48.I should ……
「サクラちゃんはさ――どうしてそんなに自分のことが嫌いなの?」
サクラの心臓が、ひときわ大きく脈を打った。
嫌な鼓動だった。内側から全身を蝕んで腐らせていく。
今すぐに逃げ出したくて――でも、やっぱりここは自分の部屋で。
逃げ場がないことに気づいて、サクラは諦める。
代わりにその口元には笑みが浮かんでいた。諦念と自嘲の色濃い笑みが。
その笑みを固めたまま、何でもない雑談の一幕のように問う。
「そう思いますか?」
無言で頷くハル。
そっか、と音にならない声が出た。
誰にも言うまいと思っていた。
特にハルには。
だがその反面――どうしてか、ハルにだけは知ってほしいと思う自分もいて。
もしかしたらわかっていたのかもしれない。
いつかこんな時が来ると。
この醜い胸の内を詳らかにする日が。
「……許せないんですよ。自分のことが、ずっと」
過去のことを話すのはこれで二度目だ。
小学生の頃、親友との諍いが原因で存在すら知らなかったクオリアを発動させてしまったこと。
それによって親友に大怪我を負わせてしまったこと。
ここまでは前にも口にしたことがある。
だから、ここからは初めて話すことだ。
唇を舐めると、ざらついた感触が舌先に残った。
ハルは驚きを隠せない様子で、それでも静かに聞き入っていた。
「それからあたしはずっと部屋に引きこもっていました。学校に行けなくて、家族にも顔を合わせられない日が続きました」
「家族にも……?」
「また誰かを傷つけてしまったらと思うと……怖くて怖くて仕方なかったんですよ」
今でこそサクラはクオリアのことをそれなりに知っている。
自分で何度も使って感覚を掴んだし、その理論についても(まだあまり頭に入っていないが)授業で習っている。
知ることは恐怖を和らげてくれるのだ。
だからこそ何も知らなかった当時はこの身に宿る力が心の底から恐ろしかった。
何しろ得体の知れない力だ、いつ何をきっかけに同じようなことが起きるともわからなかった。
学校に行ってクラスメイトや先生を傷つけたら。その想像が脳裏にへばりついて、誰とも会う気にはなれなかった。
「自分のことが心の底から憎くて怖くて、毎日死ぬことばかり考えてました。今もそうです。あたしは……今すぐにでも死ぬべきなんだってずっと思ってます」
「……サクラちゃん……!」
「あはは、そんな顔しないでください。まだ死ぬつもりはありませんから」
サクラは笑っていた。
でも、少しも笑顔になんて見えなかった。
風に吹かれて、風化して、それが偶然笑顔の形に見えるようすり減っただけに思えるほど乾いた表情だった。
「当時あたしが生きていたのは、死ねば家族を悲しませるのが分かってたからです。ただでさえあんな事件があって悲しんでいるのにこれ以上負担をかけたくなかった。あたしのことなんてどうでもいいですけど、それだけは嫌だったんです」
抱えきれない希死念慮と、それでも死ぬわけにはいかないという板挟みの中、サクラは日々を過ごし続けた。
暗い部屋の中、目が覚めてから気絶するように眠るまで、自らを責め続けた。
何千回、何万回。呪詛を念じた回数は数えきれない。
呪いが形になるならば、世界を百回は滅ぼせていただろう。
「そんな時……中学に通っていれば三年生になったころだったでしょうか。埃をかぶったテレビをふと点けると、映っていたんです。戦うキリエさんが」
「……キリエさんの試合中継だね」
はい、と頷く。
あの時のことは今でもはっきりと思いだせる。
見えていたのは、輝く光を振りまくキリエと――それに湧き立つ観客たちの笑顔。
自分と同じ不思議な力を使い、しかし彼女は膨大な幸福を生み出していた。
「思ったんです。あたしもあんな風になれたらって。親友を傷つけたこの力で誰かを助ければ、生きていてもいいんじゃないかって」
だからキリエに憧れた。
