チャプター4‐10
チャプター4‐10
【夜:病院の警備室】
件の病院の、防犯カメラから送られてくる映像を統括する警備室、その中央の椅子に腰かけて、若い警備員の灰田は夜食の弁当を食べていた。手元のポータブルラジオからは阪神対広島の野球試合が流れて来る。灰田は眠たげな顔で幕の内弁当のタケノコを咀嚼しながら、試合の成り行きを静かに聞いていた。
視界の端で、画面の中を影が横切った。鈍重な仕草で彼は顔を上げる。灰田はしばらく迷ってからようやく箸を置き、手には代わりに巡回中の同僚と繋がる無線機が握られた。
面倒事はごめんだと言いたげな表情で、灰田はモニターを一つ一つチェックする。今しがたのように、正体の分からない影が再び横切ることはなかった。ただ少し妙な点があるとすれば、モニターの画面が一瞬だけブレたことだろう。
しかし、現在の職に就いてから盆と正月を二回しか経験したことのなかった灰田がそれに気が付くことはなかった。
彼は昨日恋人と見たばかりの、ドキュメンタリー風のホラー映画の事を思い出して、思わず頭を振った。あんな出来の悪いモキュメンタリー、やらせに決まっている。病院に幽霊なんて迷信に違いない。よしんば『本物』がこの世に存在していたとしても、まさかこの病院だということはあるまい。
彼は無線で同僚に、二言三言モニターの影のことを伝えてから、それを置いて箸を持ち、再び野球の試合に耳を傾け始めた。
背後の窓から誰かが覗き込んでいるという光景が突然脳裏に飛び込んできて、思わず彼は苦笑するが、しかしその空想はなかなか頭から離れてくれなかった。
拭い切れない妄想を追い払うかのように、彼はラジオのつまみを捻って、音量をもう一段大きくした。阪神が巻き返していた。時刻は八時半を過ぎたところだった。
贔屓のチームの攻勢に、彼はどこかほっとした心持になったが、それはすぐに中断された。
『速報です。本日、七月七日、八時ごろ…………』
灰田が眉を上げて訝しむ間もなく、更に別の音声が、ノイズを伴って割り込んできた。
『…………諸君。親愛なる市民諸君。この放送を聞いている全ての人間たちへ』
言い方や声の調子から判断しても、今喋っている人間はラジオ局の人間ではないのは明らかだった。
『単刀直入に言おう。我々タグルート社は、本日二十時をもって市内を占拠した。無許可で市から外出する者は例外なく処分する。これはタグルート社代表取締役、吉田千怒の権利をもって行われるものである。それに倣い、我々は日本政府に幾つかの要望を提示する。本クーデターの目的は、危機的状況にある日本のエネルギー事情の現在を憂い、それを少しでも改善せんがために実行されたものである。
要求①:日本政府は国外からの石油輸入量の割合をゼロパーセントにまで抑制すること。国外輸入に代わる新たなエネルギーリソースとして、先日、日本海溝にて発見された新巨大油田を…………』
声の主の名が神武丈だということは、警備員の灰田には知りようがない。
【タグルート社本社ビル:最上階】
街の中心部の交差点、その角にあるタグルート本社ビルの最上階で、神武はマイクを片手に、デスクに置かれた原稿を読み上げていた。急ごしらえで誤字脱字が目立ったが、彼は声に出して読み上げる前にそれらを正すことが出来た。
「…………要求㉓:要求④において挙げられた新巨大油田の管理委員は、全て社側の意思決定機関によって選出される。これはいかなる政治的意思にも介入されないものである原則が遵守されること。
以上①~㉓を我々は日本政府に要求する。これらに対し四時間以内に返答がない場合、こちらで拘束している経済産業省職員『安田泉』並びにその他の人質の身体的安全を保障できなくなる。更に八時間以上返答がない場合、市内中心部で攻撃性の戦略的生物兵器を起動させる。これに際し、市民の安全をも保障することが難しくなる。クーデターを妨害する一切の工作、作戦は認められず、仮にもそれらが確認された場合、人質は問答無用で全員が命を落とすことになる。交渉はこちらが指定した時間帯以外受け付けない。以上」
一息に喋り終えると、疲れがどっと彼を襲った。
時間にして一時間にも満たないはずなのに、まるで何時間も演説を垂れてきたような具合だった。口の中がからからに乾いて、歯茎と頬の裏側がくっついて気持ちが悪かった。
長く息を吐いて神武は机の上に置いた写真を手に取る。桜色の縁取りの中では、今は亡き彼の妻が優しく微笑みかけていた。
「ぼくはやるべきことをやったよ、華。今までやって来たことに君はぼくを天国で叱るだろうけど、最後のこれだけは褒めてもらえるんじゃないかな」
