バルクはデカくて、意思は固い
「吾輩の体はいつの間にか変わっていたにゃん。肩は盛り上がり、胸板は厚くなっていたにゃん。腹筋は割れて、太腿は丸太みたいだったにゃん。おまけに、何故かランニングを着て短パンを履いていたにゃん」
「わかるわ。トレーニングを続けていると、あるとき急に体の変化に気付くのよね」
鉄子はウンウンと頷いた。
「変わり過ぎだろ」
ネズミ君はさっきからど正論である。それよりランニングと短パンはどこから出てきたのだろう。
「もっと驚いたことには、吾輩の口から言葉が出たことにゃん。確かに吾輩は自分の口がこう言ったのを聞いたにゃん。ナイスバルク!」
……。
ねえ奥さん、聞いてくださいよ。ウチの子ったら、初めて喋ったんですのよ。ナイスバルクって。
あら、羨ましいわ。ウチの子はバーバでしたの。嫌んなっちゃう。
…なんて会話が成立する世界は、どこの異世界を探したって見つからないだろう。
「君が化け猫に変身したのは、筋トレの結果だと」
「そうにゃん。筋肉が吾輩を変えてしまったにゃん」
これからダンベルには但し書きをする必要がある。「猫に与えないでください」
「で、なんだ。飼い主に気味悪がられて家を飛び出したってか」
ネズミ君は呆れモードで、頬杖をついて聞いていた。
「そうじゃないにゃん。吾輩は姿見の端に映る、飼い主さんの悲しそうな顔に気付いたにゃん。振り向いた吾輩に、飼い主さんはこう言ったにゃん。『デカくなったなぁ。もうおまえを膝に乗せて、ドンジャラできないな』後にも先にも、あんなに悲しそうな飼い主さんの表情を見たのは、初めてにゃん…」
えーっと、僕らは今、悲劇を聞かされてるんだよね?
「とにかくそれで家を出たってことでいいか?」
元来、ネズミ君はせっかちなのだ。
「それからすぐじゃないにゃん」
「とっとと出ろよ」
「でも色々あって、結局家を出ることにしたにゃん。化け猫と人間が一つ屋根の下に住むことはできないにゃん。ご近所の目もあるにゃん。吾輩と暮らしていたら、ご主人様は変人だと思われるにゃん。横浜は都会に見えて意外と田舎にゃん」
「50でドンジャラやってる時点で十分変人だ」
「しばらくは野良猫として生きていたにゃん。昼間は中華街の片隅でじっとして、夜は冷えた小籠包を漁りながら細々とやっていたにゃん。吾輩は猫舌にゃん」
段々と状況がわかってきた。だが、早く樹海に来てほしいものだ。
「でも、そんな生活をしていると心が腐ってくるにゃん。体も弛んでくるにゃん。せっかく割れた腹筋も、放浪の旅に出てしまったにゃん。吾輩はそんな自分に絶望したにゃん。いっそのこと死んでしまおうと思って、それで樹海に入ったにゃん」
「なるほど。君が樹海にいたのは、自殺するためだったということか」
ふぅ、やっとここまで辿り着いたか。
「悲しい話ですね」
「ゥミャァン」
妙子は鼈甲眼鏡を外して、綺麗なハンカチで目頭を押さえた。ゲンちゃんも物悲しそうに鳴いた。僕はこれは喜劇だと思った。
「死に場所を探してトボトボと夜の樹海を歩いていたら、人が騒ぐような声が聞こえてきたにゃん。おまけに筋肉のいいにおいがするにゃん。それも極上の筋肉のにおいにゃん。筋肉フェチにはたまらないにおいにゃん。騒ぎのする方に行ってみたら、素敵な筋肉が躍動していたにゃん。それを見た瞬間、虜になってしまったにゃん。気付いたら、この姐さんに取り憑いていたんだにゃん」
筋肉猫はがっくりとうなだれた。
「う〜、気色悪い」
鉄子は肩を抱いて震えた。同時にネズミ君も全く同じ動作をしたことは、彼女には内緒だ。
「まったく、迷惑千万です。勇者さん、こんな猫はプロテインシェイカーに閉じ込めて封印してしまいましょう」
それまで黙って話を聞いていた犬神氏が口を開いた。話に乗ってきているようにも聞こえる。
「う〜ん。そうだなぁ」
僕は腕組みをして悩んだ。大人しく横浜に帰るというのなら、害はないのではないか。
「堪忍にゃん。もう二度と悪さはしないにゃん」
筋肉猫は涙目で懇願した。
「何を言うか、この化け猫め」
犬神氏は縄をさらに締め上げた。
「ゆ、勇者さん、許してあげましょうよ。猫さんこんなに反省してますし」
「た、妙子さん!?」
そして急に縄を緩めた。妙子と彼との間の空間に、ピキピキとヒビが入るのが見えた。ざまあみろ。
「本当にもう二度と悪さをしない?」
「し、しないにゃん!断じてしないにゃん!この上腕二頭筋に誓って、断じてしないにゃん!!」
ちょっと誓う対象が信用できないが、筋肉猫の顔は嘘をついている猫の顔(僕はいつそんな猫を見たのだろう?)ではなかった。
というわけで、僕たちは筋肉猫を解放したのである。
「猫さん、良かったですねぇ」
「ミャ〜ン」
妙子はすっかり情が移ってしまったようだ。
「妙子さんとやら、かたじけないにゃん。恩に着るにゃん。皆さんにもご迷惑をお掛けしたにゃん。それでは長居は不要にゃん。吾輩は行きますにゃん」
と、席を立とうとした筋肉猫を、妙子が止めた。
「ま、待ってください。帰る当てはあるんですか?」
「なに、ご心配は無用ですにゃん。どこに行ったって、猫一匹ぐらい暮らしていけますにゃん」
「で、でも、中華街なんか戻ったら、食べられちゃいますよ!?」
頬杖が外れて、バンッとネズミ君は机に額をしたたかに打ち付けた。そういや妙子は都市伝説が好きだったよな。
「あ痛たたた。いくらなんでもコイツは食わないべ」
中国人は四本足のものなら机以外は食べる、なんて冗談もあるが、意外にも馬は食べないんだそうだ。それに、一応筋肉猫は二本足だったりする。
すると筋肉猫は、フッと寂しそうな顔になって言った。
「いえ、横浜にはもう戻らないにゃん。あの街には、二本足の猫が生きる場所はないにゃん」
此奴、まさか。
僕は筋肉猫の瞳に、ある種の意思の強さが宿っているのを見てとった。
そのお陰で、後から考えれば言わなくてもいいことを言ってしまったような気がする。
「君、そんなに急ぐことはないんじゃないのかな。今夜ぐらい、ゆっくりしていったら」
「おいおい勇者、何言って…」
「ま、それほど悪い奴でもなさそうね…」
「そ、そうですよ。ゆっくりしていけば…」
「ミャア…」
パーティのみんながどこまで感付いていたのかわからないが、筋肉猫は正確に僕の不安を読みとったようだった。彼は僕の目をまっすぐ見て言った。
「勇者さんとやら、お心遣い恐れ入りますにゃん。ただ、もう決めたことですにゃん。最初からそうするつもりだったにゃん」




