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110. 異変

 ガシャン!

 浄化の補助として置かれた水晶が床に落ち、大きな音を立てた。


「薫!?」


 (アキラ)の声が遠くに聞こえる。浄化の儀式が始まり、西羅(サイラ)が呪いを解くための呪文を唱えはじめ、翡翠が私の手を握って癒しの光を流し始めた時だった。



「「ジョウカ、ナド、サセヌ」」



 禍々しい(シワガ)れ声が、私の口から流れ出す。

 私は、声だけじゃなく、身体も自由を失っていた。勝手に口が動いて違う声が紡がれ、左手は翡翠の細い手を振り払い、突風のように西羅が腰に差していた護身用の短剣を引き抜いていた。


 西羅は短剣を奪われないよう身体を逸らしたけれど、私は何か強過ぎる力に操られ、その速さは歴戦の猛者だったはずの西羅より、その時の私の方が上だった。


 脇に控えていた(ハヤセ)が、するりと剣を抜くところが目の端に映る。


「「コノオンナヲ、キレルカ」」


 寒気がするようながらがら声が、私の口から流れ出す。


(駄目だ駄目だ。こんなことしたらだめだ。)


 私の意識は深層に沈んでいて、それでもどうにか、心の奥でばんばんと閉じた扉を叩くような感じで、必死で抵抗していた。


「薫」


 滝を押しのけて、玲が私の目の前に歩み寄る。静かな声、私の大好きな玲の低い声で、流れるように私の名前を呼んだ。


「……薫、目を覚ませ。大丈夫、おまえは呪いなんかに飲み込まれてしまわない」


 その声は綺麗な水が染みこむように私の心の最奥を震わせた。私の深層意識は、(モヤ)を掻き分けるように必死で閉じられた心の扉を開けようと試みる。私の心の扉の隙間から、白っぽい金色の光が見えて、それは儀式場の天窓から差してくる日光だと気付いたとき。


 目の前に、玲がまっすぐに立っているのが、見えた。


「……あきら、……わたし」


 やっと、嗄れた誰かの声ではなくて、自分の声を出すことができた。

 それを聞いて、明らかにほっとしたように玲は息をつき、でも次の瞬間。


 短刀を持ったままの私の身体を、抗えない強い力が動かした。


「だ、め! 玲、よけて!」


「っと!」


 ガキン!

 激しい金属音が部屋に響いた。


 私の身体が玲の懐に飛び込むのと、横から走った滝がそれを防ぐのとが同時だった。滝に短剣を跳ね飛ばされた私は何も考えられず、目を見開いたままガクンと膝をついている。


「っぶねえ! 玲! 無事か!」

 

 滝の声と同時に、カシャンと私が持っていた短刀は遠くの床に綺麗な弧を描いて落ちた。

 

「問題ない!」


 言うと同時に、床を蹴るように玲が私に駆け寄り、瞬間的に私は背中から玲に、羽交い締めにされていた。私の身体は、反射的に内から激しい力が湧き上がり、じたばたと抵抗しようとする。背中から、玲の声。


「翡翠! 西羅! このまま薫を押さえるから、続けてくれ!」


「ちっと焦ったな……だが操られの動き方把握したから、次は変な動きしたらすぐ防いでやるぜ」


 滝が私の脇に、隙無く立っている。暴れる私の視界に、血が滲んでいる玲の腕が目に入った。


(止まれ。)


 心を集中させて、私は西羅の目を見る。玲にすぐ謝りたかった。でも後だ。

 身体の動きが、止まった。玲の腕にぐっと力が込められたことがわかる。

 西羅の呪文が続き、翡翠は先に玲の傷に癒しの光を流し始めた。


「「……ジョウカナド……」」


 私の口から紡がれる(シワガ)れ声は細く小さくなり、白っぽく深い霧みたいなものに包まれていた視界が少しずつクリアになる。かたかたと身体が震えだし、西羅の呪文が大きく響き、頭の奥で何かが小さくなっていくことを感じた。


 檻に閉じ込められて身体を動かせない感じから、徐々に指先に、腕に、肩に、力を入れて動かせるようになる。身体の自由が、少しずつ戻ってきていた。


「薫、大丈夫だから。薄皮一枚くらいの傷だ。血もほとんど出てない。安心して」


 背中から響く玲の声に、私はいやいやをするように首を振る。


「……終わったら、いっぱい、あやまる……」


 声も、自分の声に戻っていた。背中を守ってくれていた玲が、ふふっと笑う気配がする。


「もう翡翠が傷を塞いでくれた。大丈夫だから、西羅に集中して」


 私は壊れたみたいにただ涙をこぼしながら、頷いた――。




読んでいただき、ありがとうございます!


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