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111. 愛され神官が憎むもの

 私は疲れ果て、翡翠が薬湯を飲ませてくれたことをきっかけに、しばらく気絶状態で眠りに落ちていた。

 目が冷めたときは夕暮れ時で、ベッドを囲う薄絹のようなカーテン越しに、柔らかな翡翠の声が聞こえてきた。


「血は止まったわね、(アキラ)。よかったわ」


 私が玲につけた傷のことだとうっすら思いながら、それに応える彼の声が、静かに響くのを聞いている。


「もともと、薄皮一枚程度の傷だ。ほとんど出血もしてなかったから問題ないな」


「そうね。でも呪いの傷はごく稀に、今回の薫のように後から症状が出てくる時もあるから……もし翡翠宮に帰った後で悪夢を続けてみたり精神侵食があるようなときは、朱鷺子を頼って。玲の『通り道の負荷』が悪化しないといいのだけれど。


 もし高熱や、吐血直前みたいな状態になってしまったら、私と西羅が今日みたいに、浄化と解呪の儀式をする必要があるから、必ず連絡してね」


「……わかってる」


 玲の声は落ち着いていたけれど、隠せない疲労が滲んでいた。


 そうか。今回の私と同じで、症状が出た後でしか、呪いを解くことはできない。玲はほぼ回復してきたと言っていたけれど、通り道の負荷の療養期間中。これでまた吐血なんてことになったら、私は自分を許せないかもしれないと頭の隅で思う。


 カーテン越しに、翡翠の声がまた聞こえる。


「おそらく…風狼(カゼオオカミ)の呪いが増大してしまったのは、薫の心のいちばん弱いところに、つけ込まれたからだと思っているの」


「いちばん弱いところ?」


 玲は翡翠とは従姉弟同士だと言っていた。声の響きが率直で、気のおけない友達って感じで聞こえてくる。私はうとうとしながら、思わずその会話に引き込まれていた。


「薫が西の砦に来て、西羅を正気に戻すことに協力してくれてから……時々、思い出していたの。そして、考えてた。もし私が逆の立場だったら? って」


「…………」


 玲は黙って翡翠の話を聞いていた。翡翠は続ける。


「玲の真意がどうであれ、薫は玲を追いかけてここに来たのよね。一人で」


「そうだな」


「私が西羅を追いかけて、別の世界に行った……一人で別の世界に来たとしたら、そこでずっと生きると思ったときに、自分の存在の価値みたいなことを考えないかなって思ってたの」


「存在価値……」


「そう。西羅の役に立たなければ意味がない、って思うんじゃないかなって。だから、玲、これ以上薫が、玲に怪我をさせたって責任を感じすぎないように……」


「それも、わかってる」


 少し笑いを含んだような玲の声が聞こえて、足音がベッドに近づいてきた。


「薫自身が、わかってないんだよな」


 玲の声が、低くて優しい。いつもと変わらない……。私はうとうとしたまま、その柔らかな声と足音を聞く。そっと、枕元に座る気配がして、私はうっすらと目を開けた。


「ああ、悪い。起こしたな」


 目の前には玲が穏やかな表情で座っていた。夢うつつで、私は玲を傷つけた自分のことを許せないと思っていたけれど、玲の瞳には怒っているような光はどこにもなかった。


「あきら、……ごめんね……」


 掠れた声で名前を呼んで、必死に謝罪の言葉を紡ぐ。言いながら泣けてきて余計に声が掠れた。玲はそんな私を見て、窓際にいた翡翠の方を振り返って。


「翡翠、悪いが少し席を外してくれるか?」


「いいわよ」


 ふわりと微笑んで、翡翠が部屋の外へ出て行く。玲は扉が閉まったことを確認して、もう一度私を見つめた。私は寝起きで泣いたりして、どこかぼんやりした状態だったけれど、玲はそんな私の意識をすくい上げるようにはっきりした声で、言った。


