深淵目掛け駆け下りた。
そしてユウゼイは見る。
絡み合う皮の裏返った大蛇。サイズを間違えた巨大な消化管の山。
奈落の底、早苗を最後に感じた場所に、それはいた。
いたるところに突き出た末端には、唇の無い、しかし人のものを思わせる顎。
そしてその顎は、汚らしい咀嚼音を響かせながら、増大する己が身に前歯を突き立て貪り喰らっていた。
想像を絶する光景に、ユウゼイの意識が刹那戦いから逸れる。
その一瞬。狙い澄ましたかのように、床面を食い破り現れ出でた巨大な顎がユウゼイ目掛け襲い掛かった。
咄嗟に飛び退くその身は、極限まで置換された真衣によって爆発的な瞬発力を発揮する。
だが直径四メートルにもおよぶ真衣の大蛇は、それを凌駕する速度でユウゼイに迫った。
ユウゼイが回避を断念し、ミスリル刀を構えんと動く。
まさにそのときだった。
傍らに生じた新たな顎が、まるで妨げるように迫り来る巨顎に喰らいついた。ふたつの顎は縺れ合い互いの真衣を引き千切りながら激しくのた打つ。
『まだ、自我を残しているのか?』
蝕災とはただ無尽蔵に増大し続ける真衣の塊でしかない。
今ユウゼイの眼前の在り様は、現象のひと言で片付けられるものではなかった。
人為。その介在が窺える。
もし先の挙動が和葉の意思であるのなら、恐らくは早苗も。
意識が衝動から理性に塗り換わる。
「早苗! 俺は来たぞ!」
ユウゼイは声を張り上げ蛇の群れへと飛び込む。
聴覚など持たないだろうに、声に引かれるように巨大な口腔が殺到する。だがそれらも、新たに生じた別の顎に脇から喰らいつかれ、動きを止めていく。
確信は口もとを歪ませた。
抜けてきた顎を手にしたミスリル刀で両断し、ユウゼイは突き進む。刃を介して伝わる干渉圧は凄まじい。が、度数九九・八三を誇るユウゼイを前に、その精度はお粗末に過ぎる。
直撃さえ避ければよかった。宮子に比べれば、どうとでもなる相手。
ゆえにユウゼイの足は止まらない。
臓物の山を疾駆し、そして――。
蝕災を構成する真衣に、そこだけ純白に変質した一画を見つけた。
白化。それは早苗の持つ薄半の症状。
追い縋る大蛇を切り払ったユウゼイは、迷うことなくその白色の真衣に手を伸ばす。
接触。ユウゼイは換衣を構成する真衣をそぎ落とし、干渉のための容量を確保する。間髪を置かず。ユウゼイによって強制的に失活させられた真衣が、流体化し周囲に飛散した。
ユウゼイの手が真衣に覆われた白い腕を掴む。
「生きているな?」
引き寄せ抱きとめた早苗は、装衣かと思わせるほど、全身に重度の半症を引き起こしていた。幸いにして蝕変にはいたってはいないが、いつそうなるとも知れない。
「和、葉さん……この、奥……」
「その前に結べ」
気丈にも和葉の所在を告げんとする早苗の言葉を、ユウゼイは一蹴する。
「……はい」
声に潜んだ逡巡をユウゼイは聞き逃さなかった。しかし、そのことを口にはしない。
結んだ意識を介し調律が再開され、ユウゼイの真衣にじわりと白が滲んだ。半症の拡大が白化を活性化させたのだろう。同時に早苗の懸念を理解する。身を蝕む真衣特有の圧力は感じられないが、それだけに不安は大きいに違いない。
早苗と切り離されたことで、周囲の真衣壁に色味が差し始める。失活で溶かされた真衣を食い破り、ぶくぶくとした肉腫が湧き出す。
それは早苗の示した一点に違いなかった。
いち早く白化の影響から抜け出した蝕災へと、ユウゼイは刃を走らせる。寸時、刃を介して自身の真衣を送り込む。
赤黒い腫瘍は膨れ上がる。そして弾け、血液を思わせる飛沫を撒き散らした。
どろりと崩れる真衣。その奥に、ユウゼイは和葉を見た。