普段の神武からは考えられないような、穏やかな、くたびれた口調で彼は語り掛けた。
彼は部屋の中のただ一つの机から、ただ一つの机を引いて、そこにぐったりと座り込んだ。背もたれに体重を預けて上を向き、蛍光灯の眩しさから目を守るかのように、目元を手で覆う。その体勢のまま、彼は写真の中の妻に向かって語り続けた。
「随分と色々な人間を巻き込んでしまった。なるべく償いはしたつもりだけど、それでもぼくのやったことが許されることはないだろう。例の安田という女性だって、あんな形で死んだと言われるより、ぼくのような人間に殺されたと伝えられる方が、残された人間の怒りもはっきりしたものとなるだろう。そっちの方が却っていいかもしれない。君みたいな殺され方をした人よりは、まだね」
窓から見える宵の口の街には、巨大なドゥーム『クローバー』のシルエットがゆっくりと街の中心を移動していた。自由の女神と同じ顔をした人面怪獣は、見た目の禍々しさとは対照的に、奇妙に緩慢な動きで街を横切っていた。
「来世は…………妹の子供は未だ生きているみたいだ。彼女も君と同じように、他人を癒す力の持ち主だ。そして君と同じように、正義の誰かのために力を使っているらしい」
突然のクーデター宣言と怪獣の出現に混乱する外野をよそに、社の最上階室は静かだった。室温調整器の低い音が耳鳴りのように伝わってくるのがせいぜいだった。
「愛は悪だ。平和は悪だ。善も、良心も、そういものは全部嘘っぱちだ。正義のために戦ってるような奴らが一番嫌いだ。もしもそれが本当に存在しているのならば、どうして君を救わなかったんだ? 何故正義のために君が死んでしまう必要があった? 世の中は不安と恐怖で満たされるべきなんだ。正義の味方が生まれないような世の中に」
彼の言葉とは裏腹に、今回のクーデター宣言は完全に彼の独断、かつほとんどの事前の計画を持たない行き当たりばったりのものだった。放送を逆探知して、神武が現在どこにいるかはすぐに警察に明らかになるだろうし、踏み込んでくるであろう彼らに対抗する装備も、かれには文字通り一切なかった。
事実、彼の行動は『ハンマーダウン・プロトコル』の頓挫を狙ったものだった。
『クローバー』も、整備不良を押して作動させたし、加えて攻撃性や防衛反応と言った系統の機能をオフにして出撃させていた。それらを設定した制御盤は今や粉々に破壊されて、変更を加えるのは不可能だった。
たとえ陸上自衛隊の戦車やヘリコプターが怪獣に砲弾、ミサイル、地雷を浴びせかけたとしても、彼女は身動き一つせず黙ってそれを受け止めるだろう。そして青銅色の微笑を浮かべたまま命を落とすのは、明白なことだった。
神武は今や自信の内に眠る怨念の声を無視し、『鉄槌』の阻止のために奔走していた。単なる妨害ではなく、プロトコルの要となる『クローバー』をわざわざ起動させたのも、外力からのそれの徹底的な破壊を望んでいたからだった。
「ふふ、だったら、ぼくは何故こんなことをしているんだろう?」
不意に部屋の電気が消えた。暗闇に壁一面のガラス窓から光が差す。
神武はゆっくりと上半身を起こした。机を挟む部屋の入り口近くには一人の女性が立っている。彼女は一歩踏み出し、窓からの光の中に進み出た。
その姿は神武の手の写真に写る、彼女の妻その人だった。
部屋の扉には鍵がかかっていたが、今この場に訪れた相手は、物理的な錠などなんの障壁にもならないことを神武は知っていた。
「…………社長、お戯れはおやめください」
「君の望むものを与えよう」
吉田千怒の声は女性の方からしたが、彼女は口を開いていなかった。
「この意味は承知しています。釈明をするつもりはありません。独断での『クローバー』の持ち出しと運用、クーデター宣言。しかし、『ハンマーダウン』に頼らなくとも、恐怖エネルギーを得る手段が確立されたのも事実なのです」
「目の前で死なれるのがよほど嫌だと見える。『ハンマーダウン』で死ぬのは何の変哲もない市井の人々だ。我々が実験で使ってきた死刑囚といったい何の違いがある? そもそもあなたは本当に世の中に悪意と恐怖を振りまきたいのか? 私怨に狂うも目的を取り違えているのではないのか?」
二人の話は平行線を辿った。お互いがお互いの話を聞こうとせず、自分の言いたいことを繰り返すばかりだった。
「ご覧ください。先日、通常電力から恐怖エネルギーへの完全な変換が成功しました。これによってより安定的に恐怖エネルギーを供給することが可能となったのです」