そして、渡りに船だったのは――しばらくして、最条学園のスカウト……後に知る最条学園長が訪問してきたことだった。
サクラは一も二も無く頷いた。他の選択肢などかなぐり捨てた。
この力で誰かを助けられるなら。笑顔にできるなら。希望を与えられるなら。
そのためだけに生きようと、そう思ったのだ。
「そっか。だからサクラちゃんは……ずっと自分なんてどうでもいいって顔をしてたんだね」
サクラは何も答えない。
ただ小さく笑っただけだった。
「でも、最近上手くいかないんです。昇格試験ではアンジュちゃんに完敗しました。誰かを助けようとして、何度も失敗しました。あたしのやってることは間違ってるって、おかしいって……色んな人に言われました。強くならなきゃいけないのに。助けなきゃいけないのに。どうしても前に進めないんです」
俯くサクラの横顔を、じっと見つめる。
彼女は傷ついていた。深く深く、全身から血を流すほどに。
きっともう、限界なのだろう。
当たり前だ。
そんな生き方が長く続くわけがない。
自傷行為のような生活も。不自然なほどに空っぽなこの部屋も。ひたすらに誰かのために走り続ける努力も。
無理に通そうとすれば心も身体も崩れていく。
その結果が今の停滞。
「……わたしのクオリアで心の傷も癒せたら良かったのにね」
「え?」
落とされた呟きは良く聞こえなかった。
ハルはサクラの疑問に答えず、言う。
「サクラちゃんはさ、やりたいことってないの?」
「それは強くなってキリエさんみたいに……」
「『やらなきゃいけないこと』じゃなくて『やりたいこと』だよ」
気づけばハルから笑顔は消えていた。
見たことがないくらい真剣なまなざしがサクラを射抜く。
やりたいこと。
考えたこともなかった――いや。
「やりたいことなんて……ないです。もしあったとしても、そんな資格……」
「資格なんていらないよ」
静かで、しかし力強い声だった。
ハルの手がサクラのそれを掴む。
どこかへ消えてしまいそうに儚い彼女を繋ぎとめる手だった。
思わず肩が跳ねる。
ハルはもう片方の手で胸元を握りしめ、喘ぐように吐き出す。
「手が届くなら、諦めちゃダメだよ……」
「あ、あたしは本当に、」
「じゃあどうしてわたしと仲良くしてくれたの。どうしてデートに行ってくれたの」
「……っ、それはだって……誘ってくれたから、行かなきゃって」
「本当に? だったら、楽しそうだったのは嘘?」
強く首を横に振る。
嘘じゃない。嘘なわけがない。
あの日は本当に楽しかった。胸が高鳴り、幸せな気持ちで満たされて、何より――あの時は、自らに突き刺す呪詛を忘れた。
あの日だけは。サクラは罪人ではなく、人間でいられた。
こうして改めて言葉にして、そのことにやっと気づけた。
「でも、今さら変えられないです。あたしはこの生き方しかできそうにないから」
「……そっか。そうだね」
言葉をかけて、魔法みたいに立ち直れるならここまでこじれていない。
数えきれないほどに刺さった楔は一本抜いても焼け石に水だ。
「じゃあわたしが付き合うよ。サクラちゃんがサクラちゃんのことを許せるまで、一緒に少しずつ変わっていこう」
「そんな……あたし、そんなことされても返せるものなんて」
「いいよ。一緒にいてくれればそれで。それに友だちに見返りなんていらないんだから」
そう言いきって、ハルは衒いなく笑った。
ずきんとサクラの胸が痛む。鼓動が早くなっていく。
だが、不思議と嫌ではない。
「どうしてそこまであたしのこと……」
「わたしね、覚えてるんだ。うっすらとだけど……どこかもわからない場所で、サクラちゃんがわたしを助けるために必死で戦ってたこと」
「……!」
「夢かと思ってたんだけどね。でも、ほんとうだといいなってずっと思ってた。……その反応からすると実際に起きたこと、なんだね」
それは。
入学式の夜、錯羅回廊に迷い込んだハルを助けるためにモンスターと戦った時のことだ。