真衣に半ばまで侵された脳髄と、繋がる変性部位。そこに笑っていた和葉の影は、見るべくもない。けれど、ユウゼイにもそれが和葉であると分かった。
迷いはなかった。ユウゼイはそのふたつを、一刀のもとに斬り伏せる。
――手間を掛けさせちゃいましたね。でも、ありがとう。
刃が変性部位を抜けるその瞬間。ユウゼイは和葉の声を聞いたような気がした。
核を潰され触災は崩壊を始める。
気が緩んだのだろう。意識を手放した早苗を胸に抱き、ユウゼイはその場から離れるべく一歩を踏み出す。
ぱちぱちぱちと、蝕災の食い荒らした広大な空間に乾いた音が響いた。
「プラスか。その名は伊達ではないようだ」
迎えたのは場違いな拍手と賞賛の言葉。
驚愕にユウゼイの足は止まる。
男はいつの間にかそこにいた。
外見年齢は三十代前半、くすんだ金の髪に藍の瞳。翻訳機も使わず流暢に日本語を話すが、西側の風貌に加えプラスの発音。この国の人間ではないだろう。恐らくはカーラの関係者。
仕立てのいいスーツを着崩した自然体に、ユウゼイの意識は縫いとめられていた。
蝕災の虚数変位のただなかにあったというのに、そのスーツには真衣化の痕跡すら見出すことができなかったのだ。
「久遠研究室はカーラの駒としての価値を示した。素直に喜ぶといい。紛うことなき君の掴んだ勝利だ」
そしてなにより。虚数変位により見通しが利かなかったとは言え、自らその存在を明かすまでユウゼイの真衣知覚域にとらえられなかったという事実。
只者ではない。
「気に入らないか、稲葉ユウゼイ。得られたのは互いの望みうる最高の結果だろう?」
沈黙を驚愕ではなく反発と解釈したのは、ユウゼイをそれだけ高く評価したということの表れなのだろう。
そして、ユウゼイの知覚域に新たに人影が映り込む。
「サイアス、あなたは少しお喋りが過ぎると思うの」
聞き覚えのある、人を小馬鹿にした声。
「君みたいな腐れピッチのお遊戯に、最後までつき合った馬鹿がいるんだ。褒美くらいあって然るべきだろう、なあカーラ・アザミ」
頭上へと視線を遣る男の傍らに、宮子は降ってきた。
重力を無視したこつりという軽い足音。身体の周囲には真衣の靄が漂い、ユウゼイとの戦いで失われたはずの手足がその身には備わっていた。
しかし宮子によってもたらされた男の情報が、宮子の身以上にユウゼイの気を引く。
「サイアス、その名には聞き覚えがあるぞ。……あんた、ヤノユラのアシュレイ・サイアスか」
声は掠れた。
ヤノユラ傭兵団。民間軍事会社たるシャマシャナ総合警備保障《カーラ》と同じ、戦争屋だ。
組織規模ではカーラはおろか、業界大手とされる各社に大きく水をあけられているものの、戦果で言えば五指に食い込む。
アシュレイ・サイアスとは、そのヤノユラ傭兵団のトップにして等級AAAの罹患者。永山と同じ、正真正銘の化け物だった。
「くくく、情報を単なるデータではなく知識として身につけている点は評価に値する。しかしこれで君も逃げ道を失ったというわけだ」
世界の均衡を司る軍事の頂。単にビジネス上でのつき合いなら構わない。
だが、サイアスが口にしたのは、その域を超えることの暗示。そしてあえてそれを伝える意義。
確かにユウゼイはこの戦いの中で比類なき勝者であった。しかし同時に、免れ得ぬ敗北を背負うこととなったのだ。
「すべてはカーラの掌の上か」
「悪いな。世とは常にそういうものだ。さて、ここに俺がいるのを他の誰かに見られても困る。早々に退散させてもらうとしよう。終わってみれば悪くない仕事だった。糞女に糞の始末を求められたときには反吐を漏らしそうにもなったが、久々に面白いものが見られたからな」