「全ての命は平等だ。それとも、あなたが何年か前まで姪に頼んでいたように、負傷した被験者たちを治療して使いまわすのも同じ理屈か?」
神武は机を挟んで、妻の姿をした存在と対峙した。彼女は蝋人形のような笑顔を崩しはしなかった。
遠くから救急車のサイレンが聞こえて来る。『クローバー』がもたらした破壊によって負傷した人々を助けに向かっているのだった。続いて建物の崩れる音と悲鳴、爆発音、『クローバー』の遠吠えが連続した。
「どうかお考え直しを。あなたほどの存在であれば、忍耐の時間が如何に大切かを知っていらっしゃるでしょう。吉田貫太郎の時代から恐怖の蔓延を望んでいたあなたが、どうして三十年という短い時間を待つことの出来ないわけがありましょうか」
「…………」
返答はなかった。神武の眼に汗が入ったが、彼は瞬きさえしなかった。束の間の静寂が彼には何十倍にも引き延ばして感じられた。拳は固く握られ、唇は強く噛まれて張っていた。
妻の姿の後ろから、影が身を起こすように吉田千怒が現れ、扉の方に歩み寄るとそこから出て行った。ドアノブに手をかけた時にバキリという嫌な音がした。錠が壊された音だろう。
去り際に千怒は言い残す。
「あなたの奥方だが…………あなたは本当に死体の状況を確認したのか? 本当に彼女は、『命を分け与えすぎた』のか?」
千怒の去った部屋にいるは、神武と彼のかつての妻を似せた者だけだった。
部屋に明かりが戻る。
こめかみの汗をハンカチで拭い、神武は緊張を解いた。
彼は改めて女性に向き合い、その目を見る。ちょっとした皺やほくろの位置までもが彼の記憶と瓜二つだった。
「何物かは知らないが、早くここを去ることだな。さもなくば無理やりにでも追い出す。これ以上私の神経を逆撫でするのはやめてくれ」
踵を返しかけた神武に、女性が呼びかけた。
「slu-1-18-08-sh-0」
彼の動きが止まる。驚愕に目を見開きながら彼は振り返った。
「私たちの口座番号よ。あなた用心深いから、お互いの誕生日なんて絶対に使わせてくれなかったもんね。書き留めておくメモもなし。なるべく意味のない英語と数字の組み合わせで作らなきゃいけないから、苦労したわ」
その番号は、彼と妻だけが知るものだった。彼女の言葉の通り書き写したものもない、余人には知ることの出来ない数字と英語の羅列だった。
神武の脳裏に妻とのあらゆる思い出が一挙に押し寄せた。彼は忘れていた何かを胸から吐き出しているようだった。
「君は…………」
信じられない思いで神武は妻に近づいた。べたべたと頬や眉毛を撫で回して、生ある温かい肉に触れる。妻の存在を確かめるようにひとしきり触った後、彼は妻の両肩から手を滑らせ、豊かな黒髪を撫でた。
「なんて言ったらいいのか、その…………本当に…………」
「いいのよ」
妻は微笑んだ。普段は無愛想な彼女が夫だけに唯一見せる表情だった。ぎこちなく下手な微笑ではあったものの、却ってそれが人間らしさを醸し出していた。
神武の眼から一筋涙がこぼれた。
「いいのよ」
もう一度そう言うと、彼女は下手に両手を広げた。神武を迎えるお決まりの仕草だった。神武が戸惑いながら抱擁を受け止める。
「…………すまない、側にいなくて」
「いいのよ」
「君を失った時から、ぼくは子供っぽい怒りの感情に任せて沢山の人を…………」
「いいのよ」
彼女の口調は生前となんら変わりはなかった。
「だから…………もっと殺しなさい」
突然妻の体が崩れ、ピンク色のゲルの塊に変質した。それはほほに涙を伝わす神武を包み込み、圧殺し、血と肉の塊にしてから自らの糧とした。神武丈が感じた苦痛はどれほどのものだったかは測り知れない。あるいは心地良さの中で息絶えたのか? いずれにせよ分厚い桃色のゲルの向こうからでは、悲鳴も、あるいはそれ以外の言葉も届くはずはなかった。
遠くからのサイレンはまだ鳴り続けていて、今ではそこにパトカーと消防車のものが加わっていた。人面怪獣クローバーは、全てを微笑と共に見下ろしていた。
渡り廊下を歩く吉田千怒は懐から小さな機械を取り出し、音声入力を行う。
「『クローバー』攻性機能回復。反射防衛機構を再起動。セーフシステムを全てアンロックに変更。遠慮はいらん。動くものは全て殺せ」
女神の瞳の奥に赤い光が灯り、動きが目に見えて機敏なものに変わった。神武が初めて『クローバー』を目にし、その威力に恐れをなして取り付けた安全装置は、今やすべてが意味のないものに変わっていた。
人面怪獣は手始めに、今までの穏やかさに油断して近づいてきた一人の若者を踏み潰した。はみ出た彼の手の中のビデオカメラだけが、怪獣の撮影を続けていた。