サクラの口がぱくぱくと開く。閉じる。
言った方がいいのか。だが口外はできない。
そんな逡巡を察したのだろう、ハルはただ続ける。
「わたしだけじゃないよ。サクラちゃんに助けられた人、いっぱいいるはずだよ。サクラちゃんが義務感とか罪滅ぼしのためにやってたとしても、その事実だけは変わらない。それだけは覚えておいてね」
ああ、と。
もしかしたら。自分のやってきたことは無駄ではなかったのかもしれない。
そう初めて思えた。
何かが解決したわけではない。
サクラの内面は未だ変わらない。
だがこの時。その暗闇に一筋の光が差したのは間違いなかった。
* * *
陽が落ちれば夜が来る。
そして夜が来れば。
「さて、今日はもう遅いし寝よっか~」
「え?」
ハルは泊まることになった。
最初からそのつもりだったらしく、用意周到に着替えなど諸々を完備して来たらしい。
さすがに遠慮したかったが、そこまで準備してきたのを追い返すのも気が引けた。
手首のリミッターを確認すると、確かに日付が変わりそうだ。
いつもならもう寝ている時間だし、それに関しては拒否する理由は無い。
「そうしましょうか。あたしは床で」
「ダメだからね~? 疲れてるんだからちゃんと寝ないと。ただでさえ治りかけなんだから」
穏やかな口調だったが、有無を言わせない迫力がそこにあった。
ハルは笑顔のまま部屋の隅のベッドを指差す。
「一緒に寝ようね~」
「ええっ!?」
数秒後、二人は同じベッドで布団をかぶっていた。
「ま、またいつの間にか……!」
「狭くない? もうちょっと壁に寄ろうか」
「あ、大丈夫です」
さすがに壁側は譲ることになったが、なんと同衾である。
人生で初めての体験に、サクラの心臓も活発に動き出す。
何しろ間近に体温や生々しい吐息、身じろぎなんかを感じてしまうのだ。
(ううー……っ)
緊張なのかそれ以外のドキドキなのかわからないまま目をつぶる。
「起きてる? よね」
「はいっ……!」
驚きから力強く返事してしまうのを何とかこらえる。
声の大きさには自信があるが、この状況だと邪魔な長所だ。
「あはは、ごめんね~。緊張するよね、わたしもしてるし」
「ハルちゃんもですか?」
くるりと寝返りを打つと、カーテンを透過して差し込む弱い月明かりでハルの顔がうっすらと見える。
いたずらに成功したような、それでいて恥ずかしそうな表情だった。
自分のベッドにハルの亜麻色の髪が広がっているのを見ると、なんだか不思議な気持ちになる。
「わたしも友達のお家に泊まるの初めてだから」
「初めてがあたしで……」
「いいんだよ。まあ、半ば勢いみたいな感じだけどね」
潜めた声。
吐息の混ざる距離。
まるでわるいことをしているような後ろめたさとわずかな高揚感を覚える。
「サクラちゃんはすっごく疲れてるんだよ。だから今日はぐっすり寝て、明日は一緒に学校行こう」
「ありがとう……ございます」
ぼそぼそと礼を言うと、頬が両手に挟まれた。
「うぇ」
「もー、またその顔~。迷惑じゃないから。わたしがしたいことを勝手にしてるだけ。だからサクラちゃんは何も考えずに休めばいいんだよ」
いいこいいこ、と頭を撫でられる。
髪を通して伝わってくる体温が心地よくて、いろいろ考えていたことが散らばっていく。
手が冷たいと心が温かくて、手が温かいと心が冷たい――なんて話を昔聞いた気がする。
でも、それは嘘だ。だってハルの心はこんなにも温かくて、安心させてくれるのだから。
どうしてこんなにも優しいのだろう、と目の端に涙が滲んだ。
「ハルちゃん……」
「ん?」
「あり……がとう……また明日……」
「……うん、おやすみ。いい夢見てね」
瞼を閉じた少女はすぐに静かな寝息を立て始める。
安らかなその顔を、ハルはしばらくじっと見つめていた。
いつかあなたが自分を愛せるときが来てくれればいい。
そんな想いを胸に、少女は瞼を閉じた。