一方的に話を切り上げたサイアスは、返事も聞かず、暢気とも優雅とも言える足取りでこの場から去っていった。その姿が知覚域から消えるまで、ユウゼイは隙だらけのその背中に罵声どころか敵意すら向けることができなかった。
ユウゼイでは永久に届かぬ格の違いを、本能が悟ってしまったのだ。
不本意にも安堵のため息がこぼれる。肺もなにもかもを真衣に置き換え、現象としてのため息は伴わなかったが、それでもユウゼイは安堵を示したのだ。
そうしてからようやく、宮子へと注意を向ける。
「換衣か。なんでもありだな、等級AAというやつは」
「等級AA喰らいのプラスがよく言うわ」
直前まで殺し合いを続けていた相手に、醜態をさらしたものだ。
先までのユウゼイの有様では、殺してくれと言っているのに等しい。片腕でしっかりと早苗を抱え直す。
しかし宮子はそんなユウゼイを気にも留めなかった。
傍らを通り過ぎその背後、蝕災の核――朽ちゆく和葉の脳髄と変性部位のもとへと歩み寄ると、静かにその場に膝をつく。
宮子の手が和葉に触れる。すると、亡骸はかつて蝕害兵士がそうであったように墨色の真衣へと変じ、そして宮子の纏う装衣に溶け込んでいった。
敵意も害意もなく、ゆっくりと宮子が立ち上がる。
ユウゼイはその手に握られた物に気づき息を呑む。
そこには三日前、ともに買い物に出かけた折に和葉の買った、ミスリル製の首飾りがあったのだ。
「律儀なことだな。弔いのつもりか」
宮子はすれ違いざまに横目でユウゼイをうかがうと、薄く笑みを浮かべてみせただけだった。
和葉の死に悲しみを示すわけでもない。無力なユウゼイを嘲るわけでもない。その真闇を思わせる笑みに、自覚しないまま言葉に苛立ちが乗る。
「満足か。あの日見逃した時から、俺に和葉を殺させるつもりだったのだろう。間怠っこしいことをする」
「わたしたちが手を下すよりも、散々敵だと言い聞かせてきたオトモダチに殺される方が、すっきりとした気分で死ねるとは思わない?」
かっと頭に血が上ったのも一瞬。すぐに冷静さを取り戻したユウゼイは、逆に冷えゆく心を感じていた。
「それがおまえのやり方か」
宮子は和葉を嘲笑しながらも認めていたのだ。
漠然とした想像に過ぎない。否、妄想だろう。……そうであった方がどれだけ気が楽か。
ユウゼイの抱く苛立ちは、つまりは後味の悪さだった。
無駄と知りつつユウゼイは言わずにはいられない。
「和葉を思ってやるならなぜ――」
「切り札が破られたことをカーラは確認したわ」
遮るかたちで宮子が口にしたのは、八束という物語の終章。
それはすなわち、ユウゼイの行いがもたらした結末だった。
「カーラが八束から手を引くことを決めたのよ。もうすでに撤退は始まっている。事態は収束に向け動き出し、ただ混乱を助長するだけの軍に介入の大義名分は失われたわ。……もう少し遊んであげたかったけど、わたしにも退くように指示が出ているの。残念ね」
名残惜しそうに眼を細める。
邪気のない瞳を覗き視て、ユウゼイにはこれ以上宮子へと告ぐだけの言葉がないことを知るのだった。
「でも、愉しませてくれたお礼に良いことを教えてあげる」
「……聞いてやる」
「あなたは筋書きを用意したのがわたしだと勘違いをしているようだけれど、わたしも所詮この戦いに関わった演出家の一人に過ぎないわ。世の中はそんなに単純じゃないのよ。ふふ、折角拾った命だもの、賢明に生きることね」
初めて会ったときと同じように最後にひとつ小さな笑みを残すと、宮子は振り返りもせず、都市の闇へと消えていった。