「この前、馬車の中で好きだって言ったけど……もう少し詳しく言ってやる。俺は、おまえ以外は考えられない」


 その言葉は驚くほど私の胸を打ち、私は思わずゆっくりと起き上がる。


「薫」


 ゆっくりと、名前を呼ばれた。私はまだ、壊れた人形のようながくがくした感じがあって、ただ真顔で頷いている。そんな私に玲は触れずに、まっすぐ私の目を見て、告げた。


「存在価値なんて考える必要ないんだ。

 前に速水がおまえを傷つけたとき、薫は言ってただろ? 悪いのは速水じゃなくて呪いの方だって。それは本当に正しいんだ。操られたおまえが悪いんじゃない。

 俺が憎むべきは、俺の母さんの命を奪い、薫まで操った呪いを司る存在の方で、おまえじゃないんだ」


 玲の声は静かだけど、力強く私の中心を満たした。そして凍りついたようになっていた心の奥が、じわりと溶け始めたことを私は知る。


「呪いを、……司る、存在?」


 玲の言葉をゆっくりと咀嚼するように、私は聞いた。彼は頷いて。


「そう。おまえが眠ってるときに翡翠と西羅、そして(ハヤセ)とも話していて、大体の予測がついた。おまえの中に入ったのは、滝が倒した北の森の巨大な風狼……通称、風狼の王と呼ばれていた奴で間違いないと思う。そいつは人狼みたいな存在で……大昔は、日照りだとか飢饉だとか天災を鎮めるために、そいつに神官家系の人間を生け贄として捧げてた歴史があるんだ」


「生け贄……」


 玲は少し視線を逸らして頷く。では、世が世なら、玲自身もお供えみたいに捧げ物になる可能性もあったということ?


「考えられないだろ? でも、まあ、昔話ってそういうのあるよな。おまえの世界に行ってた時も、アニメ? みたいなやつで見たことある」


 昔話と言われて、私も少し納得する。映画や漫画にもあるよね、そういうの。

 玲は続けた。


「だから、俺は呪いというものに対しては本当に怒りがあって……それをどうしてやろうかと思ってるところはあるんだ。仮にここで風狼の王が消滅したとしても、呪い全体がすぐなくなるなんて思ってないけど……さっきの浄化儀式で、ひとまずおまえの中に入った人狼の影響は抑えられたと思ってる。傷跡も消えてる。


 でも、もしまた、変な夢とか見るようなら、必ず言って。俺にでも、夏野にでも滝にでも、翡翠でも朱鷺子でも、誰でもいい。どうしたらいいか、おまえも一緒に、皆で考えるから」


 私は、その玲の怒りが、舞にもそこはかとなく表れていたのだと感じて、納得すると同時に頷いている。そして、ひとつ心に浮かんだことがあって、そっと聞いた。


「もし、私がまた悪夢を見たとき……その風狼の王と対話して、共存するってことは、できないのかな」


「共存?」


 玲が、面白いことを言うというように聞き返す。私は心に浮かんだことをそのまま言った。


「怖いと思って、マイナスの考えに支配される感じで、ぜんぜん前向きに考えられてなかったけど……龍樹さんは、風狼に襲われた後で蒼い炎が出るようになって、それが特効薬になったって言ってた。

 私の夢で、やっぱり掌から、勿忘草みたいな色の炎が出て、それを玲にぶつけたりして怖かったんだ。

 でも、それって、龍樹さんの炎みたいに」


 一気に言って、ふうと息をついた私を片手を上げて制して、玲は考えるように頷いた。


「薫、まだ浄化の直後で体力も気力も消耗してるから、もう少し休んでて。

 今の話、かなり信憑性がある気がする……俺は少し翡翠と、この西の砦にある文献を調べてみるから」


 言いながら、玲は優しい手つきで私をベッドに寝かせてくれる。私は少しほっとするような心持ちで、やっと彼に微笑んだ。


「よかった。なんか、自分で言いながら、ほんのちょっと希望が見えてきたよ……」


「それでこそ薫だ。ゆっくり眠りな。……何があっても、嫌ったりしない。大丈夫だから」


 嫌ったりしない。

 子どもみたいだ。

 でも。


 それがいちばん聞きたかったんだ。


 そう心の底から思って涙目になった私に、玲は掛け布団をやさしくかけた。そして彼は、布団の上から軽くぽんぽんとした。それは龍樹さんととても似ていて……私は安心するのと同時に、もう一度、二人が本当に似ていることを実感している。


「大丈夫。これからも、何があっても助けるから。だから、今はゆっくり眠りな」


 私はその声にひどく安心して、また眠りに引き込まれる。

 大丈夫、大丈夫。私の居場所はここにある。

 そしてそれは、玲がその声で、目で態度で、全身全霊で証明してくれたことだった。


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