38.優雅なればこそ
窮地は去った。
突如乱入してきた少女、山茶花アンジュによって研究者は気絶した状態で拘束され、後には電子機器の静かな音が断続的に響く。
スマホで警備隊に連絡しているアンジュを横目に見ながらサクラは思い切り張られた頬を撫でる。
「えっと、どうしてアンジュちゃんがここに、じゃなくてどうしてビンタ、じゃなくてありがとうございます……?」
頭の上に『?』がいくつも浮かぶ。
通報を終えたらしいアンジュはスマホをしまい、サクラを見て眉間に皺を寄せるとつかつかと歩み寄って来た。
足音が怒っている。思わず一歩後ずさると、向こうは二歩距離を詰め、間近で見下ろして来た。
「行くな、と。言ったはずですが」
「でも、」
「でもじゃ……!」
わななく唇から裏返った声。
縋りつくようにサクラの袖を掴んだ手は震えていて、甲には細い腱が浮いている。
俯けたその顔は見えない。だが腕に伝わる力には、何よりもその想いが表れていた。
「でもじゃないでしょう……! あなた、し、死ぬところ、だったんですのよ……!」
視界の端に潰れた拳銃が映り込む。
クオリアが無効化されていたさっきはアーマーも無く、もし引き金が引かれていれば――アンジュが間に合っていなければ一体どうなっていたか。
ぽた、と落ちた雫がサクラの制服の色を小さく変えた。
「ごめんなさい……」
「許しません」
「……そこまで心配してくれてるなんて思わなかったんです。あたしなんて……あたしのことは、気にしなくていいのに」
アンジュが濡れた瞳で見上げたサクラの顔は無表情だった。
どういう顔をすればいいのかわからなくて、ただ視線を彷徨わせるばかり。
まるで状況の処理に詰まった機械のようだった。
サクラは『助けないと』と言っていた。
今日の事件だけではない、相談窓口の業務やアンジュを助けた時もそう。
彼女はいつも人のために行動している。
それは優しさや博愛心、正義感などから来る行動だとばかり思っていた。
だが、それは違うのかもしれない。
「あなたは……」
『助けたい』ではなく、『助けないと』。
それは義務感によるものではないだろうか。
その義務感は、どこから来るものなのだろうか。
何かに追い立てられるようにして、彼女は人を助けようとする。
ならばそれは――――
「アンジュちゃん?」
「……いえ、なんでもありませんわ」
緩くかぶりを振ってその思考を追い出す。
こんなものは邪推でしかない。
人の気持ちを推し量るのには限度があるし、それが正しいなんて誰にもわからない。
それに、この考えが正しいとしたら。
(悲しいなんてものじゃありませんわよ)
袖から手を放す。
開いた手は少し痛くて、思った以上に力が入っていたことが少し恥ずかしい。
微妙な空気が流れる中、断ち切ったのは第三者の声だった。
「う……」
「ハイジちゃん!」
滑車の上に寝かされていたハイジが身を起こす。
慌てて駆け寄ると、眩しそうに何度か瞬きをした後サクラとアンジュを順番に眺めた。
「なんであんたらがここに……」
「助けに来たんです! ハイジちゃんの友だちが教えてくれて……」
「……っ余計なことしないでよ!」
怒声に思わず肩を震わせる。
起きてすぐ声を荒げたからか、ハイジは胸元を押さえている。だが、その眼には確かな怒りが見えた。
「これは私が望んだんだよ。強くならないとあの学園では生きていけない。だから、何にだって縋らなきゃダメなんだ」
「強くって……こんな方法で? 大変なことになるかもしれなかったのに」
「そう、こんな方法だよ。こうでもしないと私たちみたいなやつらに未来は無い」
奥歯を噛みしめるハイジの周囲がわずかに歪む。
この現象には見覚えがあった。
「お嬢様がサクラに負けて、あたしは絶望した。あんなに強い”お嬢様”でも負けるんだって、信じたくなかった。でも現実だった。山茶花アンジュ、あんたが弱いから悪いんだ」
「…………」
「だから見限った。負けたあんたを認められなくて、私はあんたから離れた。そうしたら……どうすればいいかわからなくなったんだよ」
ハイジの身体が虹色の陽炎を纏う。
同時にその足元が渦のように湾曲していく。
クオリア使いの感情が暴走することで錯羅回廊への入り口が発生しようとしているのだ。
その渦の奥には、発生源となった者の心を元にした『ポケット』という空間が広がっている。
あそこに落ちれば、自力では帰って来られない。そして、内部に潜むモンスターに殺されてしまえば――周囲の記録や記憶から消えてしまう。誰もが彼女の存在を忘れてしまい、痕跡すら残らない。
(だめだ、もう間に合わない……!)
今にも渦が完成し、ハイジがポケットに落ちそうになったその直前。
歩み寄ったアンジュが、ハイジの頬に触れる。
「……あなたは、昔から自信がありませんでしたわね」
アンジュはうっすらと笑っていた。
過去を慈しむように、そして同時に、目の前の少女の心を支えるように。
ハイジはただ、目を見開いて呆然としていた。
「中学からの長い付き合いですからね。あなたが人一倍頑張っていたのは知っています。そして、最条学園に来て周りとの差を意識しすぎてしまったことも」
「……そうだよ。だから……!」
「でも、あなたが学園で通用しないなんて、わたくしは思わない」
その言葉を皮切りに、渦の広がりが止まった。
同時に空間の歪みも緩やかに元通りになっていく。
「あなたがわたくしのことを見限ったのは、それも仕方ないのないことだと今は思っています。でも……わたくしはあなたのことを見限ったりはしません。挫折しそうになったら、道を見失いそうになったら、諦めたくなったら」
アンジュは笑う。
今まで見たことがないくらいに柔らかに。
ああ、これが友人に向ける顔だったのか――と。サクラは今さらながらにアンジュを知った。
「いつでもわたくしを頼りなさい。その根性を叩き直して差し上げますわ」
歪みは止まった。
俯くハイジの目元から流した涙が床を濡らし、ちょうど駆けつけた警備隊がこの場を治めた。
* * *
ハイジはあの後何も言わなかった。
顔も合わせず、俯いたまま警備隊に連れられていった。
「……アンジュちゃん、迷惑かけてしまってごめんなさい」
巻き込んでしまった。
サクラが勝手に起こした行動で、しかも何もかも失敗しかけて――助けられてしまった。
沈痛な面持ちで唇を噛むサクラに、アンジュはその額にデコピンを炸裂させた。
「いたっ」
「これに懲りたら、もっと周りを見なさい。あなたを見ている人のことをちゃんと見ていなさい」
その眼に映るあなたがどんな姿か。
目を逸らさず目の当たりにしなさい。
その言葉の意味はまだよくわからない。
だが、サクラは覚えていようと思った。
自分の姿を認めるのは、まだ怖いけれど。
「……はい。でも、どうしてアンジュちゃんは助けに来てくれたんですか?」
「別にあなたのためじゃありませんわ。わたくしは山茶花家の令嬢。その強さを示さなければなりません。だから――あなたのいない試験で合格したってなんの意味もありませんのよ」
合格は前提。
その上で、高いハードルを飛び越えなければならない。
そんな使命を胸に抱き、アンジュは歩き始める。
「さあ急ぎましょう。試験開始まで時間がありませんわ」
「は、はいっ!」
慌てて追いかける背中は、なんだかとても遠く、大きく見えた。




