不幸は生まれつき、人助けは危険
「じゃあ、私、先輩に用があるから行くね」
いつの間にか飲み干していたアイスティーのグラスを持って、彼女は席を立った。
「う、うん」
「無学君はゆっくりしていって。ここ、プリンもおいしいんだ」
綺麗な後ろ頭を見せて、闇野さんは去っていった。
たった今までそこにあった女性の痕跡は綺麗になくなり、最初から一人で店に来た人と、なんら変わることのない景色になった。
ゆっくりしていって…って。自分の家じゃあるまいし。
ここ、お金を払えば何でも食べていいんだぜって、先輩風を吹かせてメニューを見せられるみたいな。
…ふう。
すっかり冷めてしまったコーヒーをすする。苦い液体が苦い少年をさらに苦くした。
貧乏性な僕が砂糖を入れないなんてどうかしてる。
タメイキ……。
闇野さんにはモテてると思ったんだけどなあ。彼女と出会ってからの美しい思い出が走馬灯のように蘇る。立ちション直後に捕まったこと、魔王と呼ばれたこと。実家の納屋にあったというラスコリニコフの斧。冷めた心ですすった冷めた紅茶。なぜか女の子たちが集まってきた野営の朝。場違いな玉音の牛乳配達に駿野君の自信たっぷりな顔…。あんまり美しくもないか。
でも、全部勘違いだったんだな。ひょっとして僕には女子(から見て魅)力があるんじゃないかと思っていたけれど。
この学園に入って環境が変わって、仲間ができて女の子とも話すようになって。ちょっと人生上向いてきたのかなと、淡い期待を抱いていたところがあったけれど。
やっぱり、僕が人生に希望を持つなんて、あっちゃいけないことだったんだ。それは宇宙の摂理に反しているんだ。神に対する冒涜だ。
ふと、オレンジ色のバスケットボールが目に入る。ボールは母の腕に抱かれた赤子のように、安心しきって僕に身を委ねているように見えた。
そういや、僕は呪われていたんだっけ。生まれつき呪われていたんだっけ。
翌ザビエル暦六月第二週三日目は、梅雨の時期らしい、典型的に崩れがちな天気だった。勇者科の教室で会った闇野さんは、闇野さんらしい、いつもの典型的な闇野さんだった。
いつもと変わらず典型的に謎めいていて、いつもと変わらず典型的に負のオーラを背負っていて、いつもと変わらず、典型的にかわいい女の子だった。
クラスの中では目立つけど、アイドルになったら目立たない、そんな典型的なタイプのかわいさだった。
僕らは普段通りの他愛もない挨拶をし、他愛もないクラスメイトとしての言葉を交わし、他愛もない時間を過ごした。二人は近づくことも離れることもなく、実に典型的な距離を保っていた。
だから典型的に平均的な授業風景が、極めて典型的に展開されていった。
マタドール先生は決して典型的とは言えない教師だが、僕らはもうすっかりその非典型性に慣れてしまっていた。
トンカツを揚げるラードよりも脂ぎったテンションも、昆布だしの効いていない千枚漬けのようにあっさり受け流す術を、僕らは身につけていた。
「大丈夫だよ、そんな大袈裟にしなくても」
午後二時より、課外活動再開である。パーティメンバーの顔には、一様に不安の色が浮かんでいた。
あのゴキブリいっぱいの部屋を通り抜けるために、さっき僕は演習場に立ち寄って、あることを確認していたのだ。
「そ、そんなこと言って、また足を這い上がってきたらどうすんだお前」
ネズミ君は昨日のうちに街まで出て、必要な装備を調達していた。左右の手に強力な殺虫剤のスプレーを二刀流である。
「あいつらは飛んでくるのよ」
地獄の鬼すら恐れる無敵の女番長は、紙袋を頭から被っている。目のところだけくり抜かれているが、ご丁寧にビニールが貼ってあった。
「か、覚悟はできてますぅ」
「ミャーン」
遺書を書いてきたという妙子は、ゲンちゃんを持ち運び用のケージに入れ、自分はレインコートにガスマスクである。どこで手に入れたんだろう。
一応だが、僕には秘策があった。
「ほ、本当だな?駄目だったら承知しないからな!?」
恐れながら人を脅迫するネズミ君。これから助けてあげようという人に生命を脅かされる。レスキュー隊員の苦労が偲ばれるなあ。
「もう、敵はゴキブリだけじゃないでしょうに。他にもモンスター出てきたらどうするの」
「いんや、度重なる人類の襲撃に耐えて生き延びてきたやつらだぜ。何よりも強力な敵だ」
ネズミが怯えると屁理屈が活発になる。僕一人だったらあんなとこ通過するだけなんだけど。と、これから起こる惨劇を思ってため息をついた。
「…君たち、入るなら入る、入らないなら入らないで、早くどちらかにしてくれたまえ」
僕らがダンジョン入り口でなんやかんややっていると、丁寧な口調で明確な悪意をぶつけられた。
高校生にしては一際目立つ長身、甘いマスク。こいつを見ているだけで、角砂糖を入れすぎたコーヒーのように健康を蝕まれる男。勇者科クラスメイトの玉音銀次郎、とそのパーティであった。
「そこにいられると邪魔でしょうがない。僕らはこれから哀れな異世界を救いにいくんだ。早く君たちが退いてくれないと、魔王による犠牲者が増えてしまう」
「へっ、俺たちだって、これから強敵と戦いにいくんだよ」
殺虫剤二天一流のネズミ君がすぐに反応した。今にも奥義を発動しそうな勢いである。附属出身の彼らは宿命的に仲が悪いのだ。
「ほう…。そんな武器で魔王が倒せるとは聞いたことがないが。今ここでオニオンセイバーの錆にしてくれようか」
「玉ねぎでも切ってろ、お前は」
顔を合わせると喧嘩するんだよな〜、この二人は。どうしよう、いちいち止めるのも面倒くさい。なんて思っていたら、賢い人が治めてくれた。
「銀次郎、行きましょう。私たちに時間はないわ」
玉音のパーティメンバー、賢者科二年の賢井さとりさんだった。学園一と言っていいだろう。絶世の美女だ。
「そうだった。こんな連中と管を巻いている暇はない。なにしろ僕たちは今、七つの異世界を掛け持ちで攻略している最中なのだから。では、お先に」
玉音の言葉が終わる前に、三年生の人たちが通っていくので、ネズミ君も退かざるを得なかった。聖騎士科の光野岸男さんと魔法剣士科の間保剣信さんである。
「ああ、そうだ。ドリブルするときはもっと腰を低く。ボールを手のひらで押し付けるように。それではまるでボールにドリブルされているみたいだ」
嫌らしいニヤニヤ笑いを残して闇へと消えていった。玉音の大きな背中の後を、華奢な賢井さんが付いていく。一度こちらに意味ありげな視線をくれて。
ムーッ!
その通りだよ!呪われてるから放っておいても勝手に戻ってくるんだよ!




